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(中日新聞)
昨日郡上市の猛暑は遂に日本一になった。
こんな事で日本一とは、あまり喜べない。
さすがにクーラー無しでは、生きて居れない位でした
我が家でも陽が落ちるとクーラーを切って窓を開け
庭にスプリングクラーで散水をして暑さを和らげて
います。
話変わって今日は八朔祭があった。その神明堂八朔祭の歴史を簡単に披露します。
郡上八幡「東殿山城」で郡上を治めていた城主(東常慶)の子、13代目東常堯(とう、つねあき)が飛騨帰雲城より阿通を、妻として迎える少し前までは、郡上と牧戸の蛭ヶ野あたりは、西の白山伏流水が湧き出ていて、一面沼池で水芭蕉の、群生地になってとても人馬の通行出来る所ではなかった。それで牧戸城は南からの侵入には無防備であったが、少しずつ蛭ヶ野道路も整備されてきて郡上からの攻撃も考えなければならなくなり、そこで郡上の東常堯へ黄金の持参金付で、飛騨「帰雲城」内ヶ島氏理の妹阿通を嫁入りさせたのである。
常堯は阿通(おつう)の器量と溌剌とした健康美にはお気入りだったが 元々凡庸の常堯(つねあき)は場皿の木越城主遠藤胤縁の妹、お園に惚れていて夜お園の寝所へ忍びこみ盗賊よばりされ面目を失って居た所へ同じ士族の畑佐城六右衛門の元へ嫁いだ。 この世の事はなんでも自分の思う様に事が運ぶと思っているどら息子は激怒した 畑佐六右衛門とも不仲になり また木越城主遠藤胤縁にも何時までも怨念に懲り固まっていた(木越城は東殿山城の北の護りの出城である)
時に、永禄2年(1559)八朔のお祝い(新暦9月1日)に毎年の行事のとして数々の貢物を持って遠藤胤縁は家来を連れて東殿山城へご機嫌挨拶に上がった。 城主「東常慶」は上機嫌で迎えた。 遅くまで祝い酒の振る舞いを受け、ほろ酔い気分になった遠藤胤縁主従は 口神路のお神明様まで帰って来てさて 此処から長良川を越えようとして準備に掛かった所を 密かに着けて来た常堯の家臣 長瀬内膳によって殺害されたという。
(神明神社対岸の木越城跡)頂上に少し平らな城跡がある)
その供養の為この地域では昭和20年の終戦頃まで八朔踊り(郡上踊り)があったが、何時の間にやら廃れて無くなってしまった。
今日は八朔の9月1日を日曜日までに繰り替えて、午後から神明神社へお神酒を上げて祠の祭礼にしている。
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