ネコの道草

83歳のネコブログです。

仏教

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雑談から仏教へ

7月29日ブログの続き、
明治時代を生きた方々は家の祖母に限らず、貧しい農家に生まれた人々は、寺子屋に行ける身分の人を除いて、殆んど無学に等しかったそうです。知識は少なくても、今の様に、戦後社会の、自分だけの権利を主張する身勝手の、時代とは違い、知恵は、多く持ち、浄土真宗の教えを素直に受け取り、信心深い人が沢山見えました。半端な知識で、他人を踏み越えて暮らすより、一歩下がって、「貴方のお蔭様」の心を教えて居るのが、佛教だと思います。
 
さて、私達の地域は殆どの家庭は浄土真宗で、お西、又お東で、お東を真宗大谷派といいますが、旦那寺の住職と共に、運営相談、世話、は寺総代が選挙で選ばれて、任期は3年乃至4年と成っており、再選は妨げないので、何年でも継続しますが、年行司と言うのが1年交代その下で色々の世話をします。その時の申し送りの書類と共に、大きい包みを回してきて、其れを仏壇か、床脇棚に安置して置きます。
 
そして其のまま次年度の年行司に、送り誰も此れを開いたものは無いようでした。
若い時代に私は一度開いて見た事が有ったが、読めないので其のまま、しまって置きましたが
平成19年頃に、再度開いて見ました。私には全く読めないので、ボランテアで古文書の解読を教えてみえる、S先生にお願いして、読んで貰いましたのが、次のような「蓮如のお文」でした。
 
1年に1回勤まる、報恩講と共に、在家でお勤めするのを「お敬い(おぶやまい)」と言いますが、昔はその時に必ずこれを開いて読んでいたそうです。
80年余り生きている私でも聞いた事や読まれた事は知りません。
 
多分明治初め生まれの、私の祖母達は、此れを拝聴して、「無益の殺生」をするな、と私達に言い聞かせていたのでしょう。
此れは、東本願寺第5世、一如上人から下賜された物で、元禄11年に此の地区へ下賜されたものですが、なぜ?此の地区へ下賜されたか、理由は解りません。
 
先ず写真の様な刺繍を施した袋に包んだ中から、蒔絵の箱が出てきますが、まだ其の前に此の袋と箱は桐の外箱に修められて、風呂敷で包んであります。
 包んだ状態
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 蒔絵の箱
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蒔絵の箱から「ふくさ」に包んだ蓮如のお文が出てきます。長い年代が経っていますが、その割りに、痛んで居ない。
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蓮如のお文、1条の3 猟漁  此のURLをクリックしてください。本文が出てきます。
 
此れだけでも、蓮如のお文は優しいので解りますが、尚S先生が解説をして下さいましたのが、次の通りです
 
()づ当流の安心の をもむき()は、あなが()ちに わがこゝろ()のわろ()きをも
また妄念妄執の こゝろのを()こるおも とゞ()めよといふにもあらす、 たゝあきな () ひをもし、
奉公をもせよ、猟 すなどり()をもせよ、かゝる あさましき罪業にのみ 朝夕まど()いぬる我等
ごときのいたづらもの(徒者)を、 たす()けんとまします 弥陀如来の本願にて ましますぞと、ふか()
信じて、一心にふたこゝろ(二心)なく 弥陀一仏の悲願にすが()りて、 たす()けましませとおも()
こゝろの一念の信まこと (「信」は「信心」)なれば、かならず如来の おたす(御助)けにあづか()るものなり、
このうへには、なにとこゝろえ(心得)て 念仏まう()すべきぞなれば、 往生はいま()の信力によりて 御たす()けありつる かたじけな()き御恩報謝の ために、わかいのち()()らん かぎ()りは、報謝のためと おも()ひて、念仏まう()す べきなり、これを当流の 安心決定したる信心の 行者とはまう()すべきなり   あなかしこ/\
 
9月25日一如 (東本願寺第五世)
美濃国郡上郡 ○○○村○○寺
22日講中
 
 
ご下賜状
其の方望みにより成し下さる御書に候あいだ、有難く存ぜられ、弥(いよいよ)
向後法義を相守らるべき旨 御意に候、其れに就き志として金子壱両指し上げられ、披
露をとげ候ところ、宜しく申し入る旨仰せ出され候、其のため此の如くに候なり
 
海老名主税助   (花押)
 石 井隼人    (花押)
元禄11年 9月25日
濃州郡上○○○村○○寺
22日講中
 
以上の様な物ですが、話が堅すぎて少し肩が凝ります。
縦書きを横書きに直しましたが、長い文章で難しい物を、良く最後まで、読んで下されて、有難うございます。
私達の地域へ下賜されたのが、元禄11年と言うと、赤穂事件より前の年ですが、私達の地区では、現在まで律儀に此れを大事に、保管、持ち回していた事、我が地域の誇りでもあると、同時に次世代へも継承しなけれ、成りません。

雑談から仏教へ

今日は、4日目の点滴を済まして、少し体も楽になり、帰りは比較交通量の少ない岐阜県、県道52号線を長良川を眺めながら、南下する。
 
国道に架かる「奥美濃大橋」上流を見ると、鯉昇り??・・・が未だ架かったまま、変だぞと思い良く見ると、鯉でなく、鮎でした。車から降りて写真撮る。
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長良川は、昨日の雨で少し水嵩が増しているが、大和町まで来ると、もう簗漁の準備中、人足がそれぞれの持ち場で、簗架け作業中。
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川の瀬では、大勢が鮎の友釣り、平日でも結構大勢居るようだ。所で私は鮎釣り勿論、その他、生き物を取る漁をした事ことが、全く無いので、友釣りの穴場や、仕掛けは他人から聞いて居るだけで、自分の経験談を話す事は、勿論出来ないし、釣りの穴場を教える事も出来ない。
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鮎料理から、雑魚までどんな料理でも、喜んで良く食べるのに、殺生する事が大の苦手、随分身勝手なことだと思っている。名古屋、岐阜に住む友人が良い鮎釣りの穴場に住んで居て、何故鮎釣りを遣らないのか、不思議だと言う。その訳を少し話すと、
 
私は此の家の3代目長男として、生まれ、其れを祖母に随分可愛がって、育ててもらった、(父母も勿論だが)思い出が沢山残っている、初孫の可愛いのは誰でも同じだが、ことのほか、私だけ大事された様に思う。
 
祖母は、江戸時代が終って明治9年8月に生まれた人で、百姓でも女でも、習い事が出来る学校制度が、始まったばかりの時代の人で「読み、書き、そろばん」だけを4年間で卒業出来る様な学校へ行ったと話していた。それも子守りを遣りながら、手の空いた好きな日だけ、4年行けば終わりでしたと言っていた。そんな事で読み、書き、は全く出来なかったが、算数だけは出来て、僅か3歳か、4歳の私に金の貸し借りには、金利が付くから、大きくなっても高い利息の付く金は絶対借り無いよう等と、教えて居たが、そんな坊に解るはずが無かった。
其の外に「無益な殺生するな」と何時も、口癖の様に、言っていた。此れは、生活の為に殺生するのは許されるが、遊びの殺生は地獄行きだぞと、言って絶対に遊び半分の魚つりは、遣らせて貰えなかった、勿論釣り糸さえ買ってもらえず、他所の子供の釣りを見ているだけで、一人で川へ遊びに行く事は絶対できなかった。そんな事で子供の時から強く、「無益の殺生」するのを戒められていた。
 
世間の世渡りは真っ直ぐ正しく生きるようにと。坊様の説教から聞いた話や、伝説、昔話し、歴史等織り交ぜて、話していたが、何処であれだけのネタを聞いたのか、今でも通用する物語が沢山ありました。
 
5年程前にふと私達の檀家の者、誰も何が書いて有るのか、知らずに共同所有して居る、「蓮如のお文で1帖の3、「漁、猟」というお文様」で、ある事が解り、祖母の「無益な殺生」の出所が僅かに見えてきた
続きは後ほど、そのお文を又投稿します。
 

親鸞

 
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今日の中日新聞朝刊コピーです。
 
 
五木寛之氏作。「親鸞」連載小説ですが、「念仏で雨を降らす事は出来ない」と言いながら
7日間の雨乞い法会をしているが、此の儘雨を降らす事が出来ないと、この先親鸞は張り付けになるか、殺されるか?どうなる事かと、心配しながら朝刊開いたら、
 
今日は稲光り、雷鳴の中から大雨が降って来た。と物語は続いて居た。
 
既に750有余年の過ぎし昔の事ですが、何故か今日の雨が待ち遠しかった。作家五木寛之氏の小説にスッカリはまり込んでしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浄土真宗は他宗とは少し異なる宗派だと思うが、いきなり親鸞の法話を聞くと如何も、即座に理解の出来ない部分で、誤解され易い所があるようだ。
絶対他力を柱とする所だそうだが、我々凡夫には自力を断つ事が難しいのである。
 
「悪人正機説」や親鸞が語った「親鸞は、亡き父母に孝行する為に追善供養の念仏申した事一度も有りません」等、一見親不孝者と思いがちですが、先日の永代経でも、法話の話題に成りました。
 
私は詳しくは解りません、それぞれが浄土真宗旦那寺のご院主様に聞いてください。
 

永代経

毎年旦那寺では、春と秋には永代経が勤まる。今日の法話で初めて聞いたのですが、私は永代経とは、先祖の法名を上げて、お勤めするのだから先祖供養だと思っていました。
 
所が今日の法話で、阿弥陀様の前で、浄土真宗、親鸞聖人、7高僧の教えを改めて、聞き返すもので、永代に教えを守り続けて行くのが、永代経です。と言われて、先祖供養はその次だと言われた。
 
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昨日今日も午前と午後のお勤めがあるが、午後1時30分よりのお勤めですが、梵鐘はお勤め開始1時間前に撞きます。
 
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お勤め、声明の始まる5分前に喚鐘を打ちます。(五、三)打ちと言うそうだが、最初は5ツ打ち段々大きく打った所で、7つ打つ、段々小さくなり、3ツ打って終わり、本堂では、声明の始まり。
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仏説阿弥陀経に続いて、参詣者全員で、正信偈(草四句目下)と念仏和讃は同朋奉讃式で、10分程で終わります。
 
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法話は、大阪教区から郡上市大和町まで、わざわざお越し戴いたそうだが、お参りの方が少なすぎる、申し訳が無い様な気がする。
 
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12年勤めた寺総代も今年は、次世代へ受け継ぎて貰ったので、安気にお参りできた。

関市善光寺

昨日今日と、暖かい日が続く、郡上大和では、まだ桜の咲いた便りが無い、今日は40K程南の関市へ雑用を作り、花見遊びに行って見る、ホームセンターへ行ったり、取れたて市場、見て廻ったり、午前中雑用済まして、午後関市、善光寺へ行く。
 
此処は長良川鉄道関駅のすぐ前で、安桜山(あざくらやま)の麓に位置する所で、起源は古く、寛政10年(1798)4月に信州善光寺大勧進 等順大和尚が当山に出開帳されたのが縁で、本山善光寺堂を模して、約10ヶ年を費し建立され、長野善光寺とそっくり、約3分の1の大きさで、ミニ善光寺と親しまれております。善光寺如来像をご分身として、お迎えし、7年目毎に秘仏本尊の厨子の扉を開き大開帳をしています。
と言う案内でした。
 
岐阜県八景の一つで有るそうだが、桜は其れほど多くは無いが、桜便りには、毎年必ず出できます。
 
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高い所に有るのは鐘楼です。
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1753年宝暦年間、関の新屋広瀬家、新太郎が、祖父母供養のため、一建立で建てられたのが、此の大仏殿(旧本堂)で、長野善光寺出開帳の際、此処へ立ち寄られ此れが縁で善光寺が建てられたと伝えられています。   岐阜県最大の大仏と言うことです。
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寛政10年に当山へ出開帳されたのが、縁で信州善光寺を模して建てられたのが、此の本堂と言う事でした。
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本堂縁側より、関市街を眺める。
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城郭を思わせる様な、石垣。
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資料は関善光寺(宗休寺)案内より、写す
 
帰りは美濃市小倉公園下の長良川畔の桜を大和町より一足早く見て帰る。
続きは明日のブログへ。

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