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昭和20年6月22日此の日は、私が生まれて初めて「死」と言う現実に向き合った日である。数え年僅か16歳の時でした。各務原空襲です。
3年程前に此のブログに入れた事が有りますが、今日は忘れられない日です。もう一度同じものを入れます。
私は昭和19年春「稲葉郡蘇原町三柿野」川崎航空機岐阜工場に入社する。
現在の各務ヶ原市蘇原町川崎重工の東、川崎山配水タンクの南側、山の斜面に作った造成地の寮に居た。 西から第一、第二、寮と続いて次に青年学校があり、次が学校グランドと成っていたが、学校では、航空機工学、航空気象学、に続き、数学、幾何、物理、英語(英語は敵国語で普段は使えなかった)と数々習いながらその合間は、軍事教練、実習教科と毎日忙しい日が続いていた。 途中より太平洋戦争の戦況が悪化して来たので、学校は途中打ち切り、現場実習になる、私は工作機械職場へ配属、機械工養成所が、「愛知県一の宮」に有ったので、又其処で勉強に成る、
一宮訓練場機械教科終了写真
一応教科は修了、其の歳の暮頃に美濃加茂市坂祝の工場へ回る。一宮を引き上げた直後の12月7日には、三河地震があり、それから35日過ぎた翌年1月13日(M7,1)の地震で大被害を出したが、軍の規制もあって、殆どの国民は其の被害は知らなかったが、一宮も家屋の倒壊や、かなりの被害があったそうな。
此処坂祝工場はアメリカの爆撃を避けるため本社工場から工作機械の分散で、機械はまだ坂祝へ移動中、私の担当の機械は無い、又教練や学科ばかり、其の内に翌年4月に成り何故か坂祝の寮は追い出されて元居た本社、川崎山の寮へ、戻ってみれば新一年生が入寮していて、新入生からは先輩として敬語で呼んでもらえるし、私の影を見ただけで挙手の敬礼はして貰えるし。一寸偉くなった様な気分を味あう、
室長を任命されたが、同僚達の長ですから、只の小間使い、要領が悪かっただけでした。 漸く坂祝の工場も担当する機械も出来て、高山線蘇原駅〜坂祝駅間の定期を買い昼夜交代の通勤になる、
戦況は益々悪化の一途、夜は名古屋の空襲、一の宮空襲、を寮の北山へ退避して南の空で落とされる焼夷弾、照明弾、遠くから眺めながらも、まさか岐阜まで空襲には来ないだろうと楽な気で居た、 昭和20年6月22日朝、坂祝の夜勤を終えて寮で点呼も終わった頃、又退避命令が出るが、何時もの事で、無視する、同僚の一人が心配して西の方から編隊の爆音がすると言うが、「たわけあれは訓練飛行じゃが〜」と是も無視、と同時に「米艦載機数十機、関ヶ原上空を東進中、ただちに退避せよ」と寮のスピーカーが叫ぶので、窓を開けて空見上げると、其の時、敵戦闘機が急降下、忽ち屋根は機銃掃射で穴だらけ、靴は履いたままベットで寝ていたので二階から何処へ飛び降りたか、地上へは来たが近くへ爆弾落とされたか爆風で、腸が飛び出るような風圧、小石交じりの埃が伏せた背中へ落ちかかる、生きた心地は無い、近くの防空壕へ助け求めていくが、学徒動員された女子学徒ばかりで満員、番をしていた憲兵に追い返される、急降下した敵機の機関銃の玉が鉄骨に跳ね返り、耳元をかすめる、無数の土ほこりと石のかけらが、ヘルメットへ音を立てて落ちかかる、其の中を地を這うように、又田植したばかりの田を泥だらけになり北の方へ逃げる、
どれ程時間が過ぎたか、敵艦載機は引き上げたようだ。避難していた山林から農道まで出て見ると農家から逃げ出した馬や家畜があちこちで死んでいる、何かで片足失った人や、顔から血を流した人、避難途中ではぐれた親子の叫び声、横目で其の現場を見ながら学校の講堂入り口近くまで来ると、子供を失った近くの老婆だろうが狂ったように喚いている、農家の主婦の泣声、其処を軍服を着た兵が指揮刀や銃剣抜いて振り回し道を明け、その後ろから担架に乗せられた死体が続ぞく運び込まれる
ゴム風船のように膨れ上がり泥まみれ、性別判定不可。夕闇迫る初夏の本社工場、真っ黒の油の黒煙を上げて燃え上がる建物、時折真っ赤な炎がコノ光景を照らし出す、地獄絵図。正に地獄絵図だが、 命令系統ズタズタ、デマも飛ぶ、
それでも同僚達、何処からともなく少しずつ集まり高山線線路伝いに歩いて(線路破壊され列車脱線横転)坂祝工場まで行く、此処は爆撃されなくて無傷、これで安心したのか其れからは何したか覚えていない。多分暴睡したのだろう、この時の一瞬の運命の分かれ道は防空壕へ入れて貰えなかった事でした。防空壕に居た人は徴用された女子挺身隊や、学徒動員された女子学生でしたが、殆ど死んでいた。
その後も26日に残る工場の爆撃があったが少し度胸も付いて急降下する戦闘機のアメリカ兵まで一瞬見えた。昭和20年、僅か数え年16歳の少年時代の昔話、今日はそんな日だった。
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