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昨日の続き
世界遺産白川郷合掌村を沢山見て歩いた。思いのほか歩いたようだが、万歩計を付けて居ないので、どれ位か解らないいが、疲れて来たので帰り支度して、一路もと来た道を帰る。
荘川牧戸橋渡りカーブ曲がった所に車待避所か、駐車場で一休みする。 此処に
向牧戸城跡がある。案内看板を見ていたが、もう一回登って見ようと思い細い坂道を上がる
細い坂道を登ると、又階段
段々を上がり切ると、城門広場へ出る。この広場の奥に見える川尻家の墓が見える、
此の墓の説明を此処の案内板より移す。
川尻家は、寛政の始め当地に「向牧戸城」を築き、白川郷を支配した内ヶ島氏の重臣であった。
寛政5年内ヶ島氏が、白川村保木脇に帰雲城を築き移ってからは、「川尻備中守氏信」が向牧戸城主として内ヶ島に仕え、天正13年金山長近が飛騨を平定してからは金森家に仕えたが、子孫の代に帰農し、代々牧戸村の名主等を勤めてきた。明治37年8代目「久四郎」の時北海道に移住して今日に至っている。
川尻家は、住居の有った牧戸橋付近に設置された墓を、墓守を依頼されていた、高山市在住の森慶二氏により、昭和62年当地に移設されたものである。
高山市
この写真は07年頃秋に撮った写真だが、
此の広場からもう一つ段々を上がると城跡がある。西のゆるい坂道を上がっても良い
向牧戸城は、寛政の始め将軍、足利義政の命を受けて「内ヶ島上野介為氏」が、信濃の国松代
から白川郷に入り、当地に城を築いた。白川郷は元より、川上郷、小鳥郷、更には越中の国「砺波」迄を征する勢力の拠点となった城である。
寛政5年内ヶ島は、保木脇(帰雲城跡の碑がある)に帰雲城を築き此れに移った。向牧戸城は、家臣の「川尻備中守氏信」が城主となり、高山方面からの侵入に対する備えとした。
特に郡上からの侵入には、今までは小沼で人馬の通行は困難であった、蛭ヶ野道路の整備が進み始めてからは、気をつけた。
天正13年豊臣秀吉の命のより、飛騨攻略に向かった「越前大野城主金森長近」が飛騨に入り最初に攻めたのが向牧戸城で、天正13年8月落城した。
向牧戸城は、築城以来百二十数年間に渡り白川郷の要であった。
高山市歴史より
あまり広くは無いが、城の建物は十分できそうだ。
疲れていたが、もう一つおまけを見て来た。登る高さは知れたものだが、チョット物好きで無いと出来ないだろう、
家内はうんざり顔で下の車で待っていた。
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