ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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八幡町五町の楊柳寺

私の11月9日ブログ記事から〜八幡城6代目城主遠藤常友が町並み整備して、現今の郡上八幡の町の原型が出来たと言われています。
承応元年(1652)の火災で、町並を殆ど焼き尽くしたそうですが、2度とこの様な災害の起きないようにと、城下の町並みに、縦横に多くの防火用水を引いたのであり。同時に是を生活用水として整備されたのが、現在残って居る「水の町郡上八幡」です。その後も用水の一部では、明治頃になると、製糸工場の水車動力源になったりして、発達はしてきているが、場所は殆ど替わって居ないようです。

その外常友は城下町へは多くの寺院を集めて、町並みの整備をした中に五町の観音様と言うのが有ります、   瑞宝山楊柳寺といいます。

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石段を登ると岩の崖に張り付いた様に作られている本堂になります。京都清水寺を模したのだ、と言う事です。(郷土史家t先生の話より)

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この寺の縁起書が石段の途中にあり、そのまま張り付けて置きます、見にくいも知れませんが。

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この縁起書の中に「伊田氏」と言う長者(豪族)が此観音様を守った記事があります。
伊田氏(井田でもよい)は五町に住んでいたといいますが、本籍地は、大和町神路という所に屋敷跡があります、神路(かんじ)は五町から長良川を少し上った所で、八幡町と大和町の境であって、この地域の小字地図面に、小字名として残っています。
赤い点で印をつけた所の、(井田ヶ洞)それが井田長者が居た屋敷と思えます。その下の方に御門(おかど)と言う地名は、井田長者の屋敷門があったところとも言います。

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この長者はあやめの花が大好きで、周辺に大きな池を作りアヤメを沢山植えて舟を浮かべて遊んだと言い伝えられて居ます。その池の辺りが、「あやめ前」「あやめ切り」と言う地名が残っています。又伊田長者の墓の五輪塔の一部も残っており、現在も子孫の井田家が守っています。其の他の残りは五町の伊田家か、楊柳寺の方にあるよですが、確認はしていません。

五町楊柳寺の千手観音は養老年間に行基菩薩(奈良薬師寺にいた遊行僧)が京都の清水寺の本尊を彫った残り木で作ったと言う事です。伊田長者が深く信仰していたと言う。
この地域の伝説より。

郡上八幡城の石垣

さて11月7日のブログの續きです
八幡城の石垣の石を切り出した「石切り場」よりの城の駐車場迄の、帰り道は正直な所、登り坂になる事から、たどり着くのに、大分時間が掛かるだろうと、思っていたが、あっッと言う間に尾根の分岐点まで着いた。つづれ折道(ヘヤーピン)箇所は一箇所も無く、緩やかに登り坂になっているが、その昔(410年前)城作り名人、稲葉貞通が此道から橇や馬を使って石を運んで、この城の石垣を築いたそうですが、吉田川や小駄良川から川原石を運び上げる事を思うと、なんと合理的な方法をとったものです。この車坂の道を通ってみて改めて再認識をしました。

遠藤盛数が此処の領主になったのが、永禄2年(1559)で天守閣は無く、弓矢や、鉄砲狭間(さま)の有る塀で囲まれただけ、の物だったそうですが、盛数から2代目、慶隆の時代になってから、豊臣秀吉に疎まれて、加茂郡小原犬地へ領地替えになり、代わりに稲葉貞通が3代目になり、この石垣を作ったと言われます。遠藤盛数が砦の形を作ってから丁度今年で450年と言う事で(2009−1559=450年)450年祭の行事も有るようです

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その後慶隆は関ヶ原の戦いに参加再びこの城の4代目となる。まだ色々と情勢不安定な中にも整備は進められるが、5代目慶利を越えて6代目常友の時代になると、大掛かりな城整備から、町区割り整備まで進める。そして、城の修復によって幕府からは城郭として始めて認められました。まだ現在でもその当時の町区割り面影の残っている所が沢山有ると言います。丁度その時の城整備に参加した、剣村、赤ひげ作兵衛、の力石も城天守の入口にあります。

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7代常春。8代常久と続いて行くが、常久はわずか幼少(7歳)で亡くなるが、また一説にはお家騒動で殿様の側室が、一部反対派家老に煽てられて、毒殺したとも言われます。当然後継者が亡くなれば、取り潰しに成る筈だが、大垣戸田藩の力で近江の三上で僅か1万石の城主になった。時代は元禄忠臣蔵で有名な赤穂騒動の浅野家取り潰しもあった時代だが、それでも辛うじて遠藤家の再興は出来たということです。

次いで郡上藩では9代目八幡城主として、井上正任(いのうえまさとう)が赴任し、続いて金森青山と変わりながら、明治の大政奉還まで農民一揆や色々と紆余曲折して続くが、明治4年に石垣だけ残して天守は取り壊される。
昭和8年に現在の模擬城を大垣城がモデルにして作られた。

此、史話は、郷土史家T先生のお話から聞いたものです。

郡上八幡城の石垣

郡上八幡城は戦国時代末期に、東殿山の東氏を滅ぼした、遠藤盛数が初代で城主となり、砦を築き9代の城主がこの地を治めて、明治4年廃藩置県と共に石垣を残し廃城となった。

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此城の石垣を見るとあまり大きい石は使ってないし、むしろ小さいガラクタ石が多いような気がする。山から切り出した石ばかりで川原石は殆ど見つからない。

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平成16年頃に郡上郷土史家t先生の案内で此城の石切場を見てきた事がある。もう一度行ってみたくなり、一人で八幡城まで登ってみる。城裏の駐車場に案内看板が出てるから、此処から出発

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散策道より降りて搦めてを通り、暫くなだらかな尾根道を行くと4ヶ所に分かれた分岐点に来る

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此処までは良く整備された良い道であるが、車坂方面の標識が無い、6年前に通った道を思い出していると、今通って来た道が、騒々しい、間伐材で作ったベンチに上がって写真を撮っていると、大勢の郡上高校生徒がやってくる。カメラを提げたお爺いに皆一斉に「コンニチワ」と、挨拶をするので、「今歴史の授業なのか?体育の授業なんですか」と聞くと皆一斉に「両方」と言う、ついでだから、「城に使ってある石の菜石場」を聞いてみたが、此近くに有る事を知っている者は居なかった。最後の男子生徒一人が「僕知っています」と言う、なんだか先生になった見た様でした。先生も丁寧に挨拶されて、高校の方へ降りていく。

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高校生たちと分かれて、さてどちら方面か、写真で見る郡上高校方面矢印の向こう辺りが車坂方面か、整備があまり出来ていない様子。其処を超えると薄暗い杉や檜林で、ヤット此処だ、此処だ、と思い出す。

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なだらかな下り坂で、ヘヤピンの様な場所は一つも無い、急坂が無く帰りも楽なようだ。

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暫く降りると倒木に道をさえ切られる、6年前の様に整備されていない、市の予算が厳しいかも?

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谷川の音がしてきた、もう少しだ。6年前に来た道を思い出した、橋があった、

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此処を超えるとすぐのところが、石切場だった様だが、付近が荒れて仕舞っているので、見つからない。     アッタ〜〜草藪に埋もれて、からまった蔦を切りヤット写真撮る

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殆ど字が読み取れない根元が腐っていて、手を触れたら倒れる。以前は田んぼも作っていたのか〜植えてある杉の木も大きくなっている、30年以上はたっているかも。

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谷川も水源地へは近いようだが、水は多く有る。此下流は、郡上踊り歌詞にある「心中したげな総門橋で〜小駄良才兵衛と酒樽と〜」で有名な総門橋が有る。又八幡市街の水の町用水にもなっている。

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何とか標識までは見つけたが、石を取った跡は解らず終わり、無理も無いが450年も昔を探したんだから、
帰りは割りに楽に帰れた。急な坂道は無いから。所要時間往復で1時間15分。万歩計歩数5200歩、熊の出る心配は要らないと思います。天王洞の在所が近いから、在所の雑音が聞こえるでは又次の日にブログへ續く

荘川連獅子

こんな新聞折込広告が、入っている。昨日の雨も上がったし、天気良さそう行って見るか。

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朝弁当作り久ぶりで庄川迄いく。蛭ヶ野辺りからもう紅葉が真っ盛り、荘川まで行くと尚綺麗、一時間かからずに着く、

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この荘川の里普段でも有料のようだが、本日無料と表示してある、橋を渡り入口へ行くと「郷土芸能保存活動協力金」をお願いします。と言う事で一人200円。これは協力して見せて貰う。駐車場はタダですが、会場近くは満車状態。

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上写真中学生の荘川民謡、かさ踊り、と(古大尽)。

古大尽は今年7月25日に私のブログ「仏教」の「嘉念坊善俊」に入れてあります。見てください


下写真連獅子勢揃い

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露天市場も人ごみで動けないくらい、只今7千人ぐらいの入場者があると、アナウンスがある。買い物は行列に並ばないと買えない。

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フィナーレ庄川民謡(えっつさっささ)おはやしにあわせて、来場者も踊る。

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最後は(あっぽ拾い)飛騨地方の方言で(餅拾い)の事です。郡上方言でも「餅」の事をアッポと言います。但し幼児言葉です。

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思い出

平成21年6月22日のブログに投稿したように、
私は昭和19年春より「稲葉郡蘇原町三柿野」川崎航空機岐阜工場に入社して、川崎岐阜青年学校で数々の工学の学科を習いながら軍事教練、実習教科とあわせて忙しい日々が続いていた。

大東亜戦争が悪化して来て、途中で学校は打ち切りになり、現場配属が工作機械職場へ決まる、私は一の宮の機械工養成所へ行き又其処で新しく勉強になるが、相変わらず軍事教練は付いてくる。

一宮市浜町と言う所に小さい町工場を買収して川崎航空機工場の機械工養成所として設立されていた。

秋の少し涼しく成り掛けた或る時に軍事教練と称して岐阜市まで行軍をすると言ってくる、毎日塀の中(刑務所ではないよ)で一日に何回もビンタをくらって、絞られて居る暮らしから、一寸塀の外(工場外)の空気に触れられるので、喜んで待っていた。

さて当日全員に昼食と称して紙袋に入れた乾パンを一個ずつ支給された。途中で絶対に封を切らない様にとの通達が或るが、其の時は言いつけを守るつもりで奥深く仕舞い込んで出発した。

真清田神社へ参拝して、隊列を組んで国道を岐阜市へ向かう、当時は車は殆ど通らないから4列縦隊で歩調をあわせて軍歌を歌いながらの行進である。
    
「若鷲の歌」
  若い血潮の予科練の    七つボタンは桜に錨   今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃー
  でかい希望の雲が湧くー

其のうち段々疲れてくると、「声が小さい」と教官に怒鳴られて、腹が減って大きな声がでない木曾川町辺りまで来ると、道路両脇はサツマイモ畑、一寸芋を失敬したいが隊列を崩す訳にはいかない。木曽川橋を渡る頃には、封を切ってはいけない紙袋の乾パンをコッソリと出して食う。ヤット岐阜駅前までたどり着く此処で又隊列を組み直して岐阜市の中心部「凱旋道路」(平和通り)を大きな声で軍歌を歌って行進する。(市民が見ているので教官が余計に張り切る)

(特幹の歌)
  翼輝く日の丸に〜 燃ゆる闘魂眼にも見よ   今日もさからう雲きれず
  風も静まる 太刀洗い  あ〜あ〜特幹の大刀洗いー

腹へった〜  やっとこさー  金華山下の岐阜公園に着き 記念写真

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「此処で一時間の休憩、其の間に昼食」と教官の号令。情けない、もう食う物が無い木曽川橋辺りで、絶対封を切てはいけない乾パンをコッソリ食ってしまった。人目の付かぬ所でポロポロ涙が出る。一時間では長良の畑まで行ってさつま芋を失敬する事も出来ず、町へ出ても食べ物の売って或る様な場所は無いし。それでも皆の前では平静を装っていたが。

(武士は喰はねど、高楊枝)(侍の子は腹が減ってもひもじゅう無い)伽羅先代萩、千松の台詞を地で行く

長良を通ると思い出す、後方は長良川、燈籠は今も残っている、65年前の昔話。一寸した私の歴史になった。

(追加)
支那事変後(昭和14年頃)に支那へ出征した兵士のご苦労を歌った「ほんとに、ほんとにご苦労ね」を腹の減った、替え歌で歌っていた

元歌
揚柳(やなぎ)芽をふく、クリークでー 泥にまみれた軍服をー 洗う姿の夢を見た、お国の為とは、言いながら、ほんとに、ほんとに、ご苦労ねー

替え歌
いやじゃありませんか、川崎はー 欠けた茶碗に竹の箸ー 仏様でも有るまいに、 一膳飯とは情けない ほんとにほんとにご苦労ねー

一膳飯の頃はまだ良かったが、S19年後半には代用食と称して、さつま芋、かぼちゃが、多く出様になる。  


  




   
  

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