ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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歴史と温泉

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この写真は郡上八幡城の下に建っている碑です。
江戸時代後半に入った宝暦4年(1754)郡上金森藩に大規模な百姓一揆が
はじまったこの年8月年貢加増に耐えていた百姓達、郡中130ヶ村から集まった
2000余の百姓が城中御蔵会所に乱入して16ヶ条の要求を強訴する事に始まった。
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下左側は大和町剣赤保危の碑です。  右側は白鳥美人の湯に建っている碑です。
この一揆は宝暦8年12月幕府の裁断が金森氏の断絶と百姓の処刑を申して幕閉じ 
るまで前後5ヶ年に渡って戦い続けられた。この間藩庁側は厳しい弾圧と懐柔に
腐心し百姓側も愁訴強訴を重ね堅い団結を誓約しつつ、直訴箱訴を敢行した。
この碑に写されている、傘連判状は宝暦6年3月首謀者51名がこの温泉の地域
那留ヶ野に集まり署名して決死、目的遂行の心底を固め合ったもので、
前後上下の解らぬ様円形に書かれたといわれている。
歴史は語ると長くなるから又の機会に、早く温泉へ入ろう。

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下左側自由に飲用できます。

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右露天風呂の屋根は唐傘連判状を形取ったものと言われています(文章は案内板引用)

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左露天風呂              右大浴場
毎月15日は75歳以上の方の入浴にはもう一枚無料券がもらえます。
通常は入浴券650円です。経営者は民間のO建設会社。

うだつ

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うだつの上がる町美濃町。伝統的建造物群保存地区に指定されて、特色のある歴史景観が
見られます。  ご存知美濃紙で知られたまちで、昔から紙の生産地でそこで財を成した
人が防火壁として屋根の上まで突き出た壁を作ったのが始まりとか?紙の生産は美濃周辺地域は元より長良川上流地域にも沢山あったそうで、私の子供の時代には畑には「木紙の木」と言った木が所々にあって、それを釜で蒸して皮だけにして出荷していました。紙の生産はして居なかったが紙の材料は豊富だったのかも、それを生産販売の中心地が美濃ですが、それまでは上有知(こうずち)と呼んでいたのが明治の終わり頃に美濃紙にちなんで美濃町というようになった。最近は明宝ハムで有名な奥明方村が明宝に改名されている。

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それを長良川を船便で岐阜、名古屋、京都等へも捌いて発展して行った

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うたつを上げる。美濃ではこの様に財を成し成功した事に成っているが、大工言葉としては、棟束を上げたことをいう、長い間修行して一人で土台から棟束まで出来るようになれば、9分9厘成功、後は棟母屋上げて垂木打って屋根葺けば完成、「うだつ」は棟束のことと思っていました。大工になればうだつを上げる事は当たり前のことです。

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其の外のも井戸を掘った時に石垣を積む土台に入れる胴木、生の松丸太を井の字に組んで
石垣の基礎となるもので「うだつ」と言うそうです。その心は?? 下積で一生うだつは上がらない。      ハイ座布団一枚。

電気地蔵

暑かった夏も過ぎ子供達の夏休みも終わりもう川遊びをする人も鮎掛け以外は疎らになっった。この八幡小学校橋の下も、新橋の上から飛び込む川遊びの前の段の練習場であった。通称三角岩と云った、家内も子供の頃は近くが住居だったのでよく飛び込んだという、女ながらも今よりは度胸が有ったものだ。この淵を「将監淵(ショウゲンブチ)」と言う。以外と知られて居ない様だ。其の上は元中部電力営業所であった、その向側は今も八幡病院で其の間を結ぶのが学校橋という幅の少し狭い橋であるが、隠れた観光地でもある。

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郡上の殿様自慢なものは、金のどひょうに七家老(郡上踊り 川崎)
郡上青山藩の七家老(今で言うと会社の取締役7人)の内の一人で「佐藤将監(サトウショウゲン)」が元中部電力営業所(発電所跡)の所が屋敷だったという、将監屋敷ともいう。
佐藤将監は屋敷の下の淵に住み着く魔物「かわろうべえい」が時々悪さをして子供を引っ張り込んで水死させた、将監はこれを哀れみ淵の上の岩に地蔵菩薩を安置した。それからは、水死者は無くなったと言う。その後時が経ち明治二六年の吉田川大洪水でどこかえ
流れて無くなった、そして明治39年此処に2回目の発電所を建設した時に川上の方から
出てきたのである。其の時電気会社を作った人たちがこの屋敷の隣に電気地蔵として祭ったのです。

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私も電気と地蔵様どんな結び付きなのか不思議がやっと解けました
電気地蔵踊りの縁日は今年は7月26日でした、踊り会場は旧庁舎記念館前でした、
郡上踊りも9月6日で踊り納めです。

小駄良才兵衛

郡上踊りも終盤に入り9月前半で今年は終わります。
”小駄良才兵衛と朝顔の花、今日も咲け(酒)咲け明日も咲け(酒)”(郡上踊り川崎)

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"心中したげな惣門橋で、小駄良才兵衛と酒樽と。(郡上踊り川崎)
八幡町小駄良に住んでいた才兵衛と言う酒好きの男は城下の酒屋へやって来ては、酒を
飲み歩いていた。才兵衛はひょうきんな性格で道で遊ぶ子供達と戯れ遊んで人々の人気者であった。或る明るい月夜酒樽を抱えて千鳥足でこの橋を通りかかった才兵衛はあくる朝
橋の下で倒れ伏していた、こんな事が何時しか歌詞となって踊り歌で歌われている。
はずかしいと思うのか子孫を名乗る人は聞いた事は無い。小原庄助さんは郡上にも居たのだ、金持ちの旦那衆でないと出来ない事だ、其の日を食う事の出来ない貧乏人ではまねできない事で子孫が解れば「我こそは」と申し出てもいいのでは。
ついでに書き添え。ここら当りは郡上藩時代には代官様達が住んで居た所で代官町とも言っていた。

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この川の洞を天王洞(又上ヶ洞)といってこの谷伝いに水源地近くまで行くと、石切り場
跡がある、八幡城築城の時此処で石を採掘して橇などにに載せて山の尾根下を横道を作り城まで運んだという、少し登り坂ですが馬など使えば可能です。道は整備されて残っています。(3年ほど前に郷土史家の先生に案内してもらいました)

八幡町東殿山

東殿山から覗いた月は、うつす鏡は吉田川、郡上踊り(川崎)
乙姫瀧より東殿山へ2年程前に友人と登った、一昨日は一人だったので熊にでも会うと
オソガイのと色々で引き返したが、一寸古いが登ったつもりで。
瀧からつずれ折道を登ると木造の展望台が見えてくる、これが東殿山で東氏殿の山でそんな名前だろう、2年前でも結構エラカッタ。
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この山は国有林になっていて、展望台と言ってもヤタラに伐採出来ないのか?見晴らしは悪い かすかに八幡城が小枝の合間から眼下にみえた、僅かの合間から長良川と吉田川
の合流点と東海北陸道がみえる。
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此処で弁当食ってからもう一寸上に登る、東殿山の標識らしき物見当たらず、少しなだらかな所が続くが誰も教えてくれる人は無し
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途中から尾根道に分かれる、此処から赤谷城へ続く難所道、遠藤盛数との合戦には雑兵たちが下の赤谷川(地獄谷ともいう)へ落ちて死んだ。今も足を踏み違えると地獄谷へ落ちる。城主13代東常堯は辛うじて落ち延び明宝の水沢上(ミゾレ)(スキー場)の上(山中峠)を越え飛騨の阿通(常堯の妻)の居る帰雲城へ落ちていく、此処から先は郡上では
無いから、帰雲城主内ヶ島の婿殿ですからうまく落ちられた事でしょう(私の推測です)
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やっと赤谷城です僅かに残る石垣。此処は東益之の古城で新城を築き郡上を支配したと言う。
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そこから又ロープに摑まりながら降りると視界が開けて堀越峠道のパノラマです
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其の後は楽な下り坂です愛宕公園へ下ります。骨の有る人は此方から登っても良いが
私はもうそんな所へ行くことは2度とは無いでしょう。良い思いででした。
(歴史資料は其の当時に郡上郷土史家のお話から聞いたものです。もし違って居たら
お許しの程)

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