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正月も半ばを過ぎて、今日は20日で大寒、郡上地方では昔から今日の20日を「二十日正月」と言って仕事は休み、正月にお供えした、鏡餅や、親戚から贈られた丸餅(鏡餅)の入れた箱から、残りの餅を全部さらえて、家族で分け合いながら食べた。 新年になると10日頃までに、年頭の挨拶回りと言って、本家(ほんけ)や祖母や、母の在所(生家)へは、大きな丸餅を重ねた風呂敷包みを背負って、親に付いて遊びに行くのが嬉しかった、 小学校2年生頃には、母や祖母の代理になり1人で使いに行った、綺麗な膳で接待を受けるのだが、帰りは又お返しと言って、同じ丸餅を貰って背負はされ、其の他に、「坊の駄賃」と言って、今で言う「お年玉」を貰うのが何よりも嬉しかった。 それでも、丸餅は使い回しですから、沢山搗いた訳ではなかったので、20日頃には少なくなり、子供同士で取り合う事も良くあった。その後からはもう正月の残り物一切無くなり、毎日漬物や里芋の味噌汁ばかりで、沢庵漬けだけの日も有ったが、此の時代には此れが当たり前の毎日だと思っていた。 そこで今日は、沢庵のはなしを。 沢庵と言う名前は、大根漬物の事であるが、此れを考案した人が、兵庫県豊岡市出石町に生まれた、沢庵と言う坊様であった。 その沢庵和尚は10歳で出家して、その町の「宗鏡寺」(すきょうじ)に入り、その後22歳で宗忠と言う人に従って、大徳寺へ上京して、29歳で勅令によって大徳寺の住持に出世しましたが、立身出世を求めない彼は(野僧)に徹すべしとして、退山してしまった。 31歳になると、堺の南宗寺、陽春院の一凍紹滴(いっとうじょうてき)に師事し、(沢庵)の称号を受ける。 48歳の時、「富貴を求める人にへつらい仏法を売るより、野僧たるべし」と兵庫県豊岡市出石町の(宗鏡寺)の裏に庵を建て、投淵軒(とうえんけん)となずけて、世間と離れて静かなくらしに入りました。 (ネットより) ある秋の暮れ、沢庵が住む故郷の投淵軒(とうえんけん)で書斎に居ると、庵の外から 『大根はいりませんか〜〜大根大根。これぞ誠の大違い』 と大声で大根を売り歩く声がした、沢庵は不思議に思い,大根売りを呼び入れて、「これぞ誠の大違い」とはどう言う事か?と尋ねた所、その大根売りは『実は私の弟が近衛様の御家来でありまして、新年の歌会があり、「これぞ誠の大違い」と言う下の句に、良い上の句を付けたものに、ご褒美を下さるという事で、弟は私に大根を売りながら良い上の句を考えてくれと、頼まれつい口癖になっていました』と答えた。 どれどれそれなればと、沢庵は筆と硯を持ち出して、紙を取り寄せて、 (御簾となる、 竹の産着や 上草履 これぞ誠の 大違い) と、したためた。天子様をお隠しする御簾と、同じ竹の皮で庶民の上草履が出来るが、御簾と上草履は、大違いだと言う意味です。大根売りは近衛様より沢山のご褒美を戴いたが、其のお礼に大根を荷車に何杯も積んで沢庵に届けた。 沢庵は一度には、食べられないので、其の大根を糠漬けにする事を考え付いた、そして大変旨かったので、町中で大ヒットして、世の中では此れを沢庵漬けと呼ぶ様になった。 参考文献(梅原猛著 仏教を行く)より この沢庵漬けは家で漬けた自家製です。大変旨い。 郡上地方のことわざに「アッポ(餅の事)のサイ(おかず)」と言って有っても無くても良いものの事を言います。 追加のおまけ 沢庵は正保2年(1645)12月、73歳で没したと言います。その遺言が又型破り。 「自分の葬式はするな、香典は一切貰うな、死骸は夜密かに担ぎ出して、裏山に埋めて二度と参るな、墓を作るな、朝廷から禅師号を受けるな、位牌を作るな、法事をするな、年譜を誌すな」
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