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一、 その土地へ
「すみません、今、運転中なんですが」
すでに10分以上は話しているであろう相手に、カヤは、懇願するように言った。
その相手は、これから向かおうとしている新しい土地で借りることができた家の大家であった。やっとのことで承諾を得、鍵も受け取っているというのに、引っ越しのための移動中の車への電話であった。
「かみさんと一緒になったらくっついてきた家で、別に貸さなくたっていいんですよ。あるがままでいいって仰るから貸すのであって、あれだけの家で3万は安いと言う人もいるんですよね。まあ、空き家にしておくと管理は難しいですし、近所にも迷惑がかかるし・・・。ああそうだ、水回りは直しましたから。6万かかりましたよ。そうそう、仏壇は方丈さんに来てもらって、魂はきちんと抜きましたから・・・」
この期に及んで、いったい何を言いたいのだろうと、幹線道路を走る車への電話に、カヤは苛立ちを覚えざるを得ない。初対面で感じ取った予想以上に、もしかしたら先が思いやられることになるのではないかと心配が立つ。実際、事あるごとに同じことを何度も繰り返すのは、彼の特質なのだろうか。この時点で既に、これから住む見知らぬ土地への不安感がカヤに芽生え始めていた。
「あのぅ、もう向かっているんです。すみません。何度も言いますが、今、運転中ですから。それに、きちんと承諾いただいているわけで、だいいち、今そちらに向かっているんですよ、引っ越すんですよ」
片手運転のカヤの隣の助手席には、89歳目前の母親・好乃が、一羽のセキセイインコの入った鳥かごを膝に座っている。かごの鳥は落ち着きなく、鳴きもせずに止まり木にしがみついている。その様子と、周囲を気にしながらカヤは、左手に携帯電話を握りしめていた。
「古い家だけれど土台はしっかりしてますよ。だけれど、傷んでいるところもあって、それを修理してまで貸すのは割があわないんで・・・」
「何度も申し上げました。あるがままで結構ですって。申し訳ございません、ともかく運転中ですから、向かっているんですから」
相手はまだ言い足りない様子で、やっと電話を切ってくれた。通話時間、16分と37秒だった。
1週間前に家は、男3人の手を借りて空にしてあった。
築40年以上は経っているだろうか。
カヤがこの大家の家を選んだのは、工房として使える、床がコンクリートの元事務所として使っていた部屋があったことと、数ヵ月後にオープン予定の店に徒歩5分という利便さがあったからにほかならない。部屋数は6で、納戸と外に倉庫もある。70坪ほどの庭木のある平屋で、89歳を迎えんとしている母親・好乃との同居を考えると、その他は眼をつぶるしかなかった。
田舎暮らしの、借家を探してのスタートは、簡単ではない。何のつてもなく、老いた親を抱えて何もかもひとりでやらなければならない彼女である。とにかく、必死さが功を奏したのか、それとも偶然か、探し始めた一日目でこの土地に辿り着き、1ヶ月後には店となる家と、5ヶ月後には住む家も見つかったのは、稀なる幸運と言っていいだろう。つてのない田舎での家探しは、一長一短では叶わぬことなのだら・・・。
ではあるが、この借家は窮余の策で借りたのであって、いつか必ず出るんだという思いがある限り、現状以上のことは何もすまいと、カヤは心を硬くした。
この町は、平易に言えば、不思議な町であった。
訳あって、真剣に田舎暮らしの家を探そうとした彼女が、その一日目でこの土地と出遭ったことを振り返れば、そののち店のオープン後の客たちから、「あなたがここに来たのは偶然でなく、必然」だとか、「仏縁」「お導き」「お役目」等々の言葉を、なぜか立て続けに言われるのだが、それはほんの序盤に過ぎなかった。
いや、なぜとは言い切れないか。店の暖簾に、仏像というふた文字があるからかもしれない・・・。
その前に、店として借りられた家は仏像を創っていなければ、恐らく借りることはできなかったであろう家で、かつてはこの町きっての旧家であり、土地の誰もが口を揃えてこの家は無理だよと言われていたのが借りられたのは、彼女が仏像を創る人であるということしか考えられなかった。
そうと言えるのは、転居してしばらく経ってから、この家に驚く縁があったことを知ったからで、その際全身が総毛だったのを、その後折りに触れ思い出すこととなるカヤであった。
この町から車で1時間と少しの街に住んでいた彼女はその日、母親をデイサービスに見送ったあと、車で家探しに出かけた。 ともかく、東京から近からず遠からずの場所に限定し、とある幹線道路を、知っている土地のある方角に車を走らせた。
6月に入ったばかりの、よく晴れた日だった。
家探しなどという面倒なことより、こんな日はかつてのようにさしたる目的もなく、ふらりと出かけたかった。都会暮らしの週末は、助手席に真っ白い毛を短く刈られたマルチーズのメイコを乗せて郊外へよくドライブした彼女は、ついでに週末過ごす家が欲しいなどと、40代の独人女のちょっとした贅沢を軽く考えていたりもしていた。
しかしそんな出遭いは用意されているはずもなく、時は “その時” まで、漫然と経っていくのであった。
途中どの土地、どの町を通っても、体温に微熱ほどの変化もなく、通過した町はなぜか静かすぎて魅力がなかった。出発前の意気込みとは裏腹に、ただ淡々と日常が流れている光景を目にしたに過ぎなかったが、無意識に、自分が受け入れられるはずの土地との出遭いは他にあるような気がしてならなかった。また同時に、そう自分に言い聞かせていることにも気づいてもいた。
県境の、美しい湖のある町まで来てしまった。
そこで老夫婦と出会う。古い家の玄関先で不意に出会ったわけだが、人口の少ない奥深い土地は、よそ者に対してとかく警戒心を持つものだが、得てして好意的でもある。老夫婦は大きな家にふたりだけでひっそりと暮らしていた。家探しの話をしだしてしばらくすると、すっかり腰の曲がってしまった妻は、カヤにお茶と茶菓子を出してから裏の畑に行って帰ってくると、サヤインゲンをパンパンに詰めた袋を差し出した。
信頼したのだろうか。それとも、こんなところまでひとりで家を探しに来たのには何か訳があると不憫がったのだろうか、思いついたように、管理を任されているという一軒のログハウスに連れていってくれた。東京の資産家の持ち物で、売りに出されていた。
湖のまん前である。まだ新しい。暖炉がある。無垢材の大きなテーブルがある。衣類乾燥機がある。
カヤは思った。陶芸を始める前に時間を戻すことができるなら、ここで余生を過ごすのはどんなに素敵だろうと。けれども、今探している条件とは大きく異なっていて、それよりも何よりも、彼女には今、買う資金がなかった。マンションを売って、3度目の引っ越しをしたときには十分すぎるそれがあったというのに・・・。
老夫婦にまた訪れる約束をして、来た道を戻ることにした。
なぜこの道を知っているかと言えば、東京時代の仕事仲間との遊興ゴルフで2度ほど手前まで来ていたからで、その頃彼女はある大きな組織の中に入って、その組織が発行する印刷物の校正を任されていた。全体からみればその一部ではあるが、一手に任されていた彼女はこの組織と出合うことでフリーになり、これまで属していた事務所で得られていたギャラの倍近くを得ることができていた。そこそこの高額である。
しかし11年後にはそれを捨てて、田舎暮らしを選んだ。思い立つと、ぷいと方向転換をする彼女にしてみれば、11年は十分長く、仕事にも東京にも未練はなかった。思えばこの組織の中は職員はもとより、彼女のようないわば委託部外者にもずぶずぶの温床で、外部との癒着や横領などがまかり通る、表向きのクリーンなイメージからは程遠い組織であったため、彼女にしてみれば見切りをつけたと言ってもいいだろう。
けれども、そんな組織であったからこそ、その後悠々自適な田舎暮らしを目論むことができたわけで、間違いは許されない厳しいポジションであるにせよ、同じ温床の中であったため、さしたる苦労はしていなかった。
そのためか、その後、苦労なくして得たお金は瞬く間に両の手からこぼれ落ちてしまうのであった。
途中、コンビニの駐車場で地図を広げながら現在地を確かめた。シーズンではなかったとはいえ、通りかかった名の知れた観光地はひっそりとしていて、人と接することもなかった。
今日はまだ一日目である。帰ろう、カヤはそう決めてまた車を走らせた。
運転しながら、また般若心経を唱え始めた。これで何度目だろう。
般若心経・・・。覚えようとして一度は頓挫したものの、なぜか二度目はすんなりと覚えられた。
良い出会いがありますようにとひたすら唱えたのは、彼女にそうせざるを得ない逼迫感があったからである。
カヤは、通りかかった薄グレーのコンクリートの建物に目をやった。県境の村役場であった。
ハンドルを右に切って、駐車場に車を入れる。目の前が正面玄関で、立てばドアが勝手に開く。動く職員たちの姿がちらちらする。しかしカヤは、そこしか目に見えていないように、正面の各種案内のラックに手が伸びていた。そしてその中央にあったカラー印刷A4四つ折りの、俯瞰した山々をイラスト化した、淡い緑色のパンフレットを手にしていた。
『木のむら』・・・いいかも。お寺もある・・・。
初めて知る村の名前であった。
カヤはすぐに思った。行ってみよう、と。
真っ赤な四輪駆動の車には、当時ナビゲーションシステムは搭載していなかった。彼女が運転免許を取ったのは東京で27歳のときであったが、それ以来車を手放したことはなく、地図を見るのも大好きだった。知らない土地を走ることに喜びを感じていた。なので地図さえあれば、どこへでも行く自信があった。
陽は西に傾き始めていたが、カヤは即その村を目指して車を走らせていた。
その村に入った。
村の中心を二分する信号を通過してしばらくすると、その先は曲がりくねった道で山に向かっている。
その手前で、『木のむらへ ようこそ』 と書かれた白いゲートをくぐる。
と、その時、不意に彼女の口を突いて出た言葉があった。
「え? 何? この気持ちの良さは・・・」
口から何かがすうっと入ったような、みぞおち辺りにえもいわれぬ気持ち良さがある。
たった一度きりであったが、その感覚はいつまでも彼女の体に染み付いていて、これもまた折りに触れて思い出したり、また人に話したりすることになるのであった。
だが、その気持ちの良さとは裏腹に、時が重なると、この土地へ向かう車の中で感じ取った不安は、未だかつてない経験としてカヤに次々と起きる出来事の、まるで彼女に与えられた、試練の予兆だったのかもしれない。
しかしまた、この土地あの場所の入り口で味わった『気持ちの良さ』を覚えている限り、いつかまた同じ気持ちの良さが味わえるのではないかという思いの中で、カヤは何かに操られたように翻弄されていくのであった・・・。
つづく (推敲・加筆をしました)
って、また当分閉めちゃいます、扉。。 m(_ _)m
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