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11/27:どうやらこの冬は暖冬らしいです。

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アデルの恋の物語

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アデルの恋の物語(1975年)
原題:L'HISTOIRE D'ADELE H.
時間:97分 / カラー
原作:フランセス・V・ギール
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン・グリュオー、シュザンヌ・シフマン
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:モーリス・ジョーベール
出演:イザベル・アジャーニ 他

 1863年、カナダの港町アリファックスに一人の女性が降り立つ。下宿先に落ち着いた彼女は名前をミス・ルーニーと名乗る。どうやら恋人である英国軍のピンソン中尉を探しているらしい。しかし彼女の言葉とは反対に、ピンソン中尉には復縁の意思はないようだが……


 ☆ ☆ ☆


 これは文豪ヴィクトル・ユゴーの愛娘、アデル・ユゴーの生涯を綴った『アデル・ユゴーの日記』が原作になっているんだけど、とにかくアデルを演じたイザベル・アジャーニの激しさに圧倒されまくり。まさに究極の愛に生きる女!っていう感じなのよ。アデルは33歳の設定なのに、イザベル・アジャーニは当時まだ18歳だったわけ。当然のことながらアデル役には若すぎるんじゃないの?っていう声がね、あったみたいなのね。でもね、トリュフォーは「誰もそんなこと考えないだろう」って言い切ったんだってさ。

 その言葉どおり、もうこの作品はアデル・ユゴーの映画っていうよりはイザベル・アジャーニの映画っていう感じ。真の主役の座をね、女優が完全に乗っ取ってるよね。前半の抑えた感情を紙に向かってペンを走らせるときの表情も、後半の感情が表にあらわれたときの激しさも、素晴らしいとしか言いようがないわけ。トリュフォーの映画で好きな女優を選べって言われたら、私は『アメリカの夜』のジャクリーン・ビセットか、この映画のイザベル・アジャーニだね、絶対。

 でもね、イザベル・アジャーニの演技に引き込まれることは確かなんだけど、これは今見ると完全にストーカー女の話だよね。別れた男を執拗に追いかける偏執狂な女ってのは、どう考えてもストーカー以外の何者でもないしね。今であればサスペンスとかホラーのジャンルで物語が作られそうな感じよ。現代の映画だとさ、ストーカーっていう行為を非難するにしても擁護するにしても、その精神構造を明らかにするっていうか、ストーカー女の心理を物語の中心に持ってきて「ストーカー=狂気」みたいな視点で描くのが普通だと思うんだ。もちろんトリュフォーはそうはしないんだけどね。

 トリュフォーはね、執念深い女の狂気を描いたんじゃなくて、一人の男に人生のすべてを捧げた女の愛を描いていると思うんだよね。最後にアデルがさ、愛する対象だったピンソン中尉に話かけられても見向きもしないで、彼の顔さえまともに認識できなくなって、愛する対象を失ってもまだ愛に身を投じる姿が映し出されるわけ。男に愛を捧げるんじゃなくて、愛そのものに身を捧げてしまうのよ。これはね、恋に生き、恋愛映画を撮り続けたトリュフォーの究極の愛の形と言えるのかもしれないよね。トリュフォーはきっと恋の究極的な形をアデルに投影してるはず。

 それで、結局のところ恋愛とは何かということを考えてみたとき、誰かを愛するということは個人のエゴ以外の何物でもないということをこの映画は改めて教えているような気がするんだよね。人を好きになれば相手を想うと同時に、その相手を想う自分をも愛するようになるわけでしょ。よく使われる表現だと、自分自身を好きにならなければ心から他人を愛することができないって言い方になっちゃうんだけどね。あと、想いを相手に打ち明けるっていうのは、同じように自分を愛の対象として見て欲しいって相手に強要するのと何ら変わりはないわけだし、恋愛って自己愛的なものが障壁になってさまざまな問題が生じるものなんだよね。そして自己愛が強ければそれだけ対象への執着や独占欲も強くなる。だから自己愛の強さが狂気へと導かれる過程というか、転換期というか、目に見える変化が生じたときには、本人の性格や育った環境といった心理面の問題を取り上げてあれこれ論じることは可能だと思うんだよね。

 だとすれば果たしてこの映画のアデルはどこで狂気に陥ってしまったんだろう。アデルにとっては自分がヴィクトル・ユゴーの娘である事実も含めて、この映画に描かれるすべてが真実だったはずだよね。ピンソン中尉との恋愛がアデルの勝手な思い込みによってつくられた妄想だとしてしまうことも、それを狂気と呼んでしまうのも簡単だと思う。でも、こうして書いてしまうとひどく陳腐な言い方になってしまうんだど、もしかしたらこの映画は狂気と正気の境界線はどこにあるのかということを表現しているのかもしれないよね。そして正気であると考えられる人間と狂気である人間の違いはその人の質の問題であって、決してどちらか一方に分類されるわけではないんだと思う。誰もが正気と狂気のあいだのどこかに位置づけられていて、そこには明確な境界線は存在しない。そして恋愛を目の前にしたときに、そういった違いを持ち出すことはナンセンスであるってことを、トリュフォーはこの映画で伝えたかったのかもしれないよねえ。

※これはアマゾンに投稿したレビューをさらに長々と書いたものです。

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これはまた本格的なレビューですね。amazonに書いていたなんて,知らなかった。。。

映画を観ていないので,何とも言えないんですけど,狂気と正気の区別って難しいですよね。たとえば,ストーカーっていう言葉ができてしまったので,異性を追いかける人間は十把一絡げに悪者であると囓られるようになってしまいましたけど,冷静に考えると,最終的には相手を殺してしまうようなところに行ってしまう追っかけ行為と,「ん?可愛いジャン…」ってことでフラフラついていくだけ(?)の追っかけ行為はまるで違うわけで…。

いや,おんなじなのかなぁ…。

ううむ。もしかすると,狂気と正気と同じように地続きなのかもしれませんねぇ。

2009/11/2(月) 午後 8:17 NONAJUN

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高校時代のことですが...その、一般的にストーカーとよばれる行為(待ち伏せ、追跡、電話および告白攻撃、友人を伝書鳩に利用した数多くの手紙...)を生活の一部としていた私にはこの映画は人ごととは思えず、なんだかしんみりしてしまったのでありました。その行為におよんでいる私はもちろん正気でしたが、まわりの人間はあえてストーカーといわず情熱的なんだねと......ま、田舎の芋女子高校生ですしかわいいもんぢゃん♡

いまでも好みのタイプの人をみるとふらふらついていってしまいます...ついていったところでどうもしないんですが。やっぱりこれは正気狂気の話ではなく質の問題なんですよ、ね。ということにしておきませんか...

2009/11/5(木) 午後 9:25 かえで

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正気狂気で考えると、インターネットというのはやはり正気を狂気に転換する道具と言えるのかもしれませんね。こうして正気で文章を書いていても、数日後に読み返してみるとこれはまずいという感じになったり、正気で出た言葉が誰かを傷付けてしまう可能性もでてくるわけですし...

改めてそういったことを考えると阿部ちゃんの作品が「ポスト・ネット時代」の小説といわれるだけあるなあと感じるんですよね。『ニッポニアニッポン』あたりからですか。最近読んでいないのでだいぶ古いネタになっていると思いますが。話それましたね。

2009/11/5(木) 午後 9:39 かえで

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アデルーイザベル・・・
タッチ、仏映画の感覚、香りが好きです!
小説「サンデー・ラヴァー」一度読んでみて下さい。

2009/11/8(日) 午後 7:31 [ ユウジ ]


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