ネコの道草

83歳のネコブログです。

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篠脇城の続き、
東氏は越前朝倉勢の侵入に篠脇は適さないと思ってか250年程居た所を諦めて、八幡赤谷山に東殿山城を築いて、妙見神社を残して移っていく、
常慶の跡を継いだ、東常堯は13代目であった。
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今も僅かに残る城跡の石垣が見える。
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13代目東常堯は女兄弟ばかりで只一人男子で其れも一番末子でした、父常慶は勿論側近も大事に育てたが、甘やかし過ぎた事も有って、凡庸な所が有った。常堯は、神路木越城主遠藤胤縁の妹お園に思いを寄せて居て、遊びに行っていた時に、お園の寝所へ夜這いに行き、盗賊と間違えられ、捕らえられて面目丸潰れ、その上お園は常堯をあっさり振って明宝畑佐城の畑佐六衛門の所へ嫁いだ、其れからは木越城主胤縁は勿論、六衛門共不仲になり何時までも怨念を抱いていた。    木越城跡、(長良川と神路川支流より写真)
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そこえ降って沸いた様な話が持ち上がる、飛騨帰雲城主内ヶ島氏里の妹(阿通)との縁談が持ち上がる。当時飛騨と郡上の境蛭ヶ野は沼地で人馬の通れる様な所で無かったが、ドンドン整備が進んで飛騨と行き来ができるようになると。
すると郡上から簡単に飛騨へ侵入出来る様に成る。帰雲城の内ヶ島は郡上が脅威になり、
そこで天生金山で堀当てて蓄えた黄金の持参金付きで、阿通は常堯へ嫁入りする事になり話はトントンと進んでいく、雪国で育った色白の美人(阿通)には文句の付け様は無いが、常堯はまだ振られたお園に未練を持っていた、        下写真(神路邑神明神社)
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木越城主遠藤胤縁は八朔(新暦では9月1日)のお祝いに東殿山城主東常慶へ家来を連れて挨拶に上がった。城主常慶は上機嫌で遅くまで祝い酒の振る舞いするが、ほろ酔い気分に成った胤縁主従は神路神明神社付近まで帰ってくると、此処から城まで馬で長良川を渡る支度を始めた所へ密かに付けて来た常堯の家臣長瀬内膳に依り殺害されたと言う。その供養の為此処の地域では9月1日に念仏踊りがあった。現在も神明神社の祭礼として残されている。
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上写真東殿山城跡展望台(木造)

殺害された胤縁家臣は弟が住む刈安城主遠藤盛数に知らせて東殿山合戦が始まる、畑佐城からも兵を出して10日余りの激戦でついに落城。常堯は辛うじて飛騨の阿通の住む帰雲城へ落ち延びる。阿通は実家の内ヶ島の住む帰雲城へ盆休みで帰っていたので、その後二人で飛騨にすんだ常堯は、16世紀最大の地震山津波で一瞬の内に土砂の下敷きになり其処に居た人達は一人も助から無かったと言う。今も此処保木脇には多額の金銀財宝が眠っていると言う。こうして東氏は滅びて郡上は遠藤の時代へ入る。

荘川保木脇の国道156号線脇に建つ帰雲城碑。奥の方に見える崩れた山は、山津波跡

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はじめまして
東常慶の検索にて辿り着いた次第です。
郡上東氏は同族系に取り込まれてしまったのですね。
歌人常縁も末裔の不出来に無念な思いを禁じ得なかったでしょう。
子育ては難しゅう存じますね。

では、失礼致します。

2010/3/21(日) 午前 10:32 [ 大僧正 ]

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[ 完璧超人!! ] 様へ
コメント有難う御座います。この話は歴史家により色々言われていますが、東常尭が不出来ばかりでは無く、遠藤家も隙を伺っていて、格好の大儀名分が立ち、東家を乗取ったのでしょう
いずれも下克上の世の中の出来事です。

2010/3/21(日) 午後 5:22 neko4441


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