ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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関市刃物祭り

今朝は小雨が降っていたが、雑用があり、関市まで行く。用事は早く終わったので、関刃物祭りへ行って見た。
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最初に「関鍛治伝承館」へ寄ってみる。
【関の刃物の歴史】が入口の書いて有ったので、そのまま写して置きます。
 
「今から700年前、鎌倉時代末期に九州の住人と言われる元重が関に移り住み、初めて関で日本刀が作られました。
 
以後関刀鍛治が独自の鍛刀法「関伝」により「折れず曲がらず良く切れる」と称され飛躍的に発展し戦国時代に最盛期を迎えました。
当時の刀匠としては名刀「関の孫六」として名高い孫六兼元や、和泉守兼定などが良く知られています。
 
しかし江戸時代に入り、世が太平になるにつれて、刀剣の需要は減少し、刀匠も多くが農業用刃物や家庭用刃物の製造へと転業していきました。
 
しかしそこには、刀剣造りの信念が生き続け明治維新後は、
包丁や替刃、ハサミ、ナイフ、洋食器など、他の追従を許さない高品質な製品を作り続けてきました。
 
長い歴史に磨きぬかれた関の刃物は、国内で最大の生産量を誇り、国内は勿論、海外でも高い評価を受けて現在、多品種に渡り世界各国へ輸出さています。
 
今では関の刃物は、ドイツ、ゾーリンゲンと並ぶ世界のブランドになっています。
 
 
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鍛治伝承館へ入ると
刀鍛治の人形
 
良く出来ている
本物の仕事場のようです
 
 
今日は隣で本物の刀鍛治が刀を打っているが、
待ち時間が有ったので
此れで次の会場へ。
 
 
 
 
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名刀が沢山展示して有るが、
 
大工に使う鑿やカンナ
の刃物なら興味があるが、こんなオソロシイものは知識も無いから早く通り抜ける
 
 
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面白イベント
 
良く切れる刃物でリンゴの皮を切らさず、長く剥いた人の勝利。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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いい、お父さん真剣に
皮むきに挑戦。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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次の会場
 
アイデア商品
天眼鏡の付いた爪きり
 
成るほど眼鏡無しで
爪が切れる。
 
 
欠点もある
置き場がカサバル
 
 
 
 
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同じ爪きり
 
指を出して軽く板を押せば、力が無くても、硬い爪でも切れる。
 
 
鬼の爪でも切れるようです。
 
地獄へ行った時には、鬼の土産にいかがですか。
 
 
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包丁だって。
柄が上に付いているから
力が要らない。
 
 
笑えるよ〜〜
 
 
 
 
 
 
 
 
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雨が良く降ってきたが、
お客は大勢居る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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傘と人ばかりで、何が出店してあるのか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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包丁1、000円均一
 
 
買うのか??
買わないのか!!
 
当座、家では包丁間に合っています。
 
買わない。見ただけ。
 
 
 
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食べ物屋も刃物屋より多く出店しているようです。
 
 
 
 
 
広島焼きだとか?
 
 
 
 
 
 
 
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鯛焼き
今売れました。
 
 
 
雨の中お買い上げ
有難う御座います。
 
 
 
 
 
 
 
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長良川の鮎
 
塩焼き、
 
良く売れて焼き上がりを待っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
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此れなら真似出来そうな。
 
ハサミでも砥ぎますで〜
 
雨の中をめげずに、
ようこそお越下さいました。
 
一時間程回って何も買わずに帰った。
 
 
 
 
今日の用事は、理研補聴器センターへ寄って、家内の補聴器の調整お願いする事でした。
 
約6000歩、歩いた。
 
 
 
 
 
 

美濃市、昨日の続き

 
関市、中農厚生病院へ親友S君の見舞いは、病室は早く切り上げて出たが、其ほかの用事は無いので、関で昼食済まして帰途に着いた。
 
天気も良く家へ帰るには早すぎたので、美濃市の道の駅などへ寄り道するが、別に買う物も無いし。(金が無いから、
 
ゆっくり郡上へ向かって北上すると、美濃市の最北端にある、洲原神社が国道156号脇に鎮座しています。
 
何時もお参りする事もなく横目で見て通るのだが、今日はS君の肺癌回復祈願と、私、家族の健康祈願を思い付き、洲原神社駐車場へ入る。
 
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鳥居横に車を置き、鬱蒼と茂る社叢の中を境内へ向かう。(拝殿)
 
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回廊が回っている。    本殿は屋根の葺き替え工事中でした。
檜皮葺きで、此れが出来る職人も少なくなっていると言う。
 
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昔は長良川から、船便で来て此処から上がり、お参りしたのだそうです。
下は長良川  渇水で普段より水が少ない
 
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長い石段を上がると、楼門がある。拝殿、舞殿、楼門、は、市指定文化財。
 
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舞殿か?  大きな太鼓が置いてある。此処で巫女が舞を奉納するのか?
 
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本殿正面で少し真面目にお参りする。
案内に依ると、奈良時代に越前で生まれた名僧で、白山を開いた、「泰澄大師」 によって創建されたと言われる。白山信仰の前宮として祀られていると、いう事でした。
 
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昔の友で、愛知県瀬戸市に住む大工が言っていた事を思い出した。
春、苗代の季節になると洲原神社へ、瀬戸の地域代表が参拝に来て神社の「お砂」を戴いて帰り、各家々にお砂を配り田へ入れてから苗代をするのだと言っていた。其れより先に苗代をする事は絶対に無いと言っていたが、多分現在の苗代は農協や、業者が管理しているから、どうなったか?
 
又この神社には「ブッポウソウ」と鳴く鳥が生息すると言い伝えられている。
 
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私の小学校時代にNHKラジオ名古屋第一放送(JOCK)で愛知県の鳳来寺山で仏法僧の鳴き声を実況中継して放送したと先生が言っていた。
(ラジオが無かったので聞いた事は無い)
その時に此処の洲原神社にも仏法僧がいると言う話をしていた。
結局の所其の鳴き声の主は、フクロウで「コノハズク」だと言う事でした。
 
次に社叢に男檜、と女檜がある。楼門横の細い方が女檜で 太い方が男檜。一対
 
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今日になり、此ブログ更新しているうちに、ふと思い付く、普段それ程此処の信仰心も無い者が、結局の所「苦しい時の神頼み」でした。 
 
其れより「今日を生きている」喜びの方を感謝するのが最高の幸せと思い、少し落ち着いた。
 

美濃市

親友S君が一週間前に肺癌を宣告されて入院してしまった。
突然の事で本人もかなり落ち込んでしまっていたので、今日は(9/26日)前向きに励まそうと、その後の経過も聞きながら見舞いに行く。
病室には、同病の人も居る為か、本人は淡々としていて、逆に私が元気を貰って帰途に着いた。
 
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帰りの途中、美濃市文化会館横、小倉公園前の老松、何時見ても深い緑を称えて元気。この元気を戴こうと、寄ってみる。            説明案内版によると、
 
「この松は小倉山を望む景観を一層引き立てる松として昔から市民に親しまれてきた。慶長10年(1605)金森長近公は小倉山城を築くと同時に城下町、上有知(こうずち)の町作りを行いました。今も尚其の面影が至る所に残っています。こうした町作りの先駆者、長近を称えて(長近の松)と命名しました。」
 
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美濃市のブログは今年2・14日にも投稿しています。良ければ開いてみて下さい
 
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の功により、徳川家康からこの地を貰って、小倉山城を築城
慶長10年頃には、現在の町割りが完成した。
明治44年に其れまでの地名「上有知(こうずち)町」を美濃紙生産で有名になり其れに因んで「美濃町」と改名する。
 
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小倉山城登り口右(写真、酒造旧家)を左へ進むと
こんな小さいトンネルがある、小倉山の下を掘りぬいたトンネルで、乗用車の行き違いは出来そうでない。そこを抜けると長良川の港町。川灯台がある。此処から美濃紙の輸送や物資の出入りで栄えたと言う。
 
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長良川に沿って狭い道を少し登ると、国道156号線と長良川に挟まれた場所の(道の駅)がある。
 
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「にわか」とは変な名前ですが、郡上でも「にわか芝居、農村歌舞伎」のことを言います。
「仁輪加(にわか)」と書きます。江戸時代に始まった芸能の一つで俄かに思い立ち即興で演じる素人芝居で、美濃市の場合は簡単な落ちが付いていて、見物人を笑わせています。仁輪加車に太鼓を積みお囃子を演奏するなど、貴重な大衆芸能です。
 
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道の駅店内、良く繁盛しています。採れたての野菜や、まだ少し早いが美濃市は柿が有名です。
 
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神明堂の八朔祭

 
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 (中日新聞)
 昨日郡上市の猛暑は遂に日本一になった。
 こんな事で日本一とは、あまり喜べない。
 さすがにクーラー無しでは、生きて居れない位でした
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 我が家でも陽が落ちるとクーラーを切って窓を開け
 庭にスプリングクラーで散水をして暑さを和らげて
 います。
 
 
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話変わって今日は八朔祭があった。その神明堂八朔祭の歴史を簡単に披露します。
 
郡上八幡「東殿山城」で郡上を治めていた城主(東常慶)の子、13代目東常堯(とう、つねあき)が飛騨帰雲城より阿通を、妻として迎える少し前までは、郡上と牧戸の蛭ヶ野あたりは、西の白山伏流水が湧き出ていて、一面沼池で水芭蕉の、群生地になってとても人馬の通行出来る所ではなかった。それで牧戸城は南からの侵入には無防備であったが、少しずつ蛭ヶ野道路も整備されてきて郡上からの攻撃も考えなければならなくなり、そこで郡上の東常堯へ黄金の持参金付で、飛騨「帰雲城」内ヶ島氏理の妹阿通を嫁入りさせたのである。
 
常堯は阿通(おつう)の器量と溌剌とした健康美にはお気入りだったが 元々凡庸の常堯(つねあき)は場皿の木越城主遠藤胤縁の妹、お園に惚れていて夜お園の寝所へ忍びこみ盗賊よばりされ面目を失って居た所へ同じ士族の畑佐城六右衛門の元へ嫁いだ。 この世の事はなんでも自分の思う様に事が運ぶと思っているどら息子は激怒した 畑佐六右衛門とも不仲になり また木越城主遠藤胤縁にも何時までも怨念に懲り固まっていた(木越城は東殿山城の北の護りの出城である)
 
時に、永禄2年(1559)八朔のお祝い(新暦9月1日)に毎年の行事のとして数々の貢物を持って遠藤胤縁は家来を連れて東殿山城へご機嫌挨拶に上がった。 城主「東常慶」は上機嫌で迎えた。  遅くまで祝い酒の振る舞いを受け、ほろ酔い気分になった遠藤胤縁主従は 口神路のお神明様まで帰って来てさて 此処から長良川を越えようとして準備に掛かった所を 密かに着けて来た常堯の家臣 長瀬内膳によって殺害されたという。
 
(神明神社対岸の木越城跡)頂上に少し平らな城跡がある)
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その供養の為この地域では昭和20年の終戦頃まで八朔踊り(郡上踊り)があったが、何時の間にやら廃れて無くなってしまった。
今日は八朔の9月1日を日曜日までに繰り替えて、午後から神明神社へお神酒を上げて祠の祭礼にしている。
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   歴史記事郷土史家より聞く

幽霊

 
私の子供の頃(小学校5年生以上高等科2年まで)の頃には、夏休みの内の行事で2、3回の合宿肝試しが有った。特に各地域で行う合宿肝試しは、高学年の者の指導で、肝試しをするのだが、宿は寺本堂か分校の教室で、食事は先輩達が川で取った鮎や小魚などで、普段食べた事の無いご馳走で嬉しかったが、其れが終わると早速肝試しになる。深夜(11時頃)に成るまでの時間稼ぎで、先輩達の語る怪談は、聞かない訳には行かず、「四谷怪談」や「番町皿屋敷」と言った歌舞伎から取った怪談や、出る場所指定した幽霊話であった。
 
肝試しに行く場所は(1)火葬場又墓場 (2)寺本堂の裏 (3)人の寄り付かない淵、一週等で、腰抜けのレッテルが貼られるのが嫌で仕方なし(2)へ行くが、生来の腰抜けには最も嫌な行事でした。それから後青年になってもまだ、先輩の語った、狐タヌキのお化け話や、幽霊話が身に染み付いて、未だに腰抜けです。
 
話は変わり昭和20年終戦になり、学校教育も変革されて今までの小学校高等科2年で終了が、中学3年となり、当然教室不足が出てきます。戦災で都市が焼け野原に加えて、学校建築や増築が増えて、セッチン大工でも大忙しの時代でした。父が大工棟梁(とうりょう)で、或学校の新築を請負、私も父に付いて仕事をしました。
終戦間もない頃で、その日の食料すら満足に無い時代。全ての仕事は手作業ばかりで、校舎、屋敷作りも傾斜の畑地をスコップやツルハシで手堀して、モッコへ土砂入れて二人で担いで整地しました。
 
と、或る日ツルハシで小高い土盛を掘り起こすと、人骨が沢山出てきた、作業は一時中止、寺より僧侶を呼んで懇ろに供養して、祀りその場所は何処だったか、も解らなくして、その歳の内に校舎建前を終わりました。
 
大工作業も鉄工用の電気ドリルを木工用に改造したのが一丁あるだけで、当時電気も不足していたが、電源は特別に申請して定額料金で払って使っていた。釘もボルトも、何もかも無い無いの時代でしたが父が大工組合の組合長をして居た事と、村会議員や村長の計らいで何とか完成した。
 
(この学校現在は取り壊されてありません)
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所が新春3月中頃になり、新入学の生徒も決まり開校式間近になると、何処から出たか解らない噂で
「此学校から幽霊が出る」「青白い火の玉見た」とか、言う噂がコッソリ囁かれ始めた。私は人骨が堀出された事聞いて知っていたのでヤッパリか〜〜と思って居たが、地元村会議員から、「新任の先生が来なくなるからその話、言触らすな」と口留めされる。特に雨降りの夜更けになると青い炎が出ると言う。
 
腰抜けでも、埋葬された人骨なら、それに雨が当ってリンが燃えるぐらいの事は知っていたが、当然確かめに行く勇気はない、満州開拓団から帰ったMさんが雨降りの闇夜を選んで、行って遠くから暫く見ていると成る程
 
出た〜〜
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一度引き返したが、二度と寝付けない、もう一度挑戦して見ようと、木刀や刃物持って身支度して出かける。闇夜で辺りは道も畑も区別が付かない、近づくともう火の玉は出ない、帰ろうかと思い背を向けた途端青白い光が背後から落ちて消えた。意を決して落ちた其の上を見上げると次の集落へ行く3本の送電線が山の麓にあった。終戦後でまだ物資の無い時代、此電線も戦時型の物で夜中になると、皆、何処の家庭でも定額電灯ですので、少ない電灯でも付けっぱなし、其処へ細い粗悪な電線へ過剰電流が流れて、発熱して綿とタールで被覆した綿が焦げて、タールに火が付き青白い炎が燃え落ちていたのでした。
私が行って確かめたのでは無い(既に故人となられた、Mさんから聞いた話)
 
何も無かったかの様に無事開校式出来て一件落着。の昔話、私にはチョトした歴史になるか??
61年も昔話ですから。
 
処が此処にきて、新しい平成の幽霊が出た、其れも全国で沢山の幽霊が居る様だ(中日新聞より)
 
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 岐阜県ではコンナ幽霊1人も無いそうですが
都市部では、こんなに大勢の幽霊が居ると言う
 
私が自治会長を73歳で承って、遣った時にも既に個人情報の管理がされていて、災害の時の「高齢者弱者保護を民生委員と共同で遣ってくれ」
と言って置きながら、「高齢者名簿を出してくれ」と言うと「個人情報管理の為」其れは出来ないと言う。
 
幸い私の部落は新しい住民は殆ど居ないので、又昔から人のつながりはしっかりしているから、心配は無いが、
 
 
人の繋がりの薄くなった個人主義が災いだろうが
最も悪いのが「個人情報保護法」だろうと、思います。
 
まぼろしの幽霊でなく、ついに本物の幽霊が出てきてしまった。
 
早く幽霊をけしてください。 

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