ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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二宮金次郎

 
3日続きの晴天に恵まれて、国道もカラカラに乾きスリップの心配が無くなったので、少し早いが今日は、白鳥町の「掛り付け病院」へ行く。羽島郡笠松町松波病院の診察、検査結果データーと担当医師の手紙を預かって、又此処の病院で診察するのですが「まあ良かったねー」と言って以前から飲んでいる同じ投薬を処方して貰った。
 
午前中に診察も投薬も終り、晴天で暖かいので、白鳥市街へ歩いて用事に行くが、此の道を歩くのも久しぶり、病院の北にある白鳥小学校の横を歩くと、校門から入ったスグ右にこんな石像が建っている。「二宮金次郎」である。
 
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昭和11年頃入学の、私達の小学校では(日本全国)教科書の修身教育(道徳教育)では必ず、「二宮金次郎」が取り上げられて、小学校唱歌にも成っていて、「手本は二宮金次郎」と、小学校卒業まで叩き込まれて教えを受けて居ました。何処の学校の校庭にも、二宮金次郎の銅像が建っていた。薪を背負いながら歩いて、読書して居る像です。
現在の金次郎は、リュックを背負い、歩きながらか、自転車に乗りながら、携帯のメールを打ったり、見たりして居るが!!??
 
金次郎は子供の頃は家が貧しいので、わらじを作り金を稼いで親父に酒を買ってやり、孝行をしたそうだ。
寝る間も惜しんで読書をして居て、灯油代が勿体無いと言われて、菜種を作り自給自足した。
大人の成ると倹約を奨励して、傾いた村を立て直した。その他沢山の良い話が残って居る。
 
昭和16年大東亜戦争が始まった頃から、次第に戦況悪化とともに、寺鐘堂の吊り鐘や、銅で出来た金次郎の銅像も戦争の武器にすると言う事で、強制的に徴収され、代替品として石像か、コンクリート製の像に替わりましたが、替わりの石像が出来ない内に終戦となったものも、有りそのまま無しで終りました。
 
最近は此の石像が有る小学校が滅多に見当たりません、小学校でも殆んど此の金次郎の「倹約、勤勉、報徳、奉仕」の教育は成されていないらしい。それ所か、ネットでこんな記事が有ったが、此の記事(無断転載禁止)が出ているので、出せませんが、
 
<二宮金次郎像>勤勉精神いまは昔、各地で撤去相次ぐ
毎日新聞 125()1619分配信
 
老朽化で石像も転落の危険があると、言う理由で、残った数少ない石像も無くなるのだと言う。
昨年の東日本震災から「絆」という、助け合い精神が復活して、良い世の中になる様な方向に向いている時、この教えだけは石像がなくなっても残して貰いたい。
 
忙しい中にも、たゆまず、学ぶ教えは、尊いと思います。「田中角栄、元内閣総理大臣」の名言に、
「必要なのは、学歴でなく、学問だよ」と言っていたそうです。
立派な事書いた、此の爺も学問等無縁で終わりを告げるようだが、建前は尊いと思います。
 
 

白鳥町6日祭り

今日はもう正月も6日、郡上では、今年初めての祭りで、毎年此の日は別名「花奪い祭り」と言う国指定「重要無形民族文化財」に指定されて居る祭りがあります。
 
神社の説明に依りますと、午後1時から「長滝の延年」と言う舞から始まります。
 
昨年までは参拝して居たが、今年は少し体調も考慮して、参拝しませんが、下のホームページを開いて見て下さい。
 
「長滝の延年」とは長寿を意味して、平安。鎌倉期には奈良、京都、の大寺院で催されていたもので、今では全国で数ヶ所しか例が無く、国指定の重要無形民族文化財となっています。
 
延年の舞の途中から参拝者が、拝殿天井に吊るされた花を奪い取り、家へ持ち帰り家内安全、商売繁盛になると言われています。
 
昔は養蚕が盛んに行われて居たので、蚕部屋に祭りました。午後1時からです、終わりは午後3時過ぎに成るようです。お参りの方はお急ぎ下さい。

屋根普請

 
♪♪むくりかけたア~で、 せにゃーなア~りませぬ、ア〜ソウレイセイ 
♪雨の降り〜でぇ〜のオ〜♪屋根普請〜♪♪ ア ソレシテ〜ヨウ〜アハートナ〜ソウレイセイ
 
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今日は曇りですが、天気予報は良いので、この屋根普請、雨は降って来ないだろうが、庇周りの屋根葺き替えが始まった。
 
見出しの歌詞は「伊勢河崎町」から伝えられた、この地域の伝統芸能「河崎踊り」の歌詞である。
 
この家主人の遠い祖先(享保年間 「1716〜1735」)を筆頭にして、地域、数名の方々が、伊勢参宮の傍ら伊勢神楽を習いに行き、伊勢河崎踊りを習ってきた、と伝えられている。
 
伊勢市河崎町は、伊勢市駅北口からの港町で現在も、「河崎町」地名が残っていますが、其処の古市と言う所に遊郭が有って、遊女達の踊る河崎踊りを習って帰り、以来この地域の伝統芸能になって居た。
 
この河崎音頭原作者は其処に住んでいる医師で俳人の「奥山桃雲」と言う方の作品で、遊郭の踊りらしく色気を匂わせた所で、落ちが付いています。
 
郡上八幡盆踊りの川崎踊りは、この古典芸能を、郡上八幡が取り入れて、歌詞も節も大衆向きに踊りやすく変えて、現在の郡上踊り「川崎」に成ったと言います。
 
この川崎音頭は伊勢音頭と共に全国に広がって居たが、現在は殆んど継承されなくなったと言います、此処でも次の世代へ継承出来るか、解らない様です。一人で歌詞を歌える師匠は、殆んど居無くなり、鳴り物も演奏出来る方はないでしょう
 
ステージで横一列になり、お客に見せる芸能ですから、ゆっくりした上品な踊りで、(出)
(さいもん)(片拍子踊り)と3部構成になっておりまた。
 
現在の八幡盆踊りの川崎踊り、URL
立冬「11月8日」が過ぎたのに、聊か場違いの郡上踊りブログになった。
 
 

美濃和紙

岐阜県美濃市は、郡上市のすぐ南隣の市ですが、合併前までは、武儀郡美濃町と言っていました。
昭和29年に美濃町は、洲原村、下牧村、上牧村、大矢田村、藍見村、中有知村、と合併して美濃市になりました。
 
それより以前を、ず〜と、さかのぼれば、明治44年までは、「上有知(こうずち)」と言っていたのが、美濃紙の生産で、全国的に有名になり、その美濃和紙にちなんで「美濃町」に改名されて居たが、昭和になり洋紙の普及により、美濃和紙の生産が殆んど行われなくなりましたが、最近又新しい和紙の研究が進み復活し始めました。
 
驚く事に、和紙で作った「美濃和紙太鼓」が、有りますが、強く打てば破れるのでは、と心配して聞いて見ると「絶対そんな事は無い」との事でした。
その外に和紙で作った、衣装も素晴らしい物が有ると言います。ウエデングドレス、着物、下着、水着、等、水着は海へ入ると、海から出るときは、水に溶けてスッポンポンに成るので無いかと、心配するが、此れも絶対そんな事は無い、何回でも洗濯出きると言われます。
 
江戸時代には、「上有知湊」から(今は旧吊橋、美濃橋下流に残る)」港から、長良川を利用した運搬により、長良橋の横にある「港町」へ荷揚げして、良質な和紙を使い、岐阜提灯、岐阜和傘、岐阜うちわ、が生まれ、現在も岐阜の工芸品として生産が行われています。
 
たまたま美濃市、道の駅「にわか茶屋」へ寄ったら、隣の別屋で、「美濃和紙で作る花季展」と言って、「美濃和紙同好会」の皆さんの作品が展示してありました。太鼓や水着は展示して有りませんので、破れる心配なく見てきました。和紙で作ったと言は無ければ、本物と間違えます。
 
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おまけ
美濃和紙で作ったマツタケ
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此処の美濃和紙同好会展示歴史案内によれば、奈良の正倉院に残されている「御野国」戸籍断簡(792)に見られるように、1300年以上の歴史を誇り、美濃では平安時代から生産される様に成りました。と書かれていました、昔は(美濃国)を(御野国)と書いた様です。

収穫の秋

休耕田の最後の作物「さつま芋」が少し残って居るはず、雑草延び放題、背丈ボウボウで何処に何が有るのか解らなくなった。5日程前に雑草の刈り取りして置いたので、やっと芋つる発見。
 
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2人暮らしの生活には、全部芋を掘って見ても消費出来ないので、一株だけ掘って見る、
芋の肥料らしい物何も入れない捨て作りだが、これはビックリ!!大きいのが4個もついている。
品種は多分「紅あずま」だろう、最初植えた時は「鳴門金時」でしたが、その一部が枯れて、追加で植えたのが紅アズマ。どうなって居るか??芋を見ても解らないが、「鳴門金時」はこんなに採れないだろうから。
 
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この休耕田の隣の畑も、草ボウボウですが、7年ほど前に「菊芋」の種を貰い植えた所。それ以来毎年菊芋が茂り、これを取り除くのに如何にも手の付け様が無くなった。
「菊芋」は元来野生の物で、繁殖力が強く芋種を掘り起こし捨てるより仕方がないようだ。
少しなら、粕漬けや、味噌漬けにして食べると旨いが、これも沢山有っても仕方がない。
 
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昭和19年頃から、終戦後未曾有の食料不足の時代を見事乗り切り抜けた、お手柄者は、さつま芋でしょう。それに続いて、かぼちゃ、焼き畑地でも出来るそば、等が、この食料危機を救ったのです。
その時代の農家には各戸別作付け面積に応じて、半強制出荷の割り当てがあり、さつま芋も例外無く厳しい検査をして、強制供出していました、何とかして供出の「目こぼし」をしたくあの手この手を使い、家の中へ隠したが、それも限界があった。
 
都市の非農家からは、大きいリュックを背負った人が、買出し列車の窓から乗り降りして、今日一日喰うのに必死の生活でしたが、それもやっと農家から手に入れたサツマイモや、雑穀も、運が悪いと警察官の一斉検問に掛かり、買った芋諸共「食量管理法違反」で没収される、理不尽な世の中でした。
 
小学校の校庭は、朝礼や体操出来るスペースを残し後は全部さつま芋畑に変わっていた。
農家でも何とか「お目こぼし」を考えて、河川敷や山の裾野をコッソリ開墾して芋や雑穀を作り
この難儀を超えてきたが、サツマイモや南瓜は、肥料も手間も掛らなく、雑草の中からでも、其れなりの収穫があった。
既に66年昔の事だが、サツマイモはその時代食料飢饉を助けたお手柄者です。
又その時代に立候補した国会議員のマニフェストが、一人一日3合配給の実現と言っていたが、今すぐにそんな事出来る筈が無いと思っていた。来年の豊作が約束出来るハズが無いから。
 
今思うと「本当にそんな事有ったの」と思うでしょう。その後経済が少しずつ、復興して来ると、「貧乏人は麦飯を食え」発言で、物議を醸したが、国会の場が食い物の話ばかりでした。
 
日曜日に私達地区100戸未満の自治会で手作りの敬老会があり、招待して貰ったが、そんな食料危機の思い出話や、戦争体験話をしながら、一日楽しませてもらった。
老人達一様に今は有り難い世の中に成ったと喜んでいた。
 
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終戦直後時代の年寄は80歳を越える頃は、何もかも実って居たのか!?早く極楽へ収穫されて行ったが、現在の年寄は未だ稔りが遅いのか、青い者ばかりで、稔っていないので、もう20年後まで待って貰う様に閻魔様に頼んで置いて下さい。
 
 

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