ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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昨日の続き
世界遺産白川郷合掌村を沢山見て歩いた。思いのほか歩いたようだが、万歩計を付けて居ないので、どれ位か解らないいが、疲れて来たので帰り支度して、一路もと来た道を帰る。
 
荘川牧戸橋渡りカーブ曲がった所に車待避所か、駐車場で一休みする。    此処に
向牧戸城跡がある。案内看板を見ていたが、もう一回登って見ようと思い細い坂道を上がる
 
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細い坂道を登ると、又階段
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段々を上がり切ると、城門広場へ出る。この広場の奥に見える川尻家の墓が見える、
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此の墓の説明を此処の案内板より移す。
川尻家は、寛政の始め当地に「向牧戸城」を築き、白川郷を支配した内ヶ島氏の重臣であった。
寛政5年内ヶ島氏が、白川村保木脇に帰雲城を築き移ってからは、「川尻備中守氏信」が向牧戸城主として内ヶ島に仕え、天正13年金山長近が飛騨を平定してからは金森家に仕えたが、子孫の代に帰農し、代々牧戸村の名主等を勤めてきた。明治37年8代目「久四郎」の時北海道に移住して今日に至っている。
川尻家は、住居の有った牧戸橋付近に設置された墓を、墓守を依頼されていた、高山市在住の森慶二氏により、昭和62年当地に移設されたものである。
高山市
この写真は07年頃秋に撮った写真だが、
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此の広場からもう一つ段々を上がると城跡がある。西のゆるい坂道を上がっても良い
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向牧戸城は、寛政の始め将軍、足利義政の命を受けて「内ヶ島上野介為氏」が、信濃の国松代
から白川郷に入り、当地に城を築いた。白川郷は元より、川上郷、小鳥郷、更には越中の国「砺波」迄を征する勢力の拠点となった城である。
寛政5年内ヶ島は、保木脇(帰雲城跡の碑がある)に帰雲城を築き此れに移った。向牧戸城は、家臣の「川尻備中守氏信」が城主となり、高山方面からの侵入に対する備えとした。
特に郡上からの侵入には、今までは小沼で人馬の通行は困難であった、蛭ヶ野道路の整備が進み始めてからは、気をつけた。
天正13年豊臣秀吉の命のより、飛騨攻略に向かった「越前大野城主金森長近」が飛騨に入り最初に攻めたのが向牧戸城で、天正13年8月落城した。
向牧戸城は、築城以来百二十数年間に渡り白川郷の要であった。
                             高山市歴史より
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あまり広くは無いが、城の建物は十分できそうだ。
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疲れていたが、もう一つおまけを見て来た。登る高さは知れたものだが、チョット物好きで無いと出来ないだろう、
家内はうんざり顔で下の車で待っていた。
昨日続き
御母衣ダムの遠山家まで来て見たが、近くに有る、平瀬温泉でも行って見ようか。
 
此処の温泉は大白川ダム(白水湖)上の方で自噴して居る湯をパイプで引いて来て居る温泉で掛け流しだったと思い、行って見たが、生憎、定休日。残念だが仕方ない。
 
隣の道の駅で少し休憩。折角此処まで足を伸ばしたのだから、荻町の世界遺産へ行く事に決める。  国道156号線を又北へ向かう、帰雲城跡を通り、鳩ヶ谷ダムサイトを過ぎると、小呂トンネル通りスグに右へ降りると白川郷の有料駐車場、(300円)(地図参照観光地図で無く、プロアトラスから抜いたのです、合掌集落はもっと沢山ある)
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遅い昼飯を取り、此処から出会橋を歩いて渡るのだが、何と平日でも此れだけの観光客、さすが世界遺産の登録は、スゴイ 此の橋延長107m、平成5年7月竣工と表示してある、
橋は吊橋だろうが、普通上に見える親線が無く、歩道をピアノ線か何かで?引っ張っているのか?
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こんなに長い橋をピアノ線はよく「引っ張り応力」が耐えられるもの?渡る途中で切れて落ちないか、大丈夫か。橋渡りきり最初に明善寺へ行く。
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次は。 重要文化財、明善寺庫裏
当地方の民家の特徴は大きな切妻合掌造りをなして居る事である。合掌集落の美しさは全国でも屈指の偉観である。又民家としては資材構造において一番優れたものと言う
白川村でも世界に誇れる第一級の重要性を持つ理由は此処にある。
                        白川村教育委員会
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白川八幡神社
例年どぶろく祭りは、毎年10月14日と15日両日に行われます。どぶろくは、さかずき一個買ってお代わり何杯でも戴けたが、今はどうなっているか?
 
神楽の後には各種の郷土芸能の古大尽や、色々あります。古大尽の歌詞は(照蓮寺亀寿丸のちに名心と改名)を慕い詩ったものです。
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八幡神社の杉の木、樹齢不詳。その昔、中野照蓮寺を此処に生えていた杉の木一本で本堂全部建てたと言うが、こんな大きさのものだったでしょうか?
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農作業のチョット一服では、有りません。観光客です。戴いているものお茶コーヒーか?
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長瀬家
当家の合掌造りは、5代目当主民之助により、明治23年に建造されました。白川郷の天然檜や樹齢300年から350年と言う栃、欅、桂、等の巨木が使用されています。
5階建ての合掌造りは、3年の歳月と当時の金で800円、米100俵、酒11石8斗と白川郷民の結いの心で完成したと言う。
平成13年からの大屋根葺き替えに当たっては、NHKが其の過程を1年に渡り撮影して
放送されたドキュメント番組は、今も伝えられている「結」の精神を伝え日本中に大きな反響を呼びました。
揺ぎ無い、風格と合掌屋根が作り出すなだらかな線は、白川郷の自然と相まって独自の美を創り出します。
当主敬白    以上書き写し
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ぼっとりと言います。郡上にも昔は沢山有りました。米搗きから、稗、粟、雑穀を搗いていました
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明善寺妻の合掌屋根と他2軒の屋根取り入れた写真、良いアングルでしょう。
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世界遺産観光ポスターに良く出ている合掌屋根写真、カメラアングル真似して撮って見る
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アマチュアカメラマン大忙し、合掌村撮りまくる。葺き替えしてまだ間が無い様だ、屋根が新しい萱・
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帰りに少々隣へ手みやげ、どぶろくきんつば
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今日は一日中、郡上大和支部シニアクラブの定期総会に行く。午後はシニア芸能祭。作品展示会。
 
ブログ更新、総会から帰ってヤット出来た。忙しかった。
御母衣ダム。ロックフィルダム 昨日の続き
 
最初の計画は高さが120メートル位あるダム計画でしたが、其の後計画は大きな壁にぶつかる。原因は地震地帯で地質の(ゼイジャク)さ、で有った。
 
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此の一帯は、断層が多くて崩落の激しい地質で、(天正15年)には、大地震に縁ってダム下流に有った「帰雲城」が崖崩れで、埋没し、城主、内ヶ島氏理一族が滅亡すると言う歴史が有った。
 
事業の重要性と困難を考え、関西電力は工事の遂行が困難である事と見たので、技術関係者は地質が弱くても建設が可能なロックフィルダムによる建設をえらんだそうだ。
 
 
奥に見える崩落した山は、地震で壊れた所
此の下に帰雲城が有ったと、推定されています。
 
 
ロックフィルダムとは、従来型のコンクリートで固めた此の御母衣ダムの下流にある、鳩ヶ谷ダムの様な物では無いのです
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断面図に有るように石と粘土で突き固めた物で、川の真ん中へ大きな山が降りてきて座ったような物でしょうか。
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見た表面は岩がゴロゴロしていて、コンクリート打ちで仕上げた所は、ダムの水がオーバーした時に流し出す排水流路工や、発電用水の取り入れ口ぐらいに見えます。
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私の住んで居る郡上でも、此のダムがセメントを大量に使用する事を当て込んで、郡上八幡へセメント工場が誘致されるはずで、大きな期待をして居たが、ロックフィルダムに計画が大きく変更されて、ただの夢で終わりました。八幡周辺は石灰石の沢山ある所で、今でも石灰石で出来た、鍾乳洞等が良く見られます
 
ロックフィルダムで使う石は、ダムサイト近くの福島砕石場で採取されたが、大量のダイナマイトを使い、世界でも初めてと言う、発破を仕掛けました。地震学者まで動員して来て、マスコミが連日報道していた所をTV等でも見ていました。既に私達は土木の本工事に入って居るので、仮説大工は終わり、切り上げて来て、家でその様子を見ていました。
 
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短期間では有ったが、私達のやる仮説建物工事も、当然現場で泊まって仕事に成りますが、此の遠山家の近くで飯場を建てて泊まり、雨でもカッパを着た外仕事ばかりでした。
遠山家は郵便局もやって見えましたが、新聞は3日に一度、郵便で来るだけ、新聞なんか読む暇があれば働いて金儲け優先。
(3日遅れの便りをのせて〜 ) 都はるみの歌でも有るまいが、それを地で行く。
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其れでも、此のダムサイト下から、遠山家までは、「御母衣銀座」と言われて、飲み屋が軒を連ねて、昼間でも夜でも変わらぬ繁盛ぶり。特にバラック長屋の裏辺りは、昼でも厚化粧した女達が客引きをしていた。
 
「こんな所で金を使うな、物価は郡上の倍、手間代も倍、此処で儲けて家へ帰って使う」を合言葉にひたすら働いて、郡上でも大工仕事が待っているので、早く切り上げて帰ってきた。
 
其れを追いかける様に、此の発電所の通信網である関西電力バラボラアンテナの中継所を大和町内ヶ谷の山に既に出来ている建て物の増築改造をする、又山に泊り込み仕事に成る。
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中部電力から、電源は賄われて居たが、冬の豪雪に送電線が切れても、電源が確保出来るように、ジーゼル発電の設備移動でした。すでに通信設備は稼動していたが、朝仕事初めにドアーを開けると、関西電力からだろうが、確認メッセージが来た。「何処で見ているのだろう」と思い不思議でした、仕事サボって遊んでいると見られている様でした!!
今の様に監視カメラ等あるはずは無いが??
 
雷が鳴ると足元で稲妻がして、恐ろしかった、山登りをする人は経験済みでしょうが??

 
 
 
昨日は(06/15日)仕事は何も予定無し。天気は暑くも寒くも無い。ゴロゴロして居るのも勿体無いと、AM9時半頃に何処かへ行って見ようか??
 
行く当て無しに北へ向かってみる、蛭ヶ野まですぐに着いたが、もう少し北へ行こう。郡上市を離れて飛騨荘川町牧戸三叉路交差点で、北へ向かって左へ行く。国道156号線、岩瀬橋を渡りダム西側の道路を行く
 
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 岩瀬橋と昔の156号線
 
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 湖底に成る前の岩瀬橋と荘川牛丸の中間辺りの国道156号線です。此の岩瀬橋の下を潜ってダム現場へ行きました。昔は随分狭い道路でしたが、後ろの4tトラックが追い越し出来なかった。
 
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飛騨荘川町中野地区から海上地区辺りに着くと、道路脇に2本の荘川桜がある。季節はずれですから誰も居ない。私も2年程前に照蓮寺桜書いて入れたネコブログが有ります。見てください。
 2009年に投稿した、照蓮寺、ネコブログです。
 
湖底に沈む予定の照蓮寺桜と、光輪寺桜を当事の電発総裁「高崎氏」が指揮を取り此処へ移されたと言う話、何度も聞いて居ますが、改めて此処の案内石碑から、拾って見ます。
昭和35年に愛知県豊橋市の造園業者、「丹羽氏」と「笹部氏」が本格的な移植作業に取り掛かったが、移植方法で意見が対立したと言いう。其れでも若い根が予想以上に多かった事から、又職人の長い年月の経験と勘で、移植作業を開始して、ダムを担当していた、「間組」の大型機械を駆使して此処へ移植をしたと言う。
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此の桜は2本共、アズマヒガンサクラで、樹齢は推定400年とも、500年とも言われています
3本に枝別れしたのが、光輪寺桜、樹高は20mで、目通り5,45mと表示して有ります。
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さて照蓮寺桜ですが、前にも書いた様に、照蓮寺は、私の旦那寺の元坊守さんの生家ですので、
改めて良く見てきました。樹高は、21mで、目通り4、85mと言います。
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荘川桜から眺めた「みぼろ湖」です。照蓮寺は此のした、1、500mの所らしいです。湖底に沈む前には、ダム仮説工事に行く途中で、寺に良く寄って休んでいきました。(桜は其の当事には、私は無関心でした)
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嘉念坊善俊上人像です。照蓮寺開基。ネコブログ「来通寺と嘉念坊善俊」
 
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2本の桜が咲いた時に来た事は、一度も無い、TVや報道写真で見ているだけですが、もう人混みはあまり得手でありませんから、此れ見て想像するだけでも見事でしょう。
 
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この156号線で運行されていた、国鉄バス車掌「佐藤良二さん」は移植前から活着した後までの写真を撮り続けて、開花した桜に感動して「太平洋と日本海を桜で結ぼう」の運動をされて、桜苗を植え続けたエピソードは、映画になり、今年も「桜道国際ネイチャーラン」等のスポーツ行事が行はれました。
佐藤良二さんは、郡上市白鳥町向小駄良の方です。
明日に続く、
昨日の続き(3)
此の明建神社の鬱蒼と茂る森から、右に見える山を篠脇山と言い、この地域一帯(山田庄)を支配していた東氏が8代・約230年間にわたって居城とした篠脇城跡が、標高約523メートルの篠脇山、山頂にあります、
 
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応仁元年(1467)応仁の乱、戦乱は11年も続き、京都の町を焼き尽くして野原にしてしまった。  皆様の良く知る話であるが。
 
郡上の東氏もよそ事では済まなかった。郡上東氏は、細川方に味方したのであるが、当然出兵もしたので山田庄の護りも手薄に成る。其の上城主「東 氏数」の舎弟「東 常縁」は幕命により
下総国へ遠征中でした。
 
其処へ同じ和歌をたしなむ武人の美濃守護代「斉藤妙椿(さいとうみょうちん)」が大軍を率いて郡上へ侵攻して、東家の篠脇城を陥落させた。
 
城主「東 氏数」は慌てて兵を集めて防戦したが、敵は此の妙見神社に陣を張り、隣の寺まで焼き払い、栗栖川を渡り東氏館に乱入、更に篠脇山の本丸目掛けて突進した、
氏数は山の尾根伝いに東方へ逃げたが間もなく没した。
東氏館跡
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篠脇城陥落の悲報は下総国に遠征していた東常縁の耳に届いた。常縁は承久以来君臨して来た祖先の領土が奪われた事を嘆き切々とした、悲しみの和歌を妙椿に送った。
其の度に妙椿からも心のこもった返歌が送られて、詩による和議が成立。妙椿は篠脇城も山田庄もソックリ返してくれる事になった。写真の碑は常縁が妙椿へ贈った10首の詩である。
 
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今の世では考えられない事ですが、昔の文武両道にたけた武将はこんな美談を残した。
郷土史家の先生は日本一高い原稿料を払った人は斉藤妙椿だと言っていた。
 
帰りは此の歴史公園に有る牡丹園を廻るが、既にイベントも終わり花も無くなって居た、
 
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かろうじて栗栖川近くの最後のコーナーに咲き遅れた牡丹が少し有った
 
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歴史資料は 大和村史。郡上郷土史家資料。より
 
昭和40年代に大和郷土史研究会へ友人に誘われて、講義を聴いていましたが、先生も高校を定年退職された日本史の先生で、時々前の講義の復習で教えた事を覚えているか質問されるので、其れが嫌で途中で止めました。今はその時の大勢の先生が故人になられたが、もっとまじめに聞いておけば良かった。
 

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