|
徹夜踊りで燃えた郡上八幡の町も今は後半に入り、各所の縁日踊りで9月前半まで続きます(徹夜踊りはありません)所で郡上八幡城の成り立ちと悲しい話。簡単に、 永禄2年(1559)遠藤盛数が東殿山(城から東南)の東氏を滅ぼしたが、その合戦の 砦とした場所がこの八幡山で、盛数の子供、慶隆により石垣等の整備がされた、 それから遠藤家は、初代盛数ー慶隆ー慶利ー常友ー常春ー常久と、続いたが最後の常久は幼少にして元禄5年お家騒動で毒殺された。遠藤家は減奉されて滋賀県三上へやられて、続いて 井上ー金森ー青山、と続くが明治維新になり廃城となる。昭和8年この場所に模擬天守閣 ができた。モデルは大垣城だとか。 NHK功名ヶ辻で放送された山内数豊の妻お千代さんは当城初代遠藤盛数の子供です。 遠藤常友の時代に現在の八幡の街を区割りして、今も其の面影は各所に残っていると言う そして城も大修理をしたが、其の時神路邑から、大きな榎木を切り出し(橇)に乗せて 引き出した、所が吉兵衛さの家の前まで来ると如何したものか、幾等引っ張っても動かなくなってしまった。それを見に来ていた「およし」という娘がおり榎木に手を触れると不思議にもスルスルと動きだした、そんな事でおよしは、城まで付いて行くことになった。 城の工事中一番の難所工事は南側の石垣で、幾等積んでも崩れるので思案あまり、人柱を 立てたらということになり、榎木に手を出した事も有り、しかも郡上で一番美しかった 「およし」がえらばれた。人柱と聞いておよしは泣きわめくので、籠ぐるみうめたという。 古老からの伝説として語りつがれている。今城上がり口、善光寺に祭られている 一説には埋めた殿様は大変慈悲深い人で埋めた事にして、籠だけ埋めたとも云う
そして密かに和良邑へ逃がして幸せにくらしたとも。 伝説ですので和良邑に子孫の存在などは聞いてはいません、余にも残酷物語ですので民衆が後から付け加えたのかも。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用


