ネコの道草

83歳のネコブログです。

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美濃市小倉山城阯

長い間雪降りや、寒い日ばかりで家に閉じこもりがちであったが、久しぶりで晴れてきたので今日は歩き運動に出かける。行き先の当ても無く、雪の無い方へ足を向けると美濃市ぐらいが年寄りには適当か!!

小倉山城阯(美濃市小倉公園)に車を止める。
此処の城は慶長年間に関が原の軍功により金森長近が築城したと言われているが、それ以前「長近」は福井県大野市(越前大野城)から飛騨高山城についで、小倉山城を築いたと、「長近公顕彰碑」に記されている。

規模は小さいが、駐車場が二の丸、その上が本丸、駐車場下の小倉公園碑の辺りが三の丸か??と思われるが、此処は早い時期に埋め立てられて、詳しい事は解らないらしい。

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この駐車場の眼の前に櫓(やぐら)があるが、これは模擬であるそうな。

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眼の前に石垣がある。是は本物であると言われる。城は平地に築かれた構造に近く背後の山も高くは無いが、長良川に沿った平地みたいな所から頂上の模擬天守閣みたいなものは最初から「物見」の為のものだったらしい。

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塀の狭間であるが、此処から鉄砲を出して攻めてくる、敵を攻撃する所であるから、穴が内側に開いているのが普通のようだが、現在は観光用で体裁よく見せるためか、穴の勾配が外側に開いている。

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さて此処から登って見よう、登山道は良く整備されていて、年配者でも登りやすいが、少し急勾配がある。

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弾丸型(大砲の弾)の忠魂碑が建っているが此処も郭でもあったのか解らないが、その他にも小さい平場が有るが、何であったのか? 其のすぐ上に展望台がある、国道からの遠目で見ると、模擬天守閣かと見えるが、近寄ると展望台でした。

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展望台は鉄骨作りで三層になっていて、すぐ眼下には港町の灯台が見える、此処から船便で多くの商品の積み出しや、流入があり、明治の頃には美濃紙生産が盛んになり、以前はこの地を上有知(こうずち)と、言っていたのが美濃紙にちなんで美濃町というようになった。
(現在岐阜県美濃市)もうすぐ春の花祭りは美濃和紙で作った花みこしと(にわか)が有名。

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長良川上流板取川の合流地点から、手前は美濃橋、右は国道156号線。

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この鹿はこの山の野生ではない、金網の向こう側に居る、此処の動物小公園の住人(鹿)
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上棟式

既に10年余り、元本職の大工仕事には、関わりが無くなり、最近の大工事情は解らないのですが、在来工法で大きな田舎普請の行われて居る現場に、あまりお眼に掛からなく成った様な気がする。

たまに、大きな普請現場でも、主要部分の継ぎ手等を見ると、プレカット方式で加工された所が見られるが、此れも短期間で合理的な工法の時代流れが今の大工事情でしょうか。

私達の昔話をすると、昭和30年頃までは、大工の道具と言えば、まだ江戸時代のママで有った様だが、私は鉄工用のドリルモーターに手揉み錐の柄の部分を切り取って、チャックに挟んで穴あけ仕事をしていましが、その外は皆、人力手仕事ばかりでしたので、随分手間暇も掛かり、その分、お施主さんとは、とても深い信頼関係を築いてきまして、今でも親戚以上のお付き合いをしている所があります。

その中でも仕事初めの地鎮祭と同時に(手斧初め)から、石場かち(地盤固め)に続いて、(棟上げ式)即ち建前ですが、此れは大工の腕の良し悪しを、世間に披露するチャンスで、最も大工の緊張する時である、幾重にも組んだ、小屋組丸太の上に立つ(棟束)の事を(ウダツ)と言っていました。此処まで施工に間違いが無く、無事に仕上げる事は、この家の建前迄は殆ど達成できた事から、(ウダツを上げた)と言っていた。大工棟梁のウダツが上がった訳ではないが、自分には無事達成感からその気になっていた。

無事棟桁も上がり、垂木を打ち屋根の下地が出来れば、お施主さんは棟梁に頼んで四方に御幣、お神酒、塩、洗米を供えて、祭神に此家の(弥栄え)を祈る式を一般に「上棟式」と言って居た、

此れを盛大に行う地域と、施主さんの宗派の形態もあり、色々で有ったが、又何も遣らない地域もあった。
その中でも藁細工で目出度い松竹梅に米俵に宝船、細工物を作り祝い込み、それに続いて、大きな馬の草鞋を作り、其れに棟梁を乗せて祝い歌を歌いながら、二階まで引き上げたりのお祝いもあったり、餅投げ等もあったり。

勿論祝い酒を戴きながらの地域伝統行事であるから、喜んで参加はしたが、現在はもうそうした行事は姿を消してしまった。

この写真は昭和25年の「上棟式」ですが、工事は新制中学の校舎新築に際して、寺社建築のできる棟梁に付いての神事ですので、酒等は飲まぬ前の大真面目な神事です。
(中央が棟梁、左右は副、後の白装束は私)
(一番左が本職の神主ですが、写真取る時には既に衣装着替えて居ました。上棟式は棟梁が式を仕切るので、神主は降神と、神様のお帰りを仕切るだけです)作法は神主と棟梁から習い衣装も全部棟梁の私物持ち物でした。

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私は「槌打ちの儀」と言う儀式の役者を仰せ付かり、棟梁が「千歳楽、万歳楽」と呼ぶと「応答」と答えて槌(式用の掛矢)を幾つか打つ役でしたが、もう60年も昔の只一度の儀式でしたから殆ど忘れてしまいました。二十歳でした。その外飾り物の弓矢の作り物も習い、式場に飾りましたが、その雛形が出てきましたので写真に入れておきますが、皆昔の思い出だけで詳しい事は何もかも忘れてしまいました。

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あの時代の大工は何かと、儀式にかこつけて、只酒の飲める機会が沢山あり、どの大工も酒豪が多かった。
いい気なっている内に、本当のウダツを上げる事を忘れていた(ウダツは成功者の事)(一説ではウダツは棟束の事を言う)

年末風景

年末年始にはそれぞれ、普段と違った行事が沢山あり、後期高齢者でも色々の仕事が待っている。23日には檀那寺境内の雪明けやら、本堂の大掃除があり、行ったがそれ程大雪ではなかった事もあり、早く終わる。
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氏神や小さい祠へも注連縄の取替え、氏神へは氏子達で手分けして作って奉納するが、家庭用に沢山売り出して居るが、売れ残りが出そうと、他事ながら心配。
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飛騨地方や郡上では正月の飾り物の一つに餅花がある。昔は雪深い、寒い此地方には赤や青い花の正月飾りが無かった事から、餅を搗いたとき出る半端耳切れを賽の目に切り、木の枝に刺して稲穂をイメージして、正月飾りにした。近年は道の駅等に農家から出品して、売られている。
見た目が派手なら良く売れることから、赤や黄色と色とりどりの着色しているが、これが稲穂の表現なら、豊作は望めないが(イモチ病の付いた赤い稲)私の祖父達は白いままでした。

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次に全国何処でもは、門松でしょう。最近は農家の副業としてミニ門松が製作されて、売られている
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35年〜40年程昔に奈良薬師寺の金堂を再建している頃に此処の名物管長「高田好胤師」の法話の中に、こんなお話がありまして、門松の季節になると思い出します。

「徳川家康がまだ松平元康と名乗っていた時、甲斐の武田勢と戦い、出城の一つを落とされた事があります。其れまでには中々苦戦で遂に大晦日になりました。翌日は正月です、お互いが明日の休戦協定を結び、大晦日の夜に酒盛りなどして、休んでいる所へ鏑矢に結ばれた手紙が武田方から送られて来ました。

「松枯れて、竹 たぐいなき、明日かな」

翌日の正月に因んで、松竹を詠み込むと同時に、松平の松と武田の竹を掛けたものです。
しかし家康の方も怯んでいません、すぐに鏑矢を送り返しました、

「松枯れで、武田 首なき明日かな」

仮名で書くと濁点を付けただけで一文字も変える事無く、鸚鵡返しをしました。
それから後には正月の門松の竹の首がポンと斬られるようになった。と言う事です」

最後に蕗のとうのミニチア
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北濃駅転車台

家内と何時もの掛かりつけ医師へ行く、
病院医師の投薬処方箋の出るまでの待合室。大勢のマスクをした患者達と、事務方や、医師、マスク集団ばかり、何時もの事であるが、1時間〜2時間の待合せ時間、こんな風邪の神の居る所に居たく無い、天気も良いので、長滝寺まで行くが、もう此処は何回もブログ出したので、勉強不足も有ってネタ切れ、別ネタ探して近くの北農駅まで行って見る。
此処は国鉄越美南線時代の終着駅で、蒸気機関車の転車台が残っている、
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美濃太田行きジイゼル一両だけ客車が、発車時間の待合せをしている、乗客まだ1人しか乗っていない、この客車の横に転車台がある。
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右のロックレバーを解除すると、転車台左右のロックが解除されて、人力で回して機関車の向きを180度変える仕掛け、極めて単純作業のようだ。
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郡上北高校生の生徒Sさんの書いたイラストがある、こんな風にして方向転換したのだ。
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案内説明によると、作られたのは、明治35年アメリカンブッリジ社で作られて、橋桁の全長は15,240m、幅が1,8m、軌間距離1,067mm、中央部の高さ1,430mm、端部の高さ590mm、重さが約15トンあります。
円形ビットはコンクリート造りで、直径が15,400m深さ960mmと、直径13,480m、深さ1,430mm、2段の凹面になっています、
官設鉄道が、明治35年にアメリカより輸入し、東海道本線の岐阜駅で使用されていた。昭和9年国鉄越美南線が、北濃駅まで開通した時に此処へ移設されて、昭和44年までの35年間蒸気機関車の方向転換に使われました。昭和61年、長良川鉄道に引き継がれてからも、レールバスの方向転換にも使用された。
鉄道輸送で役割を終えたこの転車台は北濃駅開設70周年になる、平成16年、越美南線の活躍の歴史を語る貴重な鉄道文化遺産として、此処に保存展示されました。

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駅構内の表示看板 美濃太田より772km 海抜446mと表示してある。
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蒸気機関車は転車台が無くても、バックが出来ないわけでは無いが、私の子供の頃は時々バックで貨客混合列車を引っぱって居た、格好が悪かった、夏の暑い盛りにはボイラーが後ろになるので、機関手達の暑さ対策だったのか??知っている人教えて、椅子が前向きになっているから、首を後ろへねじ向けて居るので、楽な方法でもなさそうですが。

シニアクラブ

郡上市各地域には色々の名称を付けた、老人クラブが色々の活動をして居ます。部落ごとに有る
各単体から、大和シニアクラブへ、郡上シニアクラブへ、岐阜県へと組織を作り、年間を通して研修会や福祉活動、歩け歩け歴史散策、などをしています。
その一つで私達クラブは、毎月氏神の境内の清掃奉仕や参道の保全、又建物の保護等を地域奉仕作業として行っています。
今月「11月」は会員物故者、戦没者法要があり、それが終わったばかりだが、氏神の清掃もしなければ、と思い、神社へいって見る。銀杏の黄色い葉がまだ一杯付いている、この状態で清掃してもすぐ後から、葉が落ちて毎日遣らなければ成らなく成るので、掃除は、もう少し後日にする事に。
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境内一面に落ちた銀杏の葉が綺麗に敷き詰められていて、このままで絵になる様で、暫く取り除かない方が良さそうです。(掃除を一回サボる言い訳(^_^;)
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落ち葉の間に銀杏の実が沢山落ちている、拾わずに帰っても、ごみで処分するなら、拾って帰ろうか!近くで入れ物捜してくる、沢山落ちているが、拾った後の処理(悪臭)がめんどうで適当に拾う。
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上を見上げるとまだ沢山の実が付いている、
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長い事受け継がれている行事だが、私が老人クラブに入会した頃は、大勢の人が奉仕に来て居てワイワイガヤガヤと半分遊び仕事で其れを楽しみに来ている人も居たほどでしたが、先輩達の老衰や死去で会員が減り、最近は参加者が少なくなった、なかなか新規の会員が入会しなくなり、少数人足で賄っている。新規会員が出来ない理由の一つは、シルバー人材センターが立ち上げられてから、健康な老人は、そちらで仕事を持っているので、此処へ自由に参加出来ないのだろう。
清掃奉仕と言っても此れを終わってからは、少々の酒で慰労会をする楽しみもありますが、その酒の消費量も極端に少なくなった。以前のような酒豪が居なくなった。喜べない?憂うのか?
元気が無くなった。
神様の前には推定樹齢800年以上と言う巨木もあり、お前たち、「たかが80歳では俺の十分の一ではないか」と笑っている。
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兎に角今日は此処見なかったことにして、掃除は葉が落ちて終わってからにしよう。
今日のみやげ付銀杏お持ち帰り後、処理済み銀杏
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