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昨日の続き(青葉の笛)
歌舞伎 一谷嫩軍記 熊谷陣屋段に出る青葉の笛
昭和50年代まで、この地域にも、農村歌舞伎があり、私は大工をしていた関係、大道具から小道具、ステージ設定までを歌舞伎の手付け(師匠)から、説明を聞きながら此「一谷嫩軍記」の裏方をした事があります。
この作品は、実際にあった物語では有るが、歌舞伎では、どんでん返しで、観客を喜ばせるように作って有ります。
熊谷直実が制札の見得を切っているところ
逆さに持っている制札には上のような事が書いてある
江南一枝の桜
一枝を伐らば一指を剪るべし
「法皇の落胤である敦盛の命は助けよ」
と、直実は解釈したのである。
神戸須磨の浦に張った平家の陣へ直実の子、小次郎が16歳の初陣で出て行きます。後に続き源氏の平山武者所がきますが、小次郎と平山武者は仲が良くありません。平山に煽てられた小次郎は負傷して父の直実に抱えられて逃げて帰ります。それから熊谷直実は平(たいら)の敦盛を捕まえて打つのですが。良く見ると我が子小次郎と同じ歳、この若者を打つには忍びないが、是非も無いと打ちます
一谷鵯越の坂落し絵
神戸須磨寺にある、
敦盛塚
此処で熊谷陣屋へ直実の妻、相模と敦盛の母、藤の方が来ます。熊谷夫婦にとっては藤の方は恩人です。直実と相模が朝廷に勤めていた頃、二人が不義の恋になり罪に成る所を、藤の方に助けられた恩人です。其の時二人とも妊娠していました。それが小次郎と敦盛ですが、敦盛は法皇の落胤でした、でも、戦場は是非もなく、敦盛を撃ったと苦境を語ります。
神戸須磨寺
三重の塔が見えます。
敦盛の母、藤の方は、わが子が持っていた青葉の笛を出して、もう撃たれて亡くなった、敦盛を偲びます
直実の妻相模は「いまわの際まで、肌身離さず持っていた「青葉の笛」を敦盛様のお声を聞くと思うて、追善あそばせ」と勧めます。
神戸須磨寺に其の青葉の笛がありました。
やがて敦盛の首を持った熊谷直実が現れますが、義経の首実験で敦盛では無く、小次郎の首でした。わが子を身代わりにしたのです。
この辺りは歌舞伎(寺子屋)の松王丸の首実検と手法が良くにています。
敦盛は法皇の落胤で、犯してはいけなかったのです。
最後には直実は此世と、わが身の無常を感じて、蓮生という名前になり、京都黒谷、法然の弟子として出家します。
私達の子供の頃は、お寺などで説教法話などでも、坊様から話も聞きましたが、あまり解らなかった。(親鸞も法然の弟子ですので、蓮生坊と併せて話したのだろう)
説明が上手く出来ないから、青葉の笛が途中から仏教話へ行って仕舞った、お粗末でした。
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