ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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バレンタイン

今日も小雪が舞って来て、相変わらず寒い日が続く。暦では2月を如月(きさらぎ)と書いてあるが、まだ寒さが続くので、更に衣を着るので、「衣更着」とも書くそうです。
 
食料の買い出しに行くと、菓子売り場では、1月の中頃から、派手にチョコレートの売り込み広告が眼に付く様になる。若い女性が、普段思いを寄せている人へチョコを贈るのだという。1月14日が、丁度其の日と言うらしい。何時から始まったのか、知らない内に流行り出した。
 
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最近は若い女性だけの特権でなくなり、おばさんも結構チョコを買っている様子。製菓業界の販売作戦に皆が、まんまと乗せられ、チョコの売れる日になってしまった。
 
明日は、建国の日、私達の子供の頃は、「紀元節」と呼び、小学校は(紀元節式)が有るだけで終わりました、寒い講堂に全員集められて、校長先生の長い講話に続き、来賓の祝辞の言葉、紀元節の歌を歌い、早く終れば良いと思うだけでした。
 
其の頃は(昭和12年頃)田舎の駄菓子屋には、チョコ等と言う様な高級菓子は売って居なかったようです。
煎餅、ビーナッツ、飴玉、甘甘棒(かんかんぼう)、水飴、一銭の小使いを貰い買いに行くと、ビーナッツなら、8個程ありました、其の奥に饅頭が大皿に盛り付けて棚に入れて売り出して有ったが、子供の小使いでは、手の届かない物で見るだけでした。子供の買う物では無いと最初から諦めていましたが、晩には無くなって居たので、誰が買ったか?不思議なくらいでした。
 
 
 

杉の花粉

今年は例年の様に雪は降らない代わりに、朝晩の冷え込みがキツイ。
日中は、天気が良ければ、時々歩き運動に行って見るが、その道々の農道や、住宅の際まで、杉の木が茂って来ている。
 
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空襲で戦後の焼け跡の、復興に大量の木材が伐採されて、禿山に成った山へ国策もあり、昭和30年から40年後半に掛けて植えられた、杉、檜、が成長して、今此の杉や檜の需要を待っているが、木材の価格が大きく下がり、伐採しても運搬や、人件費に消えて仕舞い、また其上、56年豪雪で被害を受けてからは、山林の手入れが放置された儘になり、大量の花粉が生産されて、毎年大勢の人が花粉症に悩まされています。
 
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杉花粉は昔でも春一番が吹くと、向かい側の山が霞んで見え難く成るほど、出し続けて居ましたが、その時は花粉症と言う言葉も知らなかった。
 
花粉症のアレルギーが、言われ始めたのは、あまり昔の事では無い。
私達、若い時は、山仕事へ行き、家へ帰ると肩から、背中、腰辺りまで花粉で黄色くなったのを、払いよけて、知らぬ顔して居たが、花粉症には成らなかったし、花粉症という、言葉を知らなかった。
 
近くに山林の無い都市部でも、花粉症に悩む人が、大勢居ると言うが、若い人の特有の体質なのでしょうか。
 
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杉は雄も、雌も、一本の株に付いていて、雄花が花粉の生産をして、早い年ですと、2月中旬頃から、初夏まで花粉を撒き散らします。その花粉は風に乗って遠く山の無い、都市までも飛んで行き、花粉アレルギーの人が居ると、花粉症を引き起こすと言われます。
下の写真は、花粉を出す雄花です。
 
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下の写真、
雌花は飛んで来た花粉を受け取り、受粉して種を作り、種を飛ばしてしまった、後の殻です。
 
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何れにしても、花粉症体質の人は、他の人より余分な苦しみをしなければ、ならない訳ですが、花粉の雄花の咲く杉を伐採するか、花粉の出ない品種を開発して貰うしか、無いようです。
 
40年か50年前には、今頃は杉の木の高値を予想して植えた筈ですが、こんな事なら、桜の木か、紅葉の木、を植えて居れば、少しは観光の役に立った事でしょう
今頃愚痴を言っても仕方がないが!!
歴史は毎日変わって行くが、其の先は、誰も知らない。
 
 
 

薩摩芋の思い出

今日は、良い天気で日中は暑いが、朝晩は、メッキリ寒くなり、炬燵やストーブを出している。もう何時霜が降りてもおかしく無いので、残ったサツマイモを全部掘ってきた。
 
八月終わり頃から、少しずつ芋の株から抜いて居たのと、少しの場所しか作って居ないから、数は知れた物ですが、芋を食べる人は家内一人だけですから、此れだけで十分です。
 
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芋を掘った場所。
    
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昭和19年頃に、川崎航空の機械工養成所で教育を受けて居た頃は、食料事情が非常に悪く、毎日腹が減って何か腹の足しに成る物が欲しいばかりで、勉強はそっちのけ、目の色を変えて、毎日食い物探しをしていた。
 
或る日、教練の休憩時間に、フト塀の隙間から覗くと、外は一面の薩摩芋畑でした。
今度の日曜日に外出許可を貰い、此の畑主の所へ行き芋を少し分けて貰うつもりで、計画していた所、不寝番の当番が回ってきました。ネコの時間は、夜中の1時からです。
 
二人一組で、一人は巡回、一人は詰め所で電話や、非常事態に備えて、其処で待機する事に成って居た。いよいよ午前一時前に成り、前の人と交代をして、部署に付いた。
 
相方のH君が、「今夜塀の外の薩摩芋を掘りに行こう」ヒソヒソと耳打ちをするが、チョト躊躇うが、早速実行になる。
 
裏の塀は木造の3m足らずの高さだが、内側の貫きを足場にして、よじ登り、飛び降りると、芋つるの中から、五ヶ〜六ヶ程抜き取り、塀の下へ穴を掘り、芋を埋めて、又塀を乗り越え帰るのだが、今度は足場が無い。畑を探すと棒の切れがあり、塀に立てかけて、何とか元の不寝番の部署に帰って、二人だけの秘密にし、素知らぬ顔をして居た、
夜間に埋めて置いた薩摩芋を、内側の塀の下から掘ってきて、布団の中で生芋をナイフで切って、かじって空き腹の足しにしていた。
 
URLは此処から岐阜までの、軍事訓練の行軍です。
 
此の養成所も11月一杯で終了して、本社工場へ戻るが、機械は田舎の工場へ疎開中で、何も遣る仕事は無ので、工場空き地原野の開墾。そんな事して居るうちに如何にか、担当の機械があてがわれた。
 
其処へ2歳年上の女子学徒動員で派遣されて来た人の所へ、未だ半人前の坊(neko)に、女子学徒にノギス、マイクロメーター、その他測定工具の原理や測定の遣り方を教えよと、いわれる。
 
女子学徒は6人位ずつに分けて、現場で図を描いたり、実物を取って測り方を教えていたが、其の中の一人のお姉さんが、私の説明が終り帰り掛けると、大きな風呂敷包みを持ってきて、「此れを寮のWに渡してほしい」と言う。Wさんと聞いてビックリ、軍事教練の教官と、兼任で、私の泊まっている寮長です。その女子学徒は、Wさんの妹だと言う。
 
消燈後に密かに、寮長の部屋を訪れて、風呂敷包みを渡して、帰ろうとすると、チョット待てと言われるが、こんな鬼みたいな、教官寮長の居る部屋から一刻も早く退散したいが、寮長は衣類や、下着の包みの中から、新聞紙に包んだ薩摩芋のふかしたのを、一つ差し出して此処で喰って行けと言われる。
 
そして「君が俺の妹の担当か、頼むぞ」と言われて、恐縮、  芋は此処で喰って行け、他の者に見付かると不都合だ、と言うが、喉に詰まって通らない、お茶迄教官にサービスして貰い、そそくさと引き上げたが、其のうち2〜3回、寮長の下着の交換と一緒にふかし薩摩芋の仲介をして、寮長教官からは受けが良くなり、同僚が知らない内に、たらふく芋が喰えて、腹の減ったのが助かった。
 
これも、教官と私だけの秘密で、普段は皆と一緒に教練で絞られていた。
今は飽食の時代で、ネコは余り薩摩芋を、好まないが、さつま芋を見ると昔、こんな事も有ったなと思い出す。
 
今日は八朔(はっさく)、 二百十日、関東大震災、と厄日です。八朔とは、稲の半作とも言われて、災害から、逃れれば、豊作と言います。
 
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   又ネットで調べると、昔は、豊作の初穂を恩人に贈る風習があって、(「田の実」の節句)と言う事で、「頼み」に掛けて、お世話に成った人に、贈り物をする様に成ったそうです。
いわゆる今日(9月1日)は、旧盆でもあり、お中元挨拶の始まりらしい。
 
郡上を治めて居た、東氏、東殿山城の、北の守りをしていた、木越城主、も、今日の八朔のお中元挨拶の帰り道に殺害されて、歴史の逆転換が有りました。
 
(その事件)
郡上八幡、東殿山の、東氏13代目、東常堯が飛騨、帰雲城より阿通を、妻として迎える少し前までは、郡上と牧戸の蛭ヶ野あたりは、西の白山伏流水が湧き出ていて、一面沼池で水芭蕉の、群生地になって、とても人馬の通行出来る所ではなかった。それで牧戸城は南からの侵入には無防備であったが、少しずつ蛭ヶ野道路も整備されてきて郡上からの攻撃も考えなければならなくなり、そこで郡上の東常堯へ黄金の持参金付で、氏理(うじさと)の妹、阿通を嫁入りさせたのである。
 
常堯は阿通の器量と溌剌とした健康美にはお気入りだったが 元々凡庸の常堯は場皿の木越城主遠藤胤縁の妹、お園に惚れていて夜、お園の寝所へ忍びこみ盗賊呼ばりされて、面目を失って居た所へ同じ士族の畑佐城、六右衛門の所へ嫁いだ。この世の事はなんでも自分の思う様に事が運ぶと思っている、常堯は激怒た。畑佐六右衛門とも不仲になり 又胤縁にも何時までも怨念に懲り固まってた。
                   (遠藤木越城,跡の有る山)
 
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八朔のお祝い(新暦9月1日)に毎年の行事のとして、贈り物を持って遠藤胤縁は家来を連れて東殿山へ挨拶に上がった、   遅くまで祝い酒の振る舞いを受け、ほろ酔い気分になった胤縁主従は この、神明神社まで帰って来て、 此処から川を越えようとして準備に掛かった所を 密かに後を付いて来た、常堯の家臣によって殺害されたという
 
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弟の仇討ちと、南の守りをしていた、刈安城、兄の遠藤盛数は八幡山に陣を張り、東殿山の戦いが始まり、東氏を滅ぼして、遠藤の時代が始まる。
(現在の八幡城は遠藤盛数が初代)
 
ここで殺害された木越城主供養の為此の土地では八朔踊りがあった。その時代の供養踊りは、まだ今の様な踊りとしては確立していなかったが、  提灯に火を入れて亡くなった其の霊を迎え 大勢の人が輪になって霊を迎え、又あの世へ送る仏教行事だった。 そして皆で念仏を上げながら輪を作り提灯の廻りを、回るだけの単調な行事だったそうです。 
 
そして宝暦騒動の後、青山の殿様になり少しずつ年月をかけて、現在の郡上踊りの形になっていった。
 
胤縁殺害された場所の話は、その他にも、色々の説が有るが、私が、若い頃、既に故人と成った方からも聞いていたが、良く覚えて居ないので、郷土史家の話も、簡単に入れています。
                                           (郡上郷土史家の話から)       
 

S20年の食料事情

今日は盆であると同時に、終戦から67回目の日です。盆はその家族の六親眷属(ろくしんけんぞく)の人達が、集まり、先祖の墓参りや、久しぶりで顔を合わす夏の、楽しいひと時でもあります。
 
遥か遡り、昭和20年の今日は、日本国の、庶民が初めて昭和天皇の声を聞いた日で、其れまでは天皇は、神様で有ったので、天皇陛下の声を聞く等とは、思いも及ばなかったのです。
 
「正午に重大放送がある」と言う話は聞いたが、其れが何であるかと、言う事は全く解らなかった。
 
川崎航空の職場で始めて日本が負けたのだと聞かされて、此れからは、どうすれば良いのか、指示の出来る人は一人も居なかった、
B29からの、爆弾や焼夷弾が、落とされなくなって、命の安心は出来た物の、何時アメリカ兵が上陸して来るのか、8月一杯は不安の連続でした。
 
 
戦時中に教えられた、鬼畜米英、も嘘だったことも解り、胸をなでおろしたが、それからは食料事情の厳しさが、戦時中より悪くなり、小さい農家では家族の食料確保が、やっとの事でした。
 
まして非農家では、其の日に食う米など、ある筈が無いし、サツマイモやカボチャで、飢えをしのいでいたが、食べられそうな草や、木の芽等は取尽くされて、食えそうな物は、何でも食った。
 
畑で、農家が作った、カボチャや芋なども、夜の内に盗まれる事も度々あり、恥も外聞もない必死に追い詰められた、毎日でした。
 
東京皇居前広場では、食糧メーデーで、「朕はたらふく、食っている。爾臣民飢えて死ね」と、書いたプラカードを揚げた、人が有り、「天皇を誹謗した」と言う事で一時問題なりました。
あれから、67年此れを知る人も少なくなり、現在は其れを思い出すと、極楽の世界です。
昨年の盆風景
 
 
今年は雨にたたられた盆で、外では御馳走出来なかったが、大勢でワイワイガヤガヤと、食べるご馳走は、又格別です。
 
ばあさんの手伝いで、子供や孫達が、沢山作ってくれて、久しぶりのお楽しみでした。
茗荷は、自家製の天然ものです
 
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67年の昔には、こんな良い世の中が来るとは誰も想像しなかったでしょう。
白米のご飯が食える事が、夢の世界でした、それを「銀飯」と呼んでいました。
 
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普段は平和ボケで忘れているが、毎年今日の日は其の当時の食料難を思い出します。
戦争は、負けても、勝っても、悲惨な目に遭うのは、何も知らされない庶民だけです。

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