|
私の11月9日ブログ記事から〜八幡城6代目城主遠藤常友が町並み整備して、現今の郡上八幡の町の原型が出来たと言われています。 承応元年(1652)の火災で、町並を殆ど焼き尽くしたそうですが、2度とこの様な災害の起きないようにと、城下の町並みに、縦横に多くの防火用水を引いたのであり。同時に是を生活用水として整備されたのが、現在残って居る「水の町郡上八幡」です。その後も用水の一部では、明治頃になると、製糸工場の水車動力源になったりして、発達はしてきているが、場所は殆ど替わって居ないようです。 その外常友は城下町へは多くの寺院を集めて、町並みの整備をした中に五町の観音様と言うのが有ります、 瑞宝山楊柳寺といいます。 石段を登ると岩の崖に張り付いた様に作られている本堂になります。京都清水寺を模したのだ、と言う事です。(郷土史家t先生の話より) この寺の縁起書が石段の途中にあり、そのまま張り付けて置きます、見にくいも知れませんが。 この縁起書の中に「伊田氏」と言う長者(豪族)が此観音様を守った記事があります。 伊田氏(井田でもよい)は五町に住んでいたといいますが、本籍地は、大和町神路という所に屋敷跡があります、神路(かんじ)は五町から長良川を少し上った所で、八幡町と大和町の境であって、この地域の小字地図面に、小字名として残っています。 赤い点で印をつけた所の、(井田ヶ洞)それが井田長者が居た屋敷と思えます。その下の方に御門(おかど)と言う地名は、井田長者の屋敷門があったところとも言います。 この長者はあやめの花が大好きで、周辺に大きな池を作りアヤメを沢山植えて舟を浮かべて遊んだと言い伝えられて居ます。その池の辺りが、「あやめ前」「あやめ切り」と言う地名が残っています。又伊田長者の墓の五輪塔の一部も残っており、現在も子孫の井田家が守っています。其の他の残りは五町の伊田家か、楊柳寺の方にあるよですが、確認はしていません。 五町楊柳寺の千手観音は養老年間に行基菩薩(奈良薬師寺にいた遊行僧)が京都の清水寺の本尊を彫った残り木で作ったと言う事です。伊田長者が深く信仰していたと言う。
この地域の伝説より。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用



