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先日の土曜日に、第4回目の歴史講座が開催された。
たくさんの人で会場が埋め尽くされた。とても人気が高い。
テーマ/新川開削普請と尾張藩給人飯田源一郎家の由緒(2)
―江戸時代前期の大治の村々―
講 師/中部大学教授 篠宮雄二氏
大治町の歴史を語るのに、やはり無視できないのは、“川”の存在である。
川は、人間に大きな恩恵を与えてくれるが、時として水害として牙をむく。
宝暦・天明期(18世紀後半)に庄内川流域で大きな水害が発生した。
宝暦7年(1757)5月の水害では、尾張1362か所の堤防が決壊し、尾張・美濃の954村が被害を受けた。
家屋の倒壊や流出は、5857件あった。
庄内川の氾濫に対応するために、九代尾張藩主徳川宗睦の藩政改革の際に、新川の掘削が行われた。
天明4年(1784)に測量が開始され、天明8年(1788)に完成している。
私も初めて知ったのだが、あの新川は、江戸時代に造られた人工の川だったのである。
資料では、新川の完成により、水害も過去よりは減ったという。
砂子村に普請役方元小屋が設置され、新川の掘削に関係が深かった。
その砂子村には、飯田源一郎という200石の知行を拝領する尾張藩給人が治めていた。
この飯田家の先祖は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、その後は、徳川家に関する鷹匠頭だったようだ。
しかし、今では砂子で、飯田とつく苗字の人はいない。どうなったのであろうか。
歴史は私たち現代の日本人の人生の道標である。過去の歴史的史資料から、さまざまな生活環境がわかっ
てくる。いろいろと検証することによって新しい事実の発見ができる。
歴史はおもしろい。数々の資料もとに、想像を膨らます。そして歴史的真実はなんなのかを追求する。
まだ、11月にも歴史講座は開かれる。大治町のまだ見つかっていない歴史を掘り下げていきたい。
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