ネコの道草

83歳のネコブログです。

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昨日の続き(3)
此の明建神社の鬱蒼と茂る森から、右に見える山を篠脇山と言い、この地域一帯(山田庄)を支配していた東氏が8代・約230年間にわたって居城とした篠脇城跡が、標高約523メートルの篠脇山、山頂にあります、
 
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応仁元年(1467)応仁の乱、戦乱は11年も続き、京都の町を焼き尽くして野原にしてしまった。  皆様の良く知る話であるが。
 
郡上の東氏もよそ事では済まなかった。郡上東氏は、細川方に味方したのであるが、当然出兵もしたので山田庄の護りも手薄に成る。其の上城主「東 氏数」の舎弟「東 常縁」は幕命により
下総国へ遠征中でした。
 
其処へ同じ和歌をたしなむ武人の美濃守護代「斉藤妙椿(さいとうみょうちん)」が大軍を率いて郡上へ侵攻して、東家の篠脇城を陥落させた。
 
城主「東 氏数」は慌てて兵を集めて防戦したが、敵は此の妙見神社に陣を張り、隣の寺まで焼き払い、栗栖川を渡り東氏館に乱入、更に篠脇山の本丸目掛けて突進した、
氏数は山の尾根伝いに東方へ逃げたが間もなく没した。
東氏館跡
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篠脇城陥落の悲報は下総国に遠征していた東常縁の耳に届いた。常縁は承久以来君臨して来た祖先の領土が奪われた事を嘆き切々とした、悲しみの和歌を妙椿に送った。
其の度に妙椿からも心のこもった返歌が送られて、詩による和議が成立。妙椿は篠脇城も山田庄もソックリ返してくれる事になった。写真の碑は常縁が妙椿へ贈った10首の詩である。
 
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今の世では考えられない事ですが、昔の文武両道にたけた武将はこんな美談を残した。
郷土史家の先生は日本一高い原稿料を払った人は斉藤妙椿だと言っていた。
 
帰りは此の歴史公園に有る牡丹園を廻るが、既にイベントも終わり花も無くなって居た、
 
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かろうじて栗栖川近くの最後のコーナーに咲き遅れた牡丹が少し有った
 
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歴史資料は 大和村史。郡上郷土史家資料。より
 
昭和40年代に大和郷土史研究会へ友人に誘われて、講義を聴いていましたが、先生も高校を定年退職された日本史の先生で、時々前の講義の復習で教えた事を覚えているか質問されるので、其れが嫌で途中で止めました。今はその時の大勢の先生が故人になられたが、もっとまじめに聞いておけば良かった。
 

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