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11/27:どうやらこの冬は暖冬らしいです。

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華氏451

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華氏451(1966年)
原題:FAHRENHEIT 451
製作国:イギリス / フランス
時間:112分 / カラー
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ニコラス・ローグ
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ他


 近未来、活字のない社会。そこでは読書が全面的に禁じられ、本を読む者は反社会分子とみなされていた。すべてが耐火住宅になり、本来ならば火を消すはずであった「消防士」の仕事は禁止されている本を探索し、それらに火をつけて消却すること。有能な消防士として昇進も約束されているモンターグ青年は、ある日モノレールの中で近所に住むクラリスという女性に「本を読んだことがある?」と声をかけられる。家でテレビばかりを見、薬物で恍惚感に浸る妻に見た目はそっくりながらも溌剌としたクラリスと親しくなるにつれ、モンターグは禁止されている書物へ興味を抱くようになる……


 ☆ ☆ ☆


 これまでトリュフォーの映画についていくつか記事を書いてきましたが、私が彼の作品に惹かれる大きな理由は、そのどれもが本好きの人間のための映画だからです。トリュフォーの映画では書物を読む、手紙を書く、文章をタイプするなどといった行為が非常に重要な役割を果たしています。どの作品も読書好きのトリュフォーらしいユーモアに彩られ、本好きの人間であれば間違いなく彼の心配りに親しみを感じることでしょう。

 そんなトリュフォーの書物への愛がひしひしと伝わってくるのがこの『華氏451』です。活字が全面的に禁止された社会を描いたレイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』を映画化したものなのですが、トリュフォーが大のSF嫌いであったこともあり、SF的な要素を抑えた人間味溢れる作品に仕上がっています。一部では駄作とみなされトリュフォー自身も失敗作と認めていたらしいのですが、なによりも書物への愛に満ちた素晴らしい映画なのです。

 おそらくこれは原作も相当面白いはずです。本が禁止されるということと、それを取り締まるのが消防士という発想。そして原作の世界観を見事に映像化したトリュフォーがすごい。60年代からみた近未来という設定だから、もしかしたら今頃の時代を想定したのかもしれません。「いとこ」たちが出演するスクリーン、モノレール、規格化された住宅...細部まで見るとこれはちょっとおかしいよねというところもありますが、殺伐としたひとつの時代のイメージを十分に伝えています。

 そして何より本が燃えるシーンの美しさと、本を読むシーンの素晴らしさ。これらのシーンに心が動かされるということは、感情移入ではないけれど本に愛着を覚えるからではないでしょうか。もちろん映画の主人公はモンターグなのですが、焦点が当てられるのは本です。本が燃えるシーンを見つめている時の自分の心理を見つめ返すことによってこの映画の素晴らしさがわかるのだと思います。そして本への愛着があれば、自ずとラストシーンが美しく感動的なものになるでしょう。トリュフォーの映画はどれも脱線が面白く泣いている暇などはないのですが、この映画のラストだけは特別でした。映画好きの人だけでなく、本が好きな人にも是非観てもらいたい作品です。


 ☆ ☆ ☆


 この『華氏451』を『ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』で知られるフランク・タラボン監督がメガホンを取り、ハリウッドでリメイクする話がどうやら進行中のようです。2004年にタラボン氏はトリュフォー版『華氏451』を「パッションに欠ける」と言い、今回の企画をリメイクとも思っていないようで、これまで一度も映画化されていない本の映画化と考えているらしいのです。はて、トリュフォー版のどこがパッションが欠けているというのでしょうか。トリュフォーほど書物への情熱に溢れた作品を撮り続けた映画監督が他にいるとしたらぜひ教えてもらいたいものです。トリュフォーの書物への愛が彼の映画の根底にあるということはこの『華氏451』に限らず、女性や恋愛テーマにした他の作品を観ても歴然としています。例えば脚フェチ男の恋愛遍歴を描いた『恋愛日記』(1977年)のなかにこのような台詞があります。

「一冊の本が出版されるということは、この世に赤ん坊が生まれるのと同じように素晴らしいことなのだ」

 タラボン氏がトリュフォー版『華氏451』を「パッションに欠ける」としたのは、原作がとても情熱的な本であるにもかかわらず、原作にみられる情熱が映画には感じられず、それどころかとてもビザールな作品に仕上がっているという点からです。原作を読んでいないので私も偉そうなことは言えないのですが、ハリウッドのCG演出に慣れてしまった人間が、トリュフォー版『華氏451』を奇妙な作品と感じるのは致し方のないことのようにも思えます。しかしこのリメイクの話、一度消えたかと思いきや、2008年の時点でキャスティングの段階という情報があったり、いまひとつとぱっとしないようです。個人的にはハリウッド演出お得意の爆破シーン(タラボン氏の言うパッションとやらが見られるのはおそらくこれなのではないかと思うのですが)をてんこ盛りでやられるのであれば企画倒れで終わって欲しいのですが...どうなるのでしょう。トリュフォーの人柄込みで観てしまう、トリュフォーが撮るから面白いと考えてしまう私としては、ハリウッド版はあまり見たくないというのが本音なのです...

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アデルの恋の物語

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アデルの恋の物語(1975年)
原題:L'HISTOIRE D'ADELE H.
時間:97分 / カラー
原作:フランセス・V・ギール
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン・グリュオー、シュザンヌ・シフマン
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:モーリス・ジョーベール
出演:イザベル・アジャーニ 他

 1863年、カナダの港町アリファックスに一人の女性が降り立つ。下宿先に落ち着いた彼女は名前をミス・ルーニーと名乗る。どうやら恋人である英国軍のピンソン中尉を探しているらしい。しかし彼女の言葉とは反対に、ピンソン中尉には復縁の意思はないようだが……


 ☆ ☆ ☆


 これは文豪ヴィクトル・ユゴーの愛娘、アデル・ユゴーの生涯を綴った『アデル・ユゴーの日記』が原作になっているんだけど、とにかくアデルを演じたイザベル・アジャーニの激しさに圧倒されまくり。まさに究極の愛に生きる女!っていう感じなのよ。アデルは33歳の設定なのに、イザベル・アジャーニは当時まだ18歳だったわけ。当然のことながらアデル役には若すぎるんじゃないの?っていう声がね、あったみたいなのね。でもね、トリュフォーは「誰もそんなこと考えないだろう」って言い切ったんだってさ。

 その言葉どおり、もうこの作品はアデル・ユゴーの映画っていうよりはイザベル・アジャーニの映画っていう感じ。真の主役の座をね、女優が完全に乗っ取ってるよね。前半の抑えた感情を紙に向かってペンを走らせるときの表情も、後半の感情が表にあらわれたときの激しさも、素晴らしいとしか言いようがないわけ。トリュフォーの映画で好きな女優を選べって言われたら、私は『アメリカの夜』のジャクリーン・ビセットか、この映画のイザベル・アジャーニだね、絶対。

 でもね、イザベル・アジャーニの演技に引き込まれることは確かなんだけど、これは今見ると完全にストーカー女の話だよね。別れた男を執拗に追いかける偏執狂な女ってのは、どう考えてもストーカー以外の何者でもないしね。今であればサスペンスとかホラーのジャンルで物語が作られそうな感じよ。現代の映画だとさ、ストーカーっていう行為を非難するにしても擁護するにしても、その精神構造を明らかにするっていうか、ストーカー女の心理を物語の中心に持ってきて「ストーカー=狂気」みたいな視点で描くのが普通だと思うんだ。もちろんトリュフォーはそうはしないんだけどね。

 トリュフォーはね、執念深い女の狂気を描いたんじゃなくて、一人の男に人生のすべてを捧げた女の愛を描いていると思うんだよね。最後にアデルがさ、愛する対象だったピンソン中尉に話かけられても見向きもしないで、彼の顔さえまともに認識できなくなって、愛する対象を失ってもまだ愛に身を投じる姿が映し出されるわけ。男に愛を捧げるんじゃなくて、愛そのものに身を捧げてしまうのよ。これはね、恋に生き、恋愛映画を撮り続けたトリュフォーの究極の愛の形と言えるのかもしれないよね。トリュフォーはきっと恋の究極的な形をアデルに投影してるはず。

 それで、結局のところ恋愛とは何かということを考えてみたとき、誰かを愛するということは個人のエゴ以外の何物でもないということをこの映画は改めて教えているような気がするんだよね。人を好きになれば相手を想うと同時に、その相手を想う自分をも愛するようになるわけでしょ。よく使われる表現だと、自分自身を好きにならなければ心から他人を愛することができないって言い方になっちゃうんだけどね。あと、想いを相手に打ち明けるっていうのは、同じように自分を愛の対象として見て欲しいって相手に強要するのと何ら変わりはないわけだし、恋愛って自己愛的なものが障壁になってさまざまな問題が生じるものなんだよね。そして自己愛が強ければそれだけ対象への執着や独占欲も強くなる。だから自己愛の強さが狂気へと導かれる過程というか、転換期というか、目に見える変化が生じたときには、本人の性格や育った環境といった心理面の問題を取り上げてあれこれ論じることは可能だと思うんだよね。

 だとすれば果たしてこの映画のアデルはどこで狂気に陥ってしまったんだろう。アデルにとっては自分がヴィクトル・ユゴーの娘である事実も含めて、この映画に描かれるすべてが真実だったはずだよね。ピンソン中尉との恋愛がアデルの勝手な思い込みによってつくられた妄想だとしてしまうことも、それを狂気と呼んでしまうのも簡単だと思う。でも、こうして書いてしまうとひどく陳腐な言い方になってしまうんだど、もしかしたらこの映画は狂気と正気の境界線はどこにあるのかということを表現しているのかもしれないよね。そして正気であると考えられる人間と狂気である人間の違いはその人の質の問題であって、決してどちらか一方に分類されるわけではないんだと思う。誰もが正気と狂気のあいだのどこかに位置づけられていて、そこには明確な境界線は存在しない。そして恋愛を目の前にしたときに、そういった違いを持ち出すことはナンセンスであるってことを、トリュフォーはこの映画で伝えたかったのかもしれないよねえ。

※これはアマゾンに投稿したレビューをさらに長々と書いたものです。

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夜霧の恋人たち

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夜霧の恋人たち(1968年)
原題:BAISERS VOLES
時間:101分 / カラー
脚本:フランソワ・トリュフォー、クロード・ド・シヴレー、ベルナール・ルヴォン
撮影:ドーニス・クレルバル
音楽:アントワーヌ・デュワメル
出演:ジャン=ピエール・レオー、クロード・ジャド 他

軍隊に志願するも素行不良のため除隊となってしまったアントワーヌはパリに戻り、その足で売春宿に行ったあと、昔のガールフレンドであったクリスティーヌを訪ねる。クリスティーヌは留守だったが彼女の父親にホテルの夜勤の仕事を紹介してもらうことができた。しかしトラブルに巻き込まれ、即刻クビに。そしてひょんなことから探偵事務所に就職することになり……
「アントワーヌ・ドワネルの冒険」第三部。「ドワネルもの」のなかではもっとも可愛らしい作品に仕上がっている。


 ☆ ☆ ☆


 『二十歳の恋/アントワーヌとコレット』で見事、コレットにフラれたアントワーヌ。失恋のショックに耐えきれず、願いもしない軍隊に自ら入隊してしまう(これもトリュフォーの経験そのまま)しかしここでも素行不良とみなされ、除隊を余儀なくされてしまう。まあ、これは傍から見てもそりゃそうだよね、っていう感じ。仕事も恋もどこに行ってもあっちへフラフラこっちへフラフラしてるんだから、ちょっとは落ち着けよって思うわけ。ひとつのところに留まっていることができない風来坊ぶりは相変わらずなんだけど、若干天然ボケはいってるよね。小さい頃は感受性が強そうで、もうちょっとしっかりしてたんだけど。でも、なぜだかアントワーヌに肩入れしてしまうのだ。

 キャラが変わったといいつつも、少年時代のアントワーヌの姿が失われていない部分もあって、非常に淡々としてはいるのよね。無表情というか、なかなか感情を表に出すことがないわけよ。だからトリュフォーは彼に手紙を書かせたり、突発的な行動をとらせたりするんだと思うのね。本心をなかなか表に出さないタイプの人間の言動って、どこか滑稽だし、天然ボケのように見えることがあるじゃない。きっと同じようなことがアントワーヌにも言えるんだよね。

 クリスティーヌとの関係も奇妙っていえば奇妙なんだけど、特別な友人ではあるけれど恋人ではなくて。二人の会話シーンがあまりにも少ないためにクリスティーヌよりも彼女の両親と仲がいいように思うけれど、それでも二人はどこかで強く惹かれ合ったりすれ違ったりする。そんなナイーブなところがいかにもトリュフォーらしいのよ。 この映画で私がいちばん好きなのは最後の筆談ね。これは思い出すだけでニヤニヤしちゃうくらい素敵なシーンだからここには書かないでおくわ。

 ここまでくると回を重ねるごとにいくらダメ男になっていってもアントワーヌ・ドワネルっていうキャラクターはやっぱり魅力的で、あとに『家庭』『逃げ去る恋』と続くシリーズを次も見てみたいという衝動に駆られるのは間違いないのだ。そしてシリーズが進むにつれてトリュフォーの自伝的映画『大人は判ってくれない』に始まった「ドワネルもの」が、やがて「アントワーヌ・ドワネル=トリュフォーの分身」というイメージは次第に薄れてくると思う。「ドワネルもの」はトリュフォーの自伝映画というよりはむしろ『大人は判ってくれない』以来、二十年間アントワーヌを演じ続けたジャン=ピエール・レオーの成長記録というような雰囲気になってくるのね。トリュフォーとレオー、二重の構造を持つアントワーヌの成長というのは監督の成長でもあり役者の成長でもあるから、トリュフォーのファンにとってはこのシリーズが絶対的に面白いということになるのよ。

 あと、この映画には教訓めいたがエピソードがいくつか盛り込まれていて、最も有名なのは機転の話。探偵調査を依頼された靴屋の社長夫人に恋をしてしまったアントワーヌが、社長夫人の前で緊張のあまり「ウィ、マダム」と応えるところを「ウィ、ムシュー」と言い間違えてその場から逃げ出してしまうのね。けれど社長夫人は後日アントワーヌに手紙を書いて、「男の人が浴室に入ったらすでに女性が入浴中でした。失礼しましたマダムと言えばそれは礼儀正しいことです。しかし失礼しました、ムシューと言ったのなら、それは機転です」と教えるの。これはいかにもトリュフォーらしいユーモアというか、『華氏451』で読書が禁止されてしまうのなら禁止されたことを嘆くのではなく、書物の内容をすべて暗記してしまえばいいという考え方にみられるような心の働かせ方なのよね。

 そしてこの映画のなかでトリュフォーらしいやり方といえば、探偵事務所の爺さんが突然死しようがストーカー男が出て来ようが、それらしい匂いを醸し出しつつもサスペンスに転じることなく終始恋の話に徹しているところ。トリュフォーは観客も映画に参加できるように、わざとストーリーを省略して映画を作ることを好んでいたらしいんだけど、謎の愛の告白をして立ち去るストーカー男は要注意ね。このストーカー男の映画では見えなかった部分を想像してストーリーを組み立ててみるのも楽しいわ。

 ん〜、それにしても邦題はなんとかならなかったのか。夜霧の…って裕次郎か、なんなのか、流行っていたのかね。安易すぎだわ。これじゃあトリュフォーも怒って当然。原題はなんとも可愛らしい、『盗まれた口づけ』です。

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アントワーヌとコレット(1962年)
原題:ANTOINE ET COLETTE
時間:短編 / モノクロ
脚本:フランソワ・トリュフォー
撮影:ラウール・クタール
音楽:ジョルジュ・ドリュー
出演:ジャン=ピエール・レオー、マリー=フランス・ピジェ

『大人は判ってくれない』から三年後、少年鑑別所を抜け出したアントワーヌは17歳になっていた。問題児の面影は薄れ、今はレコード工場で働き、いちおう社会復帰を果たしているようだ。そんなある日、アントワーヌは青年音楽連盟のコンサートでコレットという美少女に出会い、彼女に恋をする。しかし彼女の両親とは仲良くなったものの、コレットはつれない態度ばかり。


 ☆ ☆ ☆


これは『大人は判ってくれない』の主人公アントワーヌ・ドワネルのその後の成長を追いかけた、俗に言う「ドワネルもの」の第二部にあたる作品。『二十歳の恋』っていうフランス、イタリアをはじめとする五カ国によるオムニバス映画の一遍として出品されたものなんだけど、クレジットタイトルをながめていたら、かの東京都知事、石原慎太郎の名前があるじゃないの。気になって調べてみると、なぜか日本版だけ行方不明らしいんだよね。私はトリュフォーの作品しか観ていないけどね。ほかの国の作品も観てみたいわ。とくに日本、ね。石原慎太郎っていうと、やっぱり太陽族っぽい雰囲気なのかしら。でもさ、フィルムってそう簡単に行方不明になるもんなのかねえ。しかも一カ国だけって。まあ、何十年後かには「これがかの石原都知事が監督した!」みたいなノリでひょっこり出てきそうな感じもするんだけど。

物語のほうはというと、『大人は判ってくれない』から三年後の設定。アントワーヌの初恋を描いているの。少年鑑別所から逃走して海にたどりついたあのアントワーヌがさ、まあ一応、レコード工場でマジメ(?)に働いているのね。彼の複雑な少年時代を知っている、いち鑑賞者としてはアントワーヌの自立した姿がほんとうに微笑ましい。

それでアントーワヌ君、クラシックコンサートでコレットという名の美少女と知り合って彼女に恋しちゃうんだけど、残念ながらコレットのほうはあまり気があるようには見えないんだよね。そんなコレットの気持ちに全く気づかないアントワーヌは当のコレットよりも彼女の両親と仲良くなって、それもすっかり気に入られちゃって食事にお呼ばれされたりする。しかしコレット嬢をデートに誘っても大学の勉強が忙しいとか色々と理由をつけて断られる。何度も断られている時点で少しはおかしいな、って気づくだろって思うんだけど、アントワーヌはひるまない。

いや、この人、ひるまないっていうか本気でコレットの気持ちに気づいてないみたい。かなりの鈍感ちゃん。決して最近でいう肉食男子っていうタイプではないのよね。というか、なぜだか性格がド天然になってるんだよね!三年前はもっとナイーヴで感受性が強そうな子だったはずなんだけど、何を考えてるんだか、コレットのアパートの前の部屋に引っ越しまでしちゃうわけ(かなりストーカー体質なドワネル)しかもこのエピソードはすべてトリュフォー自身の経験だというから驚きである。そしてトリュフォーはアントワーヌもびっくり、好きな子に相手にされなかったことで自殺未遂までしちゃったらしい。もうこの人、完全にアホだな(笑)けれどこうして映画のネタにしてしまうんだからね、しかも面白いんだよね。これに限らず、トリュフォーの映画ってそのほとんどが自身の体験ネタネタネタなの。どの作品でも赤裸々な告白をしてみせるわけ。トリュフォー映画の魅力ってやっぱりそこなんだと思うな。映画監督トリュフォーではなく、フランソワ・トリュフォーっていうひとりの人間、人間性込みでの感情で観てしまうんだよね。

とりあえずこの『アントワーヌとコレット』でアントワーヌのキャラクターに若干の軌道修正があって、『夜霧の恋人たち』『家庭』『逃げ去る恋』といった感じでドワネルの冒険は続いていく。『大人は判ってくれない』のようなちょっと重苦しいテーマを扱ったお話ではなくて、恋愛コメディになっていくのだけど、アントワーヌが徐々にダメ男になっていく様にもね、注目して欲しいわ。

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ピアニストを撃て

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ピアニストを撃て(1960年)
原題:TIREZ SUR LE PIANISTE
時間:88分 / モノクロ
原作:デヴィッド・グーディス
脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー
撮影:ラウール・クタール
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:シャルル・アズナヴール、マリー・デュボワ他

何者かに追われているらしい男が電柱にぶつかって、通行人と結婚生活について雑談する。男は酒場に入り、そこでピアノを弾いている弟シャルリを訪ねる。男は弟のピアノでのんきに踊っているが、そこに二人組のギャングがやってきて裏口から逃げ出した。シャルリはウエイトレスのレナが自分に気があると知って舞い上がる。しかし臆病なシャルリはレナの手も握れない。


 ☆ ☆ ☆


 私はこの、人を食った展開っていうの?かなり好きなんだな!この映画に関しては本当にツッコミどころ満載っていうくらい、粋なことをやってくれてるんだよ、トリュフォーは。それにしても、なんともまあ忙しい映画よね。90分足らずの時間に詰め込まれる中身の大胆さ。何者かに追われるシコ兄貴というプロット、シャルリとレナのプロット、シャルリと妻のプロット、そして従来のギャング映画をうまく崩してみせた軽妙洒脱な会話を畳み込んでバタバタと進んでいくわけ。一体どこに焦点を合わせて観ればいいのよって、はじめは戸惑っちゃうんだけどさ。でもこういう奇をてらったあたりに若さを感じるのよね。だからこれはギャング映画がどうしてもギャング映画ならざる方向へ進んでしまう、トリュフォーならではのギャング映画なの。タイトルからサスペンスを期待すると、いい意味で裏切られる。これもまたトリュフォー。

 まずさ、何者かに追われているらしいシコ兄貴が電柱に思いきり頭をぶつけて、倒れたシコ兄貴に通行人が手を差し伸べるわけ。で、そのあとなぜかシコ兄貴と通行人は結婚生活について深く語り合ってしまうんだよね。しかも二人の会話はそのあとの展開にはまったくもって関係ない!シコ兄貴、追われてるんなら逃げるのが先じゃん!って感じ。もう冒頭から緊張感なんてまるでないのね。お次は二人組のギャング、これがまたギャングの風格ゼロっていうか、あなたたちマジメに仕事する気、あります?っていうほどおバカさんなわけ。人質に独自の女性論を熱く語るギャングがどこにいるんだって感じ。しかも人質と話が盛り上がっちゃって、けっきょく人質には簡単に逃げられて。子供を誘拐して、このスカーフ日本製なんだぜ、いいだろうって自慢したりね。もう最高だわ。

 あと主人公のシャルリ。昔は有名なピアニストだったんだけど、訳あって今は場末の酒場でピアノを弾いている。演じているのは本業も歌手であるシャルル・アズナヴール。ナイーヴな雰囲気と華奢で気が弱そうな容貌がかなり役にはまってるよね。一口メモを添えると、『勝手にしやがれ』のジャンポール・ベルモンドが演じた役を、ゴダールは最初、彼にやらせたかったらしいんだよね。でもトリュフォーがこの映画で使うなら、君に譲るというわけだ。まあそれで結果的には正解だったよね。シャルル・アズナヴールが「パットリッシア〜!」なんて女の尻を追いかける姿はすこぶる似合わない、と思うんだけど。で、シャルリが同じ酒場で働くウェイトレスのレナに好意を寄せられるんだけど、というかそこのマスターに「どうやらレナはお前のことが好きらしいぜ」と吹き込まれてすっかり舞い上がってしまうわけ。その帰り道、シャルリの頭の中を「何を話せばいいんだろう」とか「飲みに誘ったほうがいいのか」とか色んなことがよぎるわけ。二人並んで歩いても、手を握ろうとか肩に手を回そうとか、あれこれ考えるんだけど、何もできないわけよ。意を決して「飲みにいかない?」と言えたときには、もうレナの姿はなくなってるのね。そのぐらい臆病で弱気な男なんだ、シャルリって。でもそれは悲しい過去があったからなのよね。

 でね、この映画を撮った20年くらいあとの話。「どんな映画を撮りたいか?」っていうインタビューに、トリュフォーは「ギャングのことはよく分からないし、分かりたくもないから、ギャング映画は好きになれない」って答えているの。じゃあこの映画はギャング映画としては失敗作なのか、そもそもギャング映画じゃないのかって思うわけよ。となると、この映画はけっきょくピアノだけが友達の、一人の弱気な男の話なのかもしれないよね。シャルリは弱気を直す講座のようなものに通おうとしてみたり、そのための本を買おうとする(傍からみればこのシーンはかなり面白いのだ)だからね、根底には弱気から抜け出せない男の姿があるわけ。シコ兄貴の頼みも断れず、レナの手も握れない。妻に大事なことも言えず、自分が正しいと主張することもできない、そんな男。そりゃあね「ストッキングを買ってきて」と頼まれても仕方ないでしょ、って思うわ。そんな弱気な男を象徴するように「ストッキングを買ってきて」と頼まれる男はこのあとの作品にも出てくるんだよね。『大人は判ってくれない』のアントワーヌも、シリーズを重ねるごとにどんどんダメ男になっていくわけだしさ。てことは、この映画はやっぱり「ダメ男シリーズ」第一弾なのか!?

 まだまだ言いたいことがいっぱいあるんだけど、シャルリの弟がリシャール・カナヤンだったり(この子は『大人は判ってくれない』のオーディション映像でやたらと渋い声で歌っている姿が、かなり私のツボだったのね)「女にモテないのはこの顔のせいだ!」と嘆く酒場の主人とか、「おっぱいの歌」のうしろで終始ものすごい笑顔をふりまくバンドの人とか、脇役に面白い人がたくさんいるわけだよ。脇役に魅力をもたせるって、トリュフォーがお得意とするところよね。そして最後の新しいウエイトレスの娘がさ、髪をおさげに結んでて、これがまたすばらしく感傷的になってしまうのよね。

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