ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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弁慶街道

国道156号線を南から北進して、郡上市白鳥町為真(ためだに)まで差し掛かると、油坂峠道路の高架に差し掛かる。その国道の左側に小さな食堂を営業している店があるが、其処の駐車場こんな、神社が祭ってある。

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源義経の家来弁慶は平泉へ都落ちの伝説では殆どの話では琵琶湖より北陸周りで忍んで落ちて行くストリーに成っている。平成17年NHK放送の義経も安宅の関を通った様に記憶しているが、

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処が最近郡上市。白鳥町。の郷土史家の話に依ると、義経主従は奥州の藤原秀衡(ひでひら)の計画に従い、奈良から伊賀へ、伊勢〜美濃を経て、美濃の白鳥町長滝寺から白山に登って加賀へ降りた。それから船で越後から出羽へ向かい其処の羽黒山から平泉に入ったとの説を言われています。そこで白鳥町を弁慶街道と言っています。

各所に関所を立てて義経の行方を捜して居た者ですから、当然何処を通った等と足跡を残す訳は無いから、確実な足跡は残らないでしょう。

歌舞伎勧進帳も勿論創作です。作者誰ですか??
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源平合戦で平家を滅ぼした義経は兄、源頼朝に疎まれて各地へ逃げていくが最後は藤原秀衡を頼って平泉へ向かうが加賀の国(石川県)安宅の関で関守「富樫」に本当の山伏なら勧進帳を読めと言われて白紙の巻物を即興で作り朗々と読むが、関所の番卒に疑われ、主人の義経を杖で打って疑いを晴らしその場は通るが、関守富樫左衛門は弁慶の忠義に感動して、義経と知って通すのである。

暫くして道すがら弁慶は義経に主人を打ったお詫びをしている居る処へ、富樫左衛門が酒肴をもって、先の失礼のお詫びに一献酌み交わそうと、やってくる。弁慶は大杯で一気酒を飲み延年の舞をしているうちに義経を先に逃がしていく。見せ場は弁慶の飛び六法です。

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中村吉右衛門さんです。この歌舞伎何回みても飽きることはありません。「安宅の関」を(マタカノセキ)と呼ぶ人もあります。
篠脇城の続き、
東氏は越前朝倉勢の侵入に篠脇は適さないと思ってか250年程居た所を諦めて、八幡赤谷山に東殿山城を築いて、妙見神社を残して移っていく、
常慶の跡を継いだ、東常堯は13代目であった。
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今も僅かに残る城跡の石垣が見える。
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13代目東常堯は女兄弟ばかりで只一人男子で其れも一番末子でした、父常慶は勿論側近も大事に育てたが、甘やかし過ぎた事も有って、凡庸な所が有った。常堯は、神路木越城主遠藤胤縁の妹お園に思いを寄せて居て、遊びに行っていた時に、お園の寝所へ夜這いに行き、盗賊と間違えられ、捕らえられて面目丸潰れ、その上お園は常堯をあっさり振って明宝畑佐城の畑佐六衛門の所へ嫁いだ、其れからは木越城主胤縁は勿論、六衛門共不仲になり何時までも怨念を抱いていた。    木越城跡、(長良川と神路川支流より写真)
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そこえ降って沸いた様な話が持ち上がる、飛騨帰雲城主内ヶ島氏里の妹(阿通)との縁談が持ち上がる。当時飛騨と郡上の境蛭ヶ野は沼地で人馬の通れる様な所で無かったが、ドンドン整備が進んで飛騨と行き来ができるようになると。
すると郡上から簡単に飛騨へ侵入出来る様に成る。帰雲城の内ヶ島は郡上が脅威になり、
そこで天生金山で堀当てて蓄えた黄金の持参金付きで、阿通は常堯へ嫁入りする事になり話はトントンと進んでいく、雪国で育った色白の美人(阿通)には文句の付け様は無いが、常堯はまだ振られたお園に未練を持っていた、        下写真(神路邑神明神社)
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木越城主遠藤胤縁は八朔(新暦では9月1日)のお祝いに東殿山城主東常慶へ家来を連れて挨拶に上がった。城主常慶は上機嫌で遅くまで祝い酒の振る舞いするが、ほろ酔い気分に成った胤縁主従は神路神明神社付近まで帰ってくると、此処から城まで馬で長良川を渡る支度を始めた所へ密かに付けて来た常堯の家臣長瀬内膳に依り殺害されたと言う。その供養の為此処の地域では9月1日に念仏踊りがあった。現在も神明神社の祭礼として残されている。
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上写真東殿山城跡展望台(木造)

殺害された胤縁家臣は弟が住む刈安城主遠藤盛数に知らせて東殿山合戦が始まる、畑佐城からも兵を出して10日余りの激戦でついに落城。常堯は辛うじて飛騨の阿通の住む帰雲城へ落ち延びる。阿通は実家の内ヶ島の住む帰雲城へ盆休みで帰っていたので、その後二人で飛騨にすんだ常堯は、16世紀最大の地震山津波で一瞬の内に土砂の下敷きになり其処に居た人達は一人も助から無かったと言う。今も此処保木脇には多額の金銀財宝が眠っていると言う。こうして東氏は滅びて郡上は遠藤の時代へ入る。

荘川保木脇の国道156号線脇に建つ帰雲城碑。奥の方に見える崩れた山は、山津波跡

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篠脇城跡

赤保危、阿千葉城に三代住んだ東氏は、四代目氏村になってから上ノ保川(長良川)を下り徳永村釜淵の支流、栗巣川1,8km程遡った所、志の脇山(篠脇山)に城を作った(阿千葉城が手狭に成った為と、もっと堅固な城作りの為)
同時に鶴来村に有った東家の守り氏神「妙見神社」も一緒に遷し、現在の明建神社でる。
(参道桜並木まだ蕾は固い。 左)           (右篠脇城跡碑)

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明建神社(明治の廃仏毀釈で妙見が明建に看板だけ変わる)向かいの山が篠脇城跡です。(下写真)

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栗栖川に掛かる古今橋を渡ると篠脇城の東氏館跡が保存されています。

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写真左は東氏館跡庭園池です。右は篠脇城跡へ上り口で、案内板もあり暫くつずれ折れ道を登れば臼の目になった城跡が残っています。    下写真庭園池は

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昭和54年頃ほ場整備工事中に館跡が発見されて、S55〜58年頃まで掛かり発掘調査が行われて、昭和59年に国の名勝に指定されています。

天文9年夏越前朝倉勢が「加賀に発生した一向衆勢が郡上へ及ぶ事を恐れて」九頭龍川を遡り石徹白(いとしろ)へ登り、そこの住人が朝倉の家臣で有った事もあって、篠脇城へ道案内を頼む、城主、石徹白源三郎は是を拒否するが、叶わず仕方無しに朝倉勢に酒肴を振る舞い時間を稼いだ。その理由は源三郎の妻は東常慶(とうつねよし)の娘であった。
弟を篠脇城へ走らせて急を告げておく、知らせを受けた常慶は領内の農民を動員して攻撃用の石を山頂へ運ばせた、口神路村でも人足が雇われ中神路白山神社横から、井寺洞へ越えて、篠脇山頂裏側へ大量の石を運んだと言う。  下東氏系図
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こうして篠脇城は守りの体制を作り朝倉勢を待ち受ける、朝倉勢は途中阿千葉城も交戦して落とし、妙見篠脇に迫る、山頂目指して攻め上がるが兼ねて用意して置いた大量の石を
落として怯ませる、そこへ神路、木越城の援軍が背後から攻めて遂に朝倉勢は敗走する。戦いは終わった。志の脇山の下、栗栖へ行く道にはその兵士達の死骸で、3日間も通れ無かったと言う、今はその道を(三日坂)と地名が付いている、その時誰が立てたか2体の石仏が道脇の草むらにヒッソリと知る人も無く立っている。     下写真

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多くの死者を葬った千人塚が約400m程下った所、田んぼの中に有る。

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城主常慶は、守りに強い郡上八幡の赤谷城を作り、妙見神社を残し移る、そして次代の
常堯まで居城するが、後に遠藤盛数に滅ぼされてその後は、遠藤が郡上を支配する。
今有る八幡城の建物は昭和8年に復元した物であります。石垣は当時のまま。
郷土史家の話から。

阿千葉城跡

郡上八幡より国道156号線を北上、大和町を経て白鳥町へ行く道、八幡町より約14km程行った所が大和町剣、赤保危、左に長良川、国道下は断崖絶壁、右は砕石場へ行く道
此処に小高い山が見えてくる、
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此処から大和町指定史跡 阿千葉城跡の登山口がある。登山と言っても約15分程で登れるので、関心が有る方は一度登って見てください。 説明板に依ると、

阿千葉城跡は鎌倉時代承久の乱(1221)の後山田の庄の地頭に任ぜられた東胤行が最初に城を構えた所で3代時常まで凡そ100年間此処に居城した。  4代氏村に至って
大和町牧の篠脇城へ移ったがその後鷲見氏が此処に居城した。城跡は山頂に2段に依る約
1550平方米の本丸、2の丸が有って更に北方の峰に沿って板状に約220平方米の壕の跡がある。 歌道の誉れ高い東氏の最初の居城として、又鷲見氏の最後の居城として
中世山城の面影を今に伝えるものである。
承久の乱URL貼って置きます、下、クリック
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/joukyu/index.html/ クリック

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登山道巾約90cm程でつずれ折れ道、若い方で体力のある方なら7~8分で走って登れる
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二の丸から本丸登り口 登った所が本丸
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本丸に有る城跡石碑
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二の丸に有る池なのか? 壕跡か?? 左側写真
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二の丸から眼下を見ると長良川が見える 上右側写真
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長良川河川敷きから阿千葉城跡山を眺めると南は桃ヶ谷、西側に長良川、北方には
和田川に囲まれて、城として堅固なものと解ります、川の上通っている156号線などは
昔は当然無かったものだろうと思います。有ったとしても、人馬のやっと通れる崖ぶちに掛かる細いみちだったと思います。                  東氏は
阿千城には約100年足らず居城して大和町牧の篠脇城に移ったが、その後越前の朝倉勢に攻められてから、天文10年より堅固な八幡赤谷城へ移った。(現在の郡上市役所の裏側の山です)  東氏は武人で有りながら代々歌道の誉れ高く、特に第9代東常縁は高名な歌人であった。応仁2年美濃の国の守護代、斉藤妙椿が篠脇城を襲い略奪したが、常縁が10首の歌を妙椿に贈り城を返してもらった話は有名である。今大和町では古今伝授の里として、町おこしをしています。
余談、山田の庄 (推定)
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名馬 磨墨

もう〜4年程前のこと、NHK大河ドラマで放送された(義経)忘れ掛けていますが、又思い出してください。

   歴史ーー宇治川の戦い
寿永3年(1184)信濃国で平家打倒挙兵した木曾義仲。京都へ登って都を治めた様に見えたが、其の内京では乱暴狼藉を働き、皇位継承を巡って、後白河法皇とも対立する。
鎌倉に居た源頼朝は義経に木曾義仲追討を命じた。   下にURLを貼ります。


宇治川の戦い。
頼朝は生唼(いけずき)。磨墨(するすみ)という2頭の名馬を持っていた。
梶原源太景季が生唼がほしいと願うと頼朝は「自分が乗りたい」と言って磨墨をを与えた
佐々木四郎高綱が、出陣の挨拶に行くと、頼朝は自分が乗る筈だった生唼を高綱に与えた
そしてこの二人は宇治川に乗り入れて先陣争いをした。 この2頭の名馬の内、梶原源太景季の乗る磨墨は郡上市明宝気良の産と語り継がれている。

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郡上踊り(春駒)の一節で歌われているものです。
当時代交通の便も悪く、通信手段も無い時代に何故郡上の山奥から鎌倉まで知れていたのか、不思議です。

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磨墨伝説は日本各所でも多く残って居るそうですが、郡上八幡も代表的な一つだろう。

この磨墨は気良の北方烏帽子岳の麓、巣河の地に於いて天馬の種を宿して生まれたとされる。磨墨は毎朝自分で厩栓棒(ませんぼう)を外して、蛍草とも言われる霊草を食み、大滝の奥の乳白色の霊泉を飲み形質ともに類の無い駿馬になった。
気良の田城。下倉両家にはその馬の轡が伝えられていると言う。
この地は寒冷。高燥かつ石灰分に富む良質な草が得られて、幕藩時代から大正昭和始め頃まで高名な馬の産地であった。
(気良の語り伝えより、)

八幡では7月28日を中心に馬市が開かれて毛付け市と言うのが有った事は私の子供の頃まで続いていた。現在も名前だけは残っていて、郡上踊りの日にちに組み込まれている。

「馬は売られて、嘶きながら、土用最中のささ毛付け市」郡上踊り、春駒、の一節。
おはやしは「七両3分の春駒、春駒」と言うが、その当時にはそんな高い馬は無かったと言う。只語呂合わせがよかっただけであろう。

下のURL開いて見てください。赤い字(踊りの種目)をクリックすると郡上踊り各種目ごとに音頭が流れます。


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