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まちづくり研究会では、「海部地域の気になる話をトコトン調査をする」として、マチケン調査団と称
し、地域の疑問や課題を見つけて、調査を行っている。
今回は、海部地域の隠れたスポットを調査し、紹介するコーナーとしたい。
●あま市甚目寺飛行場跡(防空壕)
別名、清州飛行場と呼ばれていたようだ。
資料によると、国道302号線の東側に位置し、今は、広い田園地帯となっている。
ちょうどあま市甚目寺公民館や五条高校のあたり。
東海地区を中心とした中部地方へ爆撃にくる米軍爆撃機B-29を迎撃するための拠点飛行場とされた。
配属された飛行第五戦隊は複座戦闘機 「屠龍」 約40機と「五式戦」20機前後という規模だった。
飛行場の建設は内務省の一方的な申渡しから始まり、収穫間近の小麦を引き抜いて捨てるほど急ピッチで
進められたという。
昭和19年の10月に飛行場開きが行われ、翌年から米軍戦闘機の攻撃がにより、終戦までに20〜30名の戦死
者を数えている。
最初に私たちが見学したのが、福田川のスグ西にある壕である。
学芸員の近藤さんによると、防空壕というより、飛行指令室だったという。
現在は、ほとんど埋め戻されて、ごく一部が残っているだけだが、未だにここまで残っていることに驚い
た。埋められていても、壕はかなり深いようだ。
爆撃を受けても耐えられるように鉄筋を入れ、約20cmの厚さのコンクリートで覆われている。
地下への階段も、らせん状になっており、破壊されにくいように建設されていた。
過去に、この飛行場に配属されて軍務に就いていた方のご子息に話を聞いたことがある。
この飛行場が空襲を受けた際、飛行場から大八車に燃料の入ったドラム缶を載せて、命からがら木田駅方
面に避難したとのこと。
爆撃により、顔や体は真っ黒になりながらも、貴重な航空燃料を守ったとのこと。
迎撃機として配備されていた屠龍は、攻撃力は高かったのの、B-29を守るP-51には、速度で太刀打ちで
きなかった。
本土決戦に向け、戦力温存のため、実物大の模型を置き、木の茂みに本物を隠していたようだ。
兎にも角にも、こんな近くで、戦争の爪痕が未だに残っていることに驚嘆した。
当時は、どんな思いでここにとどまったのだろうか。
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