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今日8月6日は、65年前広島市へ原爆投下。続いて9日が長崎市へ再び原爆投下された日。今年の様に毎日暑い日だった。当時15歳、(小学校七つ上がりで3月生まれ)高等小学校卒業して、各務原飛行場の川崎航空機岐阜工場、坂祝分工場に居た。
これ昨年も同じ事、投稿したので、もう一度そのブログ貼り付けておきます
川崎航空機岐阜本社工場は6月22日と同月26日の午前中2時間足らずの、2度に渡る空襲で壊滅的に破壊されて、航空機生産機能は、殆どマヒしてしまう。但し工作機械だけは、加茂郡坂祝村の紡績工場跡地へ疎開が終わった所で、此処だけは機械が動いていた。
7月9日の夜には、岐阜市の空襲で岐阜駅から忠節橋、長良川迄は、丸物百貨店、16銀行の建物だけ残し、一面焼け野原になって見渡せた。
坂祝工場は稼動していると、言っても毎晩の空襲警報の退避避難ばかりしていて、何も生産活動は出来ない。昼勤の内、避難して居ない合間を縫って私はまだ半人前で、ヤット覚えた測定工具機器のマイクロメーターとノギスの原理を、一つ年上の女子学徒動員で派遣された学生生徒や、一般から徴用された女子達を、数人ずつに分けて、現場の工作機械の前で説明していた。
生徒は次の日は変わるので毎日同じ事を繰り返し言うだけで、ノギスやマイクロメーターの原理だけですが15歳で一年歳上の高校生に教えていた事、前代未聞の事でしょう。
ノギスの先生は二週間足らずで終わりましたが、退避命令が出て裏山へ避難する時に「広島へ新型爆弾が落ちた」との情報は女子学徒から聞いたが、それがどう言う物か、15歳の坊には、あまり理解は出来なかった。
10日になると、また「新型爆弾が長崎へ落とされた」と言って、詳しく年上の生徒から教えてもらった。女子生徒は「もう本土も玉砕か」と言って「此れからあなた如何する」と言うが、「そんなことは無い、必ず勝つ」とは言って見たが、何時も上司から言われている事の受け売りを言うだけで、本当に死ぬ日が近く成ったな、と一寸覚悟を決める。此時期は毎日悲壮な気持ちで居たが、
その一年前(昭和19年)はまだ勝ち戦だと錯覚していた。
其の時の軍歌「加藤隼戦闘隊」 映画にもなりヒットしていて、隊列を作って行進する時は何時も、カス元気で腹が減るのにありたっけの声を張り上げて、歌いながら行進させられたり、寮の廊下掃除には一列になり歌いながら、から拭の雑巾掛けをしていた。若しかすると、隼戦闘機の部品も川崎工場で作っているかも?と自負心も手伝い張り切っていた。(川崎航空で其の部品作ったかは、知らないが)
歌詞
♪♪エンジンの音 轟々と〜 隼は征く〜 雲の上〜 翼(よく)に輝く 日の丸と 胸に描きし赤鷲の 印は我らが 戦闘機 ♪
♪♪寒風酷暑 ものかわと〜 艱難辛苦打ち耐えて〜 整備に当るつわものが〜 しっかりやって 来てくれと〜 愛機に祈る 親ごころ〜 ♪
5番まであるが今は思い出せない。当時は日本陸軍が世界に誇る隼戦闘機でした。
あれから65年を経ると、同じ「はやぶさ」と言う名前で打ち上げられた探査機が、遥か離れた小惑星を目指してサンプルを採って地球へ持ち帰ったと言う。タダタダ驚くばかりで、此快挙
説明の仕様が有りませんので、URL貼っておきます。
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