ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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重ね岩

寒い日が続いて運動不足になる、今日は久振りで良い日和、郡上八幡Aコープで買い物の帰りに突然に歩き運動を思いつく。

さて何処へ行くか思案?、取り合えず堀越峠まで登る事にするが、まだ行先決まらず、
ついに和良町の運動公園まで車を進める、  駐車場へ入れて陽差し有る道路を選んで「鹿倉川」を渡り東方面に歩いていく、杉の大木が見えてくる、神社だ。

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郡上市和良町(戸隠し神社)と言う。

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この社殿横にある大きな石が此処の神社の由来であります。  日本神話伝説と思うが
「天の岩戸」の話。
素戔鳴尊(スサノオノミコト)の度重なる非行で天照大神が、天の岩戸へ隠れて世の中
が真っ暗になり、そこで大勢の神々が天照大神に外へ出てもらう為に相談しました。
先ず、天の宇受売命(アメノウズメノミコト)が伏せた桶の上へ登り足拍子面白く踊り
ニワトリを鳴かせて、お祭騒ぎをしているので、不思議に思い少し岩戸を開けて覗いた
処、其処に鏡があり自分の顔が映って、驚いてもう少し戸を開けた処を天手力雄命(アメノタジカラヲノミコト)が、力一杯引き開けて投げ飛ばした。其れが信州までも飛んでいった、信州では戸隠という地名がある、。

宙を飛んでいく途中に、岩戸の小さいカケラが此処和良邑へ落ちたと言う。信州戸隠しと同じ名前で戸隠し神社という。

天の宇受売命が舞い踊ったのが、神楽の始まりだとか。又桶の上で足拍子で打ち鳴らしたのが太鼓の原点とも。今でも太鼓の胴を桶で作ったのもある。

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シメ縄の張ってある石は、42頓  下の石が144頓との事です。
上下の大岩が小さい接点で微妙に重なり、片手でも動くそうです、(神域ですから中へ
入ってはイケマセン)      案内より

万歩計5、566歩、かなり疲れた。

手斧はじめ

手斧始め(チョウナハジメ)
この言葉は現職の大工さんなら知って居られると思いますが、だんだん死語に成りつつ有ります。最近は家作りもプレカット方式で能率を上げておられる様子ですが、私達の大工を習い始めた頃は(昭和21年)時代、日本中の大小都市は戦後の焼け野原だったので、少し大工の真似でも出来る人なら何処へ行っても仕事は有りました。

幸い私は祖父の時代から大工の家で生まれて、父も大工をしていた関係で即、父に着いて
大工の真似を始めましたが、途中から訓練所へ入り少しずつ家作りを覚えていきました。

其の時代から昭和三十年代半ば頃までは田舎普請も沢山有りました、古い歴史のある草葺きの大きい家のも瓦屋根の家に作り変える仕事が多くて都市へ仕事に出る事はあまりなっかた。

先ず仕事の依頼を受けると、家の図面作成に掛かることは、今も同じですが建築資金より先に考える事は、施主の山にどれだけ使える家木(やぼく)が有るかでした、

自分の作った図面から構造材を割り出し施主の山を駆け回り大体の見当を付けます。其れを秋に成ってから、木の葉が付いたままの状態で切って置き、冬に成ってから夫々の用途に切断して運び出します。同時に製材所で製品にして二月頃にヤット大工の作業に掛かり
此処で初めて「手斧始め」大工の出番です。
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最初にチョウナを使うには其の日とは決まりませんが、小屋物(丸太のまま使用する材)
の加工は手斧(チョウナ)が必要でした。其の日は朝から板図と言って無地の杉板に墨指しを使って図面を引きます、一階平面、二階平面、小屋伏図、に番付けを振ります、横方向に、い、ろ、は、縦方向に一、二、三を打ち、下から上に読むのを「登り番付け」上から下へ読むのを(下り番付け)と言う、次に尺竿を作ります、横物尺竿、此れには間延び
寸法を入れて置きます、柱真から柱真までの寸法は敷居の幅だけプラスするので、此れで
誰が仕事しても説明しなくても解ります、次は矩計竿(かなばかりさお)高さの寸法です
出来上がりイメージが頭に浮かびます。
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墨指し、竹で自分で作るのだが、墨の含みが良いものは簡単そうで中々良い物は出来なかった、他人からは「縄文時代の筆」だと笑われたが、現在はスチールで出来たのがあるが
使い方は同じです、

矩尺(かねしゃく)此れは聖徳太子が仏教寺院建築と共に伝えられたとの事です。唯、直角に目盛が有るだけですが、図に示すように、勾、殳、玄、と言って大工の基本中の基本です、此れ一丁でどんな難しい墨付けでもできます、二級、一級技能士試験は必ず此れの出題が有ります、いささか専門的で難しいブログに成りましたが、

手斧始めとは大工の仕事始の事で、板図、と尺竿作り、午後三時頃には作事小屋へ御幣とお神酒を飾り、工事中間違いの無い様お祈りをしたのです、今はプレカット工場で作るのでこんな光景は見られないでしょう、地鎮祭はマダ有る様だが。

床差し天井

白鳥町長滝神社6日祭参拝いったが、少し早く現場へ着いたので、その待ち時間に若宮修古館へ覗いて見ようと一人で、門前に立っていると、此処の館長であり、主人でもあり、長滝神社の宮司でもある方が突然こられて、丁寧な新年の挨拶をされた、ビックリして挨拶もシドロモドロしていると、続いて「今日は休館にしたいので」と言われた。今日はコノ神社の宮司ですから祭の主役でも有るので、お客の案内など出来ないでしょう。
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以前平成18年頃だったろうが、歴史講座のT先生の案内で大勢で来て、館長やT先生から詳しく説明も聞いて帰りましたが、皆さんは展示物の内容は興味があれば、
入館料400円払って見て説明も聞いて勉強してください。
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玄関を入ってすぐ次の間が大きな囲炉裏があり、それを囲んで館長さんの説明がありますが、私は其の次の間の天井にスカサズ目が釘付けになりました。
床の間の上へ天井竿が差してあります。これは何処でも見た事が無いからです。
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若宮家は代々に渡り、長滝神社の宮司をされて居られる、社家の家柄、現在の主人はここをついで40代目だとか。
コノ建物は江戸時代天明〜文化年間に建てられたとの事ですので、約200年も健全で建って居るのは驚きです。木造建築は手入れが出来ていれば、想像を超える耐用年数があります。  
所でその床差し天井ですが、其の時代には誰も気にしなかった事でしょう。何時の頃から
床差し天井は「床枕」で縁起が悪いと言って大工は常識ですし、一般の方々でも皆知っている事でした。床を枕にする事はその家に病人が出るとされています。但し此れを喜ぶ
商売もあります、二人で床を枕にして金儲けできる、遊郭、現在はそんな物存在していませんが。    または古い歴史のある一見さんお断り料亭など、

私も約50年程、ウダツの上がらぬ大工をしていたが(ウダツは棟束の事です、雪隠大工とも云う)60歳台後半、また時には70歳過ぎても建て前にはかかわりましたが、下図は其のある時のパースです。
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材料の確保と予算の都合でパースの通りには出来なかったが材料は全部無垢材です
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天井竿は必ず床の間に平行にしています(当たり前)写真はまだ完成していませんが左官と建具入れて畳を敷けばOKです。床板は栃の木のチジミ杢、床柱は屋久島杉角材。

床の上に飾ってある板は棟札。此れに表は施主の信心している神様名を書く。裏面は施主様の名前、歳、建築年、月、次に大工棟梁、他職人名、等必要記事、を御幣と共に大黒柱上の棟束に納めておきます。この家を壊すまでは誰の目にもふれませんが、後の世の歴史を刻んでおきます。この職業は自分は死んでも、若しかしたら恥さらしも出ますので恐ろしい事です。

赤穂浪士

今日は何の日 元禄15年12月14日の夜赤穂47浪士討ち入り。
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元禄14年春3月に江戸城内の松の廊下で吉良上野介義央と喧嘩。刃傷に及ぶ赤穂の城主浅野内匠頭長矩は即日切腹、お家は断絶となる、家臣は失業、路頭に迷う。其処から色々の物語が開けてくる。喧嘩のタネは色々語られているが、塩の喧嘩、歌舞伎では吉良の横恋慕とか?

城代家老大石内蔵之助良雄を筆頭に翌年12月14日夜。本所松阪町の吉良邸に討ち入り本懐を遂げた「赤穂浪士」の話。中高年の方なら耳にタコ位聞いたり見たりと思います。

この頃はトンと音沙汰無し。以前は歌舞伎、仮名手本忠臣蔵を初めとして、講談、浪曲、
映画、ドラマ、でこの時期は必ず上演されていましたが、最近は此れではウケないのかな〜昔は興行が不況になると「忠臣蔵」を出せば必ず「当る」と言われていて、気付薬と言われていた。

(仮名手本忠臣蔵)は村芝居でも上演されていたので、良く見に行ったが、歌舞伎では、実在した人間を仮名で脚色してあるので解り難かった。

浅野内匠頭長矩(アサノタクミノカミナガノリ)〜塩谷判官高貞(エンヤハンガンタカサダ) 吉良上野介義央(キラコウズケノスケヨシナカ)〜高師直(コウノモロナオ) 大石蔵之助良雄(オオイシクラノスケヨシオ)〜大星由良助(オオボシユラノスケ)其の外47人全員が仮名(カメイ)
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播州赤穂城隅櫓
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蔵之助は「此処から舟で江戸へ下向した」と書いて有った様に覚えて居ますが、舟で行くと途中の物語が無くなりますが、ホントウはどうですか?大阪までなら解りますが??
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泉岳寺の浅野内匠頭長矩の墓。10年も前の写真、線香を上げてきました。左横の煙は今上げた線香の煙。

真珠湾奇襲

12月8日今日は何の日。直ぐに思い出せる人が少なくなった。67年も前の事である

昭和16年12月8日未明 真珠湾奇襲 日米戦争始る

当時小学校6年生でしたが、昭和12年7月7日支那事変の始まりで、出征兵士の見送りから始めて、戦時教育一色になり、先生達も事の有る度に戦争戦果の話を聞かされて居たので、大凡の事は子供ながらも、解っているつもりで居ました。

日米の交戦に成る事は理解出来たものの、とうとうえらい事が始まったとも思いました。
校長先生が全員を講堂に集めて勇ましい講演をされて、朝から軍艦マーチを78回転のレコードをマイクを通して掛けっぱなし(今ならパチンコ屋のテーマソング)
勝ちイクサですので、少しは心も躍っていたが、この戦争が長引けば何れは兵隊として
戦地へも行かなければ成らなくなると思うと、心が重かった。口に出して兵隊には行きたくないとは言えないし、言ったが最後、非国民扱いになる事は理解していたので、親にも言わなかった、この時代は子供でも本音と建前の使い分けは心得ていたので、日記や後に残る物にはタテマエだけで、みんな嘘日記や嘘作文を書いていた。それを小学校を卒業するまで続けて居ると、すっかり洗脳されてしまって兵隊に行く事やそれで死ぬことがそれ程恐ろしい事では無くなって来る。


「ニイタカヤマ ノボレ」開戦の暗号電文を愛知県刈谷市(依佐美無線塔:現在は解体無い)から発信したとの事を聞いたことが有るのでヤフーで「ニイタカヤマノボレ」と入れて検索すると、ある有る。関心があれば開いて見て。「大東亜戦争」当時はこの様に呼んでいた

先月にも田母神俊雄氏「元航空幕僚長」が「日本は侵略国家ではなかった」との論文を出されて世論を騒がせたが、論文の是非議論をして見るのも良いが、此れで明治に出来たような、富国強兵で徴兵制度が出来たり軍事国家にはしたくないものです。今はアジアの諸外国との事情も絡んでくるので世界中が平和で暮らせるいい知恵を出し合う方が先だと思います。
(おじいの独り言)


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