ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全20ページ

[10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20]

[ 前のページ ]

水の町郡上八幡

水の町といわれる八幡町は、町内隅々迄水路が張り巡られて、いつも綺麗な水が流れています。八幡城主遠藤常友(1652〜4)の時代に八幡町内が大火災に合い、其の時に
城下町と城の大整備をして名実ともに城主になった。水路の整備は生活用水と共に防火
用水に重点を置いて作られて、今も随所にその面影が残っていると言う。(郷土史家の話より)この写真は吉田川からの、島谷用水取入れ口です。
イメージ 1


吉田川に沿って下がっていく用水路は観光名所になり、沢山の鯉や鱒が泳いでいて皆さんの散策遊歩道になっている。昭和22年頃には度々の吉田川の氾濫で用水路が痛んだ、仮設の水路を木造で作った、まだ一人前では無かった私も先輩たちに付いて少し手伝った。当時も復旧予算が早く付かなかったのか??暫くは木造水路でよく水漏れがあり補修に行った(少い報酬は貰えた)
イメージ 2


名前を井川の小道という、水路に付いて狭い小道を下がって行くと旧八幡庁舎の裏え着く
その昔には、ここら当りに、この水を利用して水車を回して動力を得て動く製糸工場があったと聞く(開祥社)其の外にも水力を利用した製糸工場が沢山有ったと言う。水路は其の時代から良く整備されていた。(郷土史家の話)
イメージ 3


この旧庁舎前の谷川を遡ると和良、明宝方面行きの国道に当たる。そこから徒歩で50
メートルほど遡ると、県下で始めてと言う水力発電所跡がある。草むらの中から僅かに
読み取れる、標識があった。明治32年頃にっ作られたとの事で、300灯程の電灯がついたと聞く(郷土史家の話)それにしても今よりもっと水が有ったかも。
イメージ 4


日照りしたとて、乙姫様の瀧の白糸きれはせぬ(春駒)
400メートルほど坂道を上がると其の瀧がある 写真の瀧もう一つ上に乙姫水神が祭られている
イメージ 5

八幡城の悲話

徹夜踊りで燃えた郡上八幡の町も今は後半に入り、各所の縁日踊りで9月前半まで続きます(徹夜踊りはありません)所で郡上八幡城の成り立ちと悲しい話。簡単に、
永禄2年(1559)遠藤盛数が東殿山(城から東南)の東氏を滅ぼしたが、その合戦の
砦とした場所がこの八幡山で、盛数の子供、慶隆により石垣等の整備がされた、 それから遠藤家は、初代盛数ー慶隆ー慶利ー常友ー常春ー常久と、続いたが最後の常久は幼少にして元禄5年お家騒動で毒殺された。遠藤家は減奉されて滋賀県三上へやられて、続いて
井上ー金森ー青山、と続くが明治維新になり廃城となる。昭和8年この場所に模擬天守閣
ができた。モデルは大垣城だとか。
イメージ 1


NHK功名ヶ辻で放送された山内数豊の妻お千代さんは当城初代遠藤盛数の子供です。
イメージ 2


遠藤常友の時代に現在の八幡の街を区割りして、今も其の面影は各所に残っていると言う
そして城も大修理をしたが、其の時神路邑から、大きな榎木を切り出し(橇)に乗せて
引き出した、所が吉兵衛さの家の前まで来ると如何したものか、幾等引っ張っても動かなくなってしまった。それを見に来ていた「およし」という娘がおり榎木に手を触れると不思議にもスルスルと動きだした、そんな事でおよしは、城まで付いて行くことになった。
城の工事中一番の難所工事は南側の石垣で、幾等積んでも崩れるので思案あまり、人柱を
立てたらということになり、榎木に手を出した事も有り、しかも郡上で一番美しかった
「およし」がえらばれた。人柱と聞いておよしは泣きわめくので、籠ぐるみうめたという。
古老からの伝説として語りつがれている。今城上がり口、善光寺に祭られている
イメージ 3


一説には埋めた殿様は大変慈悲深い人で埋めた事にして、籠だけ埋めたとも云う
そして密かに和良邑へ逃がして幸せにくらしたとも。   伝説ですので和良邑に子孫の存在などは聞いてはいません、余にも残酷物語ですので民衆が後から付け加えたのかも。

全20ページ

[10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20]

[ 前のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事