ネコの道草

83歳のネコブログです。

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思い出

平成21年6月22日のブログに投稿したように、
私は昭和19年春より「稲葉郡蘇原町三柿野」川崎航空機岐阜工場に入社して、川崎岐阜青年学校で数々の工学の学科を習いながら軍事教練、実習教科とあわせて忙しい日々が続いていた。

大東亜戦争が悪化して来て、途中で学校は打ち切りになり、現場配属が工作機械職場へ決まる、私は一の宮の機械工養成所へ行き又其処で新しく勉強になるが、相変わらず軍事教練は付いてくる。

一宮市浜町と言う所に小さい町工場を買収して川崎航空機工場の機械工養成所として設立されていた。

秋の少し涼しく成り掛けた或る時に軍事教練と称して岐阜市まで行軍をすると言ってくる、毎日塀の中(刑務所ではないよ)で一日に何回もビンタをくらって、絞られて居る暮らしから、一寸塀の外(工場外)の空気に触れられるので、喜んで待っていた。

さて当日全員に昼食と称して紙袋に入れた乾パンを一個ずつ支給された。途中で絶対に封を切らない様にとの通達が或るが、其の時は言いつけを守るつもりで奥深く仕舞い込んで出発した。

真清田神社へ参拝して、隊列を組んで国道を岐阜市へ向かう、当時は車は殆ど通らないから4列縦隊で歩調をあわせて軍歌を歌いながらの行進である。
    
「若鷲の歌」
  若い血潮の予科練の    七つボタンは桜に錨   今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃー
  でかい希望の雲が湧くー

其のうち段々疲れてくると、「声が小さい」と教官に怒鳴られて、腹が減って大きな声がでない木曾川町辺りまで来ると、道路両脇はサツマイモ畑、一寸芋を失敬したいが隊列を崩す訳にはいかない。木曽川橋を渡る頃には、封を切ってはいけない紙袋の乾パンをコッソリと出して食う。ヤット岐阜駅前までたどり着く此処で又隊列を組み直して岐阜市の中心部「凱旋道路」(平和通り)を大きな声で軍歌を歌って行進する。(市民が見ているので教官が余計に張り切る)

(特幹の歌)
  翼輝く日の丸に〜 燃ゆる闘魂眼にも見よ   今日もさからう雲きれず
  風も静まる 太刀洗い  あ〜あ〜特幹の大刀洗いー

腹へった〜  やっとこさー  金華山下の岐阜公園に着き 記念写真

イメージ 1


「此処で一時間の休憩、其の間に昼食」と教官の号令。情けない、もう食う物が無い木曽川橋辺りで、絶対封を切てはいけない乾パンをコッソリ食ってしまった。人目の付かぬ所でポロポロ涙が出る。一時間では長良の畑まで行ってさつま芋を失敬する事も出来ず、町へ出ても食べ物の売って或る様な場所は無いし。それでも皆の前では平静を装っていたが。

(武士は喰はねど、高楊枝)(侍の子は腹が減ってもひもじゅう無い)伽羅先代萩、千松の台詞を地で行く

長良を通ると思い出す、後方は長良川、燈籠は今も残っている、65年前の昔話。一寸した私の歴史になった。

(追加)
支那事変後(昭和14年頃)に支那へ出征した兵士のご苦労を歌った「ほんとに、ほんとにご苦労ね」を腹の減った、替え歌で歌っていた

元歌
揚柳(やなぎ)芽をふく、クリークでー 泥にまみれた軍服をー 洗う姿の夢を見た、お国の為とは、言いながら、ほんとに、ほんとに、ご苦労ねー

替え歌
いやじゃありませんか、川崎はー 欠けた茶碗に竹の箸ー 仏様でも有るまいに、 一膳飯とは情けない ほんとにほんとにご苦労ねー

一膳飯の頃はまだ良かったが、S19年後半には代用食と称して、さつま芋、かぼちゃが、多く出様になる。  


  




   
  

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