ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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昨日の続き、
私の子供の頃に、此の拝殿で刃傷事件が有ったと、語り継がれていました。なんと無く聞き流していましたが、此処の地区住人で元、村役場で各課長歴任して、定年退職されたKさん、毎日健康で農業されて居ますが、今年94歳。地域の語り部として、自筆で書いた本を貰いました。私は此れ程詳しくは、知りませんでしたが、文章お借りして移します。
 
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文政11年(1828)9月21日、郡上八幡城主16代青山幸寛(ゆきひろ)(在任1816〜1832)の家臣、梶村来太郎(かじむら、らいたろう)が剣村紋吉の娘『まき』を連れて、妙見神社拝殿で休憩している処へ『まき』の前夫であった八幡紺屋半助の手間取、民造が二人を追い掛けて来て女に手傷を負わせ、恋仇の梶村を切り殺した。  民造は『まき』をも殺さんと追いかけたが、見失いもはやこれまでと、妙見神社下の栗栖川辺にて腹を切り淵に身を投げて果てた。腹を切った処の岩を民造岩と語り伝えられている。
『まき』は拝殿より逃げて四郎左衛門宅に匿われて命拾いをし、作右衛門宅に村預けとなっていたが、12月29日赦免となった、後日『まき』はお礼にと四郎左衛門に鍋を贈ったとある。民造は八幡より上の保街道を経て途中河辺村、宮の脇道に入り牧村元兼街道を番傘に刀を隠して通った姿を見たと古老の話が伝えられている。
一方梶村方では、娘が親の仇と女ながらも息巻いていたが、如何様にも武士が一町民に殺されたとあって差し止められたようある。
一件は落着したが、神聖なる社域を血で汚したと大騒動となり、11月25日拝殿取り壊し拝殿敷地を一尺、庭を三寸余り掘り下げて清め天保14年(1843)実に14年余の歳月を要し現在の拝殿を建てた。      
村人民造を哀れみ墓を妙見神社の川向かいに建てて弔っていたが、其の後昭和10年徳永恩善寺東側の無縁墓地に移し供養する。
 
写真は来栖川辺に有る民造岩
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明建神社、賽銭箱

最初にこの神社の由来を書くと、場所は郡上市大和町牧ですが、承久3年(1221)承久の乱の戦功により東胤行が下総の国(千葉県)から入りこの地を治めた時の千葉氏の氏神である「妙見大菩薩」を勧請して来て東氏の氏神にしたのが、そのまま現在まで続いています。
 
明治維新に廃物希釈の嵐にも、御神体は其のままで、神社名を「妙見神社」を「明建神社」に改めて切り抜け、御神体は仏様の「妙見大菩薩」のままです。
 
 
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さて今年の春に雪が少し消えかけ頃に、昔の大工友人T氏が、「賽銭箱を作りたいが作り方教えて」と言うので、「以前から有る賽銭箱見て作れば良いのでは」と言って置くが、其の後度々尋ねてきて、結局何処かの寺か、神社の良い見本を見て来て作る事に決まる。
写真明建神社の古い賽銭箱、泥棒に何回も壊され痛みがひどい
 
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大工の様な家普請をするのでは無いから、一人で作れば良いと思い、あまり取り会わなかったが
欅の材を探して来て、作り始めるが又何回も尋ねて来る、泥棒が開けられない、持ち出せない、
壊されない、そしてこの神社風格に似合う賽銭箱と考えるとヤッパリ難しい、其処で防犯対策も考えたが、此処で種明かしは内緒にします。
今日T氏を他の所用で訪ねると神社へ奉納したから見てくれと言われて、行って見る。見事に良いもの作っていた
 
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T氏は40歳を超えたとところで、自分の事情により同じ材木関連の仕事から、大工に転向した。
自分の子供位の生徒と一緒に職業訓練所で一年間、学ぶが、其れからは、職人は、知識だけは出来ても体が技能を覚えなければ、誰も使ってくれない。私と似た位の年齢ですから、一緒に仕事やって覚えればと、ズーット対等で仕事をした。負けず嫌いな面も有って、早く仕事の要領は覚えてしまった。今はそんな高齢な彼が、まだ時々こんな仕事して居る。
板厚さは、床脇に使う欅の違い棚材で、1寸2分、プレナで荒削りして仕上げてあるから、多少痩せているか。
 
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上面の格子も綺麗に仕上がっている。今日は此れが見て欲しくて、神社から、フィルドミュージアムを一回りする。
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この神社には、毎年8月7日には、重要無形民族文化財に指定された、7日祭り(なぬかびまつり)と言い、多くの観光客が詰め掛ける。T氏は獅子舞の役割分担である、其処の家に生まれた長男は、祭り一週間前から禊潔斎して、是非も言えず其の役を代々に渡り、引き受けねば成らない事になっている。今彼の家では、は次代の子供に受け継がれています。
 

善勝寺の桜

私の住む処、郡上市は、日本のほぼ真ん中で、殆んど山に囲まれた所で、約90パーセントが、山林と言う事です。
南は濃尾平野を望み、北は白山の麓まで。郡上市美並町から、高鷲町まで、海抜約100メートルから180メートル位まで、起伏に富んだ町で、気候も比較温暖な美並町と、高鷲町蛭ヶ野辺りの、極寒の土地まであり、季節に咲く花も色々とありますが、其の内、桜の開花も、3月の終わりに咲く美並町の桜から始まり、まだ今から咲き出す桜も有ります。
 
郡上市白鳥町野添に有る、「善勝寺の桜」も標高が高い為今頃やっと開花だ、と言う事で、比較温暖な大和町の地に住む者は、桜の開花は忘れ掛けていた所、連休で遊びに来ていた子供や孫たちが、「桜見に行って見よう」と誘いが有ったが、思案の末、動きの鈍くなった年寄りは、遠慮した。(写真は子供か、孫が撮って来たもの)
善勝寺は、花の季節以外には参詣に行った事は、何回も有りますが、残念ながら桜の開花時期には訪れた事が無い。
 
この桜は寺伝に依ると、郡上藩主(多分東氏以後の遠藤家藩主)が植えた桜で、約400年程経つ古い、エドヒガンサクラだと言う。桜幹周り、4,3メートル、高さ19メートルで、岐阜県の天然記念物に指定されている。この寺は道路よりかなり高い所にある為か、境内は大きな石組庭園が施されていて、其処に咲く桃や芝桜なども見事です。
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歴史や伝説の有る桜や、300年以上も経つ古い桜などは、一本きりの桜でも結構有名に成り、其れに新聞マスコミ等に騒がれると、大勢が桜見にきます。其の中で郡上市明宝にある「善兵衛桜」は、善兵衛と言う旧家の墓印の桜と言う事ですが、場所は国道472号線、明宝大谷地区
「道の駅、磨墨の里公園」を北へ100メートル程上がった所に「養泉寺」と言う寺の横に有ります。岐阜県の天然記念物に成っているそうです。樹齢は300年とか?
 
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日付けを見ると、07、04、17、と成っているが、此の歳は、今年より早く咲いたようだ。
今年は遅くまで寒さも続き、此の桜も開花は遅れた様だが、もう既に散って居る様です、此れをもう一度見るには、来年を楽しみに待ってください。
 
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今年で18回目を迎えた、国際ネイチャーラン。只今(午後3時半)ランナーが郡上市の大和町を通過した。
 
此の大会趣旨は私が説明するよりも、インターネット検索で、出てきたので、其れをコピーして置きます
 
大 会 趣 旨                               
太平洋と日本海を結ぶ266kmの道を、桜のトンネルで結ぼうと決意した男がいた。御母衣ダム工事で、水没する山寺の樹齢400年を数える桜の古木が移植され、
 
見事に蘇ったその生命力に感動したからである。その男は名古屋と金沢を往復するバスの車掌・故佐藤良二氏である。
 
彼はバスの走る道沿いに、桜の苗木を黙々と植え続けた。乏しい蓄えを注いだ。少ない休暇を使った。
,000本も植えただろうか。男は病に倒れた。志半ばで力尽き、逝った。47歳の短い生涯だった。
 
清貧という言葉が改めて見直される今、「人の喜ぶことをしたい」と病魔に侵された我が身を顧みず、無償の行為を貫いた佐藤氏の生き方は、貧しくとも豊かな心を持つ、人間の幸福な姿を問いかけてくれる。
佐藤氏が夢みた“さくらのトンネル”を、走り抜けるという形でその遺志を受け継ぐとともに、「太平洋と日本海を桜でつなぐ」という大事業の完成に少しでも寄与できればと考えて、今回『太平洋と日本海を桜でつなごう2011さくら道国際ネイチャーラン』を開催する。
以上。  
 
趣旨はこの様ですが、故佐藤良三氏は郡上市白鳥町向小駄良の人で、此処から福井県へ越す「油坂」に顕彰碑が有ります。
 
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(水没する山寺)とは私が昭和33年頃、御母衣ダム工事の仮設工事に行く途中にトラックで資材を積んで運ぶ途中に休憩所にした寺で、「照蓮寺」と言う寺に有った桜を移植されたのです。伝説に依ると「蓮如」がお手植えであるとも言います。其の移植された、桜に魅せられた国鉄バスの車掌、故佐藤氏ですが、観光バスガイドの様に御母衣ダム工事状況も案内をしながら乗務について居たと言う事で、工事場でも話題になっていました。
 
故佐藤氏の植えた桜道を名古屋城から金沢兼六園まで260kを駆け抜ける、過酷なマラソンです。
郡上市まで来る頃は皆ばらばらに成り、ランナーは殆んど集団は見られません。
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 荘川桜クリックして
 

郡上八幡町も桜が満開

今日は久しぶりで、郡上八幡「A−コープ」へ食料の買い物と家内の母の墓参り。帰りに愛宕公園へ寄る。
桜がほぼ満開、例年の八幡町、春祭りも、もうすぐらしいが、今年は地震の為、あまり派手にはしない様だ。
 
此処愛宕公園は、西側が旧八幡高等女学校の跡地で其の後八幡町役場になり、現在は郡上市役所に成っている。
 
愛宕公園と成っている敷地は、戦国時代「東氏」(大和町妙見、篠脇城から東殿山へ移る)の赤谷山城の大手口で、下屋敷が存在していたと、思われる所である。
其の後、江戸時代には、遠藤慶隆(郡上八幡城2代目城主)は愛宕神社を建立し、近くに有る寺の(京都妙心寺から半山和尚招請し建てた寺。)と言う、臨済宗妙心寺派「慈恩禅寺」境内敷地であったと言う。
 
昭和初期に偏照殿、忠魂碑が出来た。
 
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愛宕公園の桜枝から八幡城をみる
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上の説明板の、墨染めの桜。長い年月の為、どうにか花をつけているが、17世紀頃に植えられて物ですから、空洞が出来て、見るのも痛々しい。次の写真2枚
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帰りは八幡町五町の旧国道156号線の桜並木を通り帰るが、鉄道踏切がある為に、寄り付きが悪く、少し忘れられている。
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