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手を打てば、鯉は集まり、鳥は逃げ
女中は茶と聞く、猿沢の池。
突然こんな詩を思い出しました。 これは今から35年程昔、奈良薬師寺で、西塔や伽藍の再建されている時に、参詣(本音は工事を見学)に行った時、薬師寺名物人気館長の「高田好胤師」法話か?本だったか忘れたが思い出した。
人々は同じ場所で、同じ話(法話)を聞いていても、自分の都合のいい様、解釈して聞いてしまう
皆別々の知識で聞くのだから、別々で、当たり前ですが、鯉の立場と鳥の立場に成ってみれば、正反対に解釈してしまう。宿の女中さんならばお茶の所望とも受け取るのである。
と言うような話で続きは難しい法相宗の哲学か?唯識論のような事でしたので覚えていません。
今中日新聞連載親鸞の浄土真宗「悪人正機説」は最も誤解され易いようですが。
如何して今頃そんな事思い出したかと言うと。 先ほど宮崎県の東国原知事が国政への意欲を示すと、与党、野党、皆が人それぞれのコメントを出しているのが可笑しくなったからである。
与党がなめられている、と本気で怒る者、あほらしくてコメント出来ない、と言う人、
ジョークか、オチョクッテ居るだのだと言う人、そこへ又東国原氏は本気なんだと言う、その他にも「コメントしたく無い」と言って、距離を置き日和見の人、私達国民は夫々投票があればそこで選べるのですから、今更ガタガタする事も無いだろうが、人は正に、手を打てば、の詩の通りだと、改めて思い出している
最も国政にもなれば多くの議論を戦わせて、道を誤らないように、進む事が一番である事は言うまでもない事である。戦前戦時中の様に言論の抑圧をして道を間違えないように。
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