ネコの道草

83歳のネコブログです。

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青葉の笛(続き)

 
昨日の続き(青葉の笛)
歌舞伎 一谷嫩軍記 熊谷陣屋段に出る青葉の笛
 
昭和50年代まで、この地域にも、農村歌舞伎があり、私は大工をしていた関係、大道具から小道具、ステージ設定までを歌舞伎の手付け(師匠)から、説明を聞きながら此「一谷嫩軍記」の裏方をした事があります。
 
この作品は、実際にあった物語では有るが、歌舞伎では、どんでん返しで、観客を喜ばせるように作って有ります。イメージ 1
 
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熊谷直実が制札の見得を切っているところ
逆さに持っている制札には上のような事が書いてある
 
江南一枝の桜
   一枝を伐らば一指を剪るべし
 
「法皇の落胤である敦盛の命は助けよ」
と、直実は解釈したのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
神戸須磨の浦に張った平家の陣へ直実の子、小次郎が16歳の初陣で出て行きます。後に続き源氏の平山武者所がきますが、小次郎と平山武者は仲が良くありません。平山に煽てられた小次郎は負傷して父の直実に抱えられて逃げて帰ります。それから熊谷直実は平(たいら)の敦盛を捕まえて打つのですが。良く見ると我が子小次郎と同じ歳、この若者を打つには忍びないが、是非も無いと打ちます
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一谷鵯越の坂落し絵
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神戸須磨寺にある、
敦盛塚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
此処で熊谷陣屋へ直実の妻、相模と敦盛の母、藤の方が来ます。熊谷夫婦にとっては藤の方は恩人です。直実と相模が朝廷に勤めていた頃、二人が不義の恋になり罪に成る所を、藤の方に助けられた恩人です。其の時二人とも妊娠していました。それが小次郎と敦盛ですが、敦盛は法皇の落胤でした、でも、戦場は是非もなく、敦盛を撃ったと苦境を語ります。
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神戸須磨寺
三重の塔が見えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敦盛の母、藤の方は、わが子が持っていた青葉の笛を出して、もう撃たれて亡くなった、敦盛を偲びます
 
直実の妻相模は「いまわの際まで、肌身離さず持っていた「青葉の笛」を敦盛様のお声を聞くと思うて、追善あそばせ」と勧めます。
 
神戸須磨寺に其の青葉の笛がありました。
 
やがて敦盛の首を持った熊谷直実が現れますが、義経の首実験で敦盛では無く、小次郎の首でした。わが子を身代わりにしたのです。
この辺りは歌舞伎(寺子屋)の松王丸の首実検と手法が良くにています。
 
敦盛は法皇の落胤で、犯してはいけなかったのです。
 
最後には直実は此世と、わが身の無常を感じて、蓮生という名前になり、京都黒谷、法然の弟子として出家します。
 
私達の子供の頃は、お寺などで説教法話などでも、坊様から話も聞きましたが、あまり解らなかった。(親鸞も法然の弟子ですので、蓮生坊と併せて話したのだろう)
 
説明が上手く出来ないから、青葉の笛が途中から仏教話へ行って仕舞った、お粗末でした。
 

青葉の笛

 
昨日(5/17)九頭竜ダムの続き
 
国道158号線を油坂から大野市へ向かって左に九頭竜ダムを見ながら走ると、「野尻」と書いたバス停が有るが、右側に大鳥居が見えてくる。(穴馬総社)である。
以前は此処に観光バスやドライバー相手の大きいレストランが有ったが、久しぶりで通ったらスッカリ更地になっていた。
そのドライブインに「青葉の笛」と書いた大きな看板があったが、(看板も無く成っている)私は前からこの(青葉の笛)が何故此処にあるのか不思議であった。
 
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歌舞伎
一谷嫩軍記(熊谷陣屋)
制札を持って見得をきっているのが、熊谷次郎直実
その右が義経
下段左が直実の妻、相模
右が敦盛の母 藤の方
青葉の笛は生前、敦盛が愛用していたのが、母、藤の方へ渡り、打たれた敦盛の追善供養に青葉の笛を吹く所が、前の場面にある。
                                                                                                                                      
 
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所がです。九頭竜湖駅の線路側に、「青葉の笛」資料館があった。
歌舞伎 一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)は神戸の源平合戦物語で敦盛が直実に打たれるまで、吹いていたと言う青葉の笛(須磨寺に保管されている)
疑問を解くため資料館へ行く
 
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資料館前に銅像まである。
入館料300円
払って入って見る。
 
だれも居ない、ただ私1人だけ。
時間をユックリ掛けて資料やその青葉の笛なる物を見る。
 
以下はその資料を借りてそのまま移します。
 
資料館の笛や資料は写真撮れないので、有りません
 
 
悪源太義平と青葉の笛  〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%B9%B3〉クリック
 
それによると、悪源太義平公は、都の戦に破れて北国に落ち、この村に忍んでいた山之内と言う所に御座所をたてて住んだ。其処には1人の女子がおり、お給仕をしたが義平公のお気に入り、程なく懐妊した。女子の父は村長(むらおさ)朝日助座衛門で、女子の名は(おみつ)と言う。
義平はここで束の間の安らぎを過ごしたが、父義朝(よしとも)がうたれた事を知り、仇を討つため京に
のぼる日が来た。
別れの時義平は「若し生まれてくる子が男の子であったなら、源氏の嫡男として、京に登らせろ」と
源氏の印である白旗と太刀を渡した。
又「若し生まれてくる子が女の子なら、この笛を吹きながら、この地で平穏に暮らしてくれ」と一管の横笛を渡した。その横笛は現在でも(青葉の笛)と言う名前で伝えられている。
 
一説には女子が生まれ、それで遺物が子孫に伝わっているのだと言う。
籏は能野の社に納めておいたが、天正2年盗賊が入り、籏やその他宝物、武具、馬具も盗まれた。
 
そうだったのか>>>>神戸の青葉の笛とは別の話でした。
神戸須磨寺の青葉の笛は又次の機会に書いてみます。(歌舞伎話ですから創作物)
 
 
 
 

九頭竜ダム

 
昨日の「九頭竜新緑まつり」に行く途中には、昭和42年に完成した、九頭竜ダムがあり、飛騨荘川の御母衣ダム工事より一歩、後に完成しました。
 
昭和32年頃の御母衣ダム工事用仮設建築物を、少し手掛けた事(大工工事だけ)もあり、この御母衣ダム仮設工事が済めば、九頭流ダム仮設工事に掛かる予定をしていたが、折りしも伊勢湾台風被害が各地であり、仕事は山程抱え込み、九頭竜ダム仮設工事には参加出来なかった。
 
昭和34年9月26日の伊勢湾台風では、この九頭竜川も氾濫して家屋の流失、死者まで出る惨事になり、同38年頃より、御母衣ダムと並行しながら電源開発工事が進んでいきました。其の当時はまだこの地を「穴馬村」と呼んでいたと思いますが?!何時しか和泉村になり、現在は大野市和泉に成っているのか??又「穴馬」の地名残っているのか?
知りませんので、調べてみます
イメージ 1
 
 
箱ケ瀬に掛かる夢の大橋と言います。
 
これが出来た頃はこんな長い大きな橋見たこと無いと、皆が驚いていた。
 
それから瀬戸内海に海を跨ぐ大橋が出来ました。
 
 
 
 
 
 
 
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ダム堰堤より上流を見る
 
 
何時もより水嵩が少ないようだ。
 
でも良く水は澄んで綺麗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ダムゲート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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堰堤は両面ともこんな石で覆われている。
 
中心は粘土層で固めてあるそうです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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発電所はこの地下にある。
画面右にある段々みたいなものは、堰堤上に有る建物地下から此処の階段を通り、発電所まで通ずる階段か?
 
中へ入った事が無いから知らないが、私の想像です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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歴史的にも、昔から美濃と越前の境、油坂を越えて、宗教、文化の交流や、又は大和町、篠脇城へ朝倉勢の侵攻があったり、信長との「石山合戦」(現大阪城に石山寺が有った)の真宗退去弾圧では、郡上の私達祖先も越前の、浄土真宗門徒たちの道案内や、此処の門徒たちと、合流して石山合戦に行ったという、この道は色々の面で深い、美濃と繋がり持つ歴史街道です。
その歴史街道もダムの底に沈んでしまった。
           
 
 
 
 
 
 
 
 

弁慶伝説

今年の春は雨降りが多くて、奥美濃(郡上市大和町)まで桜前線が北上しても、ユックリ花見が出来ない。
大和町長良川沿いの桜今朝満開でした。八幡町はもう、散り初めている。
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さて本題の(弁慶伝説)ですが、この桜の向こう側の橋の下辺りに、弁慶岩と言う岩があった。
子供の頃に古老の話に依ると、弁慶が此処を通った足跡がある、と言うので、行って見るとそれらしき足跡?が残っていた。今は河川改修などで、何処へ行ったか判らなくなった。
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弁慶が大きな下駄を履いて歩いて居ると、その下駄の歯に石が挟まった、隣の石で下駄の石をコンコンと払うと、約400Mも向こうの、河辺神社まで飛んで行ったそうな、
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此宮の南隣が私の学んだ小学校です。
 
河辺神社社標横の石が、弁慶の下駄の歯に挟まった石?!!
 
子供心にも弁慶という者は、随分大きい者だと思って居た
 
当時の遊び場でした。
 
 
 
 
 
 
 
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郡上市白鳥町油坂にもこんな標識があるから、弁慶は本当に郡上へ来ているのか、??伝説だけなのか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昨年の私のブログもう一度開いて、

犬山城

イメージ 1奥美濃地方は毎日寒い雨降りが、続いてばかり、
久振りで今日は曇りであるが、少し暖かいので、桜の咲いて居る所へ出かけてみた。
 
奥美濃では桜は未だ蕾が固いが此処まで来ると、満開、
心まで浮き立ってくる。
 
犬山城下町は明日から、祭りだそうだ。
屋台店が準備に忙しく人出も沢山出ている。
 
 
 
 
イメージ 2過去に一回ぐらいは、来た事があると思うが、すっかり忘れている。
こんな綺麗な入口だったかな〜〜
赤い橋を渡り坂を登る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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登城道最後の坂を登りつめたこの位置に岩坂門がある。
 
長い坂では無いから、割りに楽に登れる
 
この横で入場券を買って、
此、門を潜ると、
 
 
 
 
 
 
 
下写真右下クリック拡大
 
 
イメージ 4
イメージ 5
 
天守格より東を見ると木曽川に掛かる犬山橋と成田山
 
長雨で木曽川増水しています。
 
美濃加茂からのライン下りは、今日は休みらしい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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西側を見ると、犬山頭首工
名古屋市の水道水、用水の取り入れ口。
 
 
左下側が用水入口。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7天守格より南側を見る。
 
岩坂門と隅櫓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8この隅櫓をず〜と、南を見ると、遥か霞んで見える物、
 
名古屋駅ツインタワー
晴れて居れば良く見えるそうです。
あいにく今日は曇っていた。
 
その手前は小牧山か?!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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急な階段を下りてきて、庭をキョロつき、最後にさっき入場した、岩坂門を振り返ると、まだ大勢のお客がゾロゾロと居る。
 
明日はお祭りとの事、
今日来て良かった、多分行列で入場になるだろう。
 
城入場料 500円
駐車場は城の東下広場(名古屋証券総合運動場)無料でした。明日も無料と言われた。
 
 
犬山城の歴史
犬山城は天文6年(1537)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって、造られた。
戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。
小牧長久手合戦(1584)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。
江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和4年(1618)城主となってからは、成瀬家が代々受け継いで明治にいたりました。
明治4年(1871)9代目成瀬正肥の時廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など、天守閣を除く建物は殆ど取り壊されてしまいました。
明治24年の濃尾震災で天守閣の東南門の付櫓など、ひどく壊れましたので、それを修理する条件で再び成瀬家所有の城とないました。
昭和36年(1961)から、40年まで、4年間を掛けて解体修理をおこないました。
望楼型の独立天守で高さは24メートルです。
国宝に指定されて居る犬山城、松本城、彦根城、姫路城、の4城の中でも最も古いしろであります。
平成16年4月財団法人 犬山城白帝文庫が設立され、城の所有者が、成瀬家個人から、財団法人になりました。
(犬山城歴史案内看板書)より、うつす。
 
 
 

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