ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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郡上市大和町牧に東氏の居城篠脇城跡が残っているが、町おこしを「古今伝授の里」といい、篠脇城からなずけて、篠脇顕彰会を立ち上げて、色々研修会を開いている。
その研修会で「高賀六社観音めぐり」を計画されて、私にお誘いがあるが、私は会員で無いから辞退したが、席が空いているので是非参加をと言う事で、今日参加する。
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星宮神社参道
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古くから奥美濃の瓢ヶ岳(ふくべヶたけ)や高賀山麓には原始山岳信仰があり、何処に居ても仰ぎ見る事が出来る形の良い山は、先祖の霊の篭もる聖なる場所であり、其処は又山の神の住む場所であり、恩恵と災害をもたらす神と考えられて来ました。
 
江戸時代には、「六社観音めぐり」と言い郡上市美並町粥川、(星宮神社)、那比、(新宮神社)、(本宮神社)、関市洞戸、(高賀神社)、美濃市乙狩、(龍神社)、美濃市片知、(金峯神社)を巡拝することが、多くの人によって行われた。
今日は篠脇顕彰会の人達について、其処を参拝して来た
途中から雨になるが、そんなものお構いなしで、六社みんな傘さして回るが、良く濡れる。
まず今日は星宮神社の写真を入れて見る。
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拝殿天井絵
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 宝筺印塔
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此処には虚空蔵菩薩を祭ってあるから、最初は寺であったという。
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天歴の始め(947年頃)西の山に妖鬼が住み、人々を悩ませ都の帝に申し上げると、藤原高光を妖鬼退治に使わされた。高光は大岳に登り是を退治して都へ帰った。
藤原高光の長子、「高森」が粥川と姓を改めて此処に住みその子孫が代々受け継ぎてきたと伝えられている。
この地域を(粥川)と言い、(粥川)の姓が沢山ある。
此処では、うなぎが神の使いだと言う事でうなぎを食べた人は無いという、今日この神社の説明に来た、鍵番の人もうなぎは意識して食べたことは無いといって居た。
 

郡上踊り 続き

 
郡上踊り
郡上踊りも400年前の頃からは、念仏踊と言われたように、大勢の人の輪の中へ吊るした
提灯に火を入れて、盆に帰って来ると言う、先祖の霊や、その他には、客神を呼び入れて、皆で
念仏を上げながら、その輪で地面を踏み鳴らしながら、ひと回りするような行事だったと言います。
 
暫くすると、越前吉崎へ蓮如上人が来て、越前一帯から、北陸一円に浄土真宗の勢力を広めて、ついに油坂を越えて郡上にも侵入してきた。
 
そのころ郡上は天台宗の長滝、長滝寺の勢力下に居ましたが、次々に浄土真宗に転宗していき、
ました。現在も、まだ所々に天台宗の墓や歴史が残っています。
 
ご存知の通り、浄土真宗は〈雑行、雑修〉(自らの力で仏に近ずく様な修行。他力本願でない)を禁じて居ますから、念仏踊りは廃れていきました。
 
そこで、郡上人は是を切り替えて、娯楽本位、みんなで心を合わせて、参加できるお祭り、という様に変わっていきましたが、また此処で、厄介のことが起きました。
 
郡上を治めていた、殿様たちは、民衆が心を一つにまとめると、また、郡上一揆のような悪たくみをして、お家が潰される事を心配して、「風俗を乱す」と理由を付けて規制を掛けてきます。
特に町方、子供の踊りは許されても、家中や武士は禁止されて、それでもこっそり変装して楽しんだともいわれます。
その後も明治時代へ来ると、「廃佛希釈」の嵐の中で、いわゆる明治天皇の「五ヶ条のご誓文」
にある「旧来の陋習を破り、天地の公道に」を楯に民族的習俗はそぐわない事になってしまう。
それでもあの手、この手、先人の知恵を、使い分けて、現在の一大観光産業に発展してきたと言われて居ます。
 
ちなみに、郡上川崎踊りの、おはやしは(ア〜ソンレイセー)
又神路河崎踊りの(アハート〜ナ〜〜ソーレイセイ)は《祖霊祭》が変化したもだと聞いている。
 
 
ついでに神路河崎踊りの歌詞を入れておきます。これはステージで見せる踊りですから、踊り手が横一列に並んで踊るユックリとしたテンポのもので、三部構成です。
 
(1)出
ゆくわいなー〜 しょろーしょろ〜〜とーー  アーソーレイセ
桁をねずみが〜−しょろ しょろと〜〜 アーソレシテーーヨ〜アハトーーナアソーレイセイ
 
むくりかけたでーせにゃなりませぬ  アーソーレイセ
雨の降りでのー〜屋根普請〜〜  アーソレシテーーヨ〜アハトーーナアソーレイセイ
 
(2)さいもん  (物語です)長いので一部だけ
これぞ今年の〜初心中  アーヤレサーテ
洗い清めてー奉る〜  アッコリャコリャコリャ 
              ジッサトカボチャハヒネタガヨイゾエヤーレサテ
 
(3)片拍子踊り  これも長いが適当なところで歌をおわる、舞台上手へ踊りながら帰る
これは此処でのヨウ〜ホラホイ 片拍子踊りヨ〜〜−ひとつ違えばーヤレ〜
みな違うヨ〜〜  コラサイー コラサイーー
 
 

郡上踊り

今月30日で今年も半年過ぎた。過ぎ去るものは早い、「光陰矢のごとし」である。
7月になると、郡上では例年の通り、真夏のイベントが盛り沢山。郡上踊りが始まる。
7月10日のおどり発祥祭(旧八幡庁舎記念館前)に始まり、9月4日の踊り納め
(新町〜今町)まで長期間のイベントである。
 
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踊りの種類は、川崎、春駒、三百、ヤッチク、古調川崎、ゲンゲンバラバラ、猫の子、さわぎ、
甚句、松阪、以上10曲ありますが、代表的なものは、良く知られた《川崎》です。
 
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郡上の何処を訪ねても(川崎)と言う地名の所はありません、何故「川崎踊り」なのか?
 
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郡上踊り「川崎」、は神路邑(郡上市大和町口神路)白山神社の伊勢神楽神事芸能の
河崎(川崎)踊りが源流だと言う事を郷土史家が言っています。
 
享保年間(1716〜1733)とも、宝暦年間(1751〜1762)とも言うが、口神路邑より、数人の方が伊勢参宮と共に伊勢神楽芸能を習いに行って、其の時に河崎踊りも一緒に持ち込んだと言われます。
下図に伊勢市の地図を入れておきますが、赤い枠で囲んだ地域が現在も河崎町の地名で残っています。
 
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昔この河崎町の中の古市という所に遊郭が沢山有って、客たちは遊女の踊る河崎音頭を見て遊び、そして遊郭ではそれぞれ自店の特色を出して、面白さと上品さで、競争していたので、少しずつ変わっていて同じ踊りは少ししか、なかったと言います。
 
伊勢神楽を習いながら、其処に住んでいた河崎音頭原作者の医師からか?また遊女からか?解らないが此踊りを習って、伊勢神楽と共に神路邑へ持ち込み、この地の芸能神事になったという。
 
八幡城主12代目金森頼錦(かなもりよりかね)の時に宝暦騒動が起きるのである。いわゆる郡上一揆である。金森頼錦改易となり、代わりに丹波宮津より青山幸道が郡上へ入部する。
 
それまでは郡上踊りも故人の供養が目的の宗教色の強い念仏踊りの形式であったが、此処からは本当の官民一体となって楽しむ娯楽本位の踊りになった。
それには神路邑の「河崎踊り」が最も上品で優雅な所があったので、一躍郡上踊りとしてヒットしたのだろう。以来少しずつ型を変えながら現在に至っている。
 
郡上踊り発祥は400年の歴史が有ると言うが、其の時代には宗教色の強い念仏踊りだったかも。

友人の歴史(履歴)

友人の叙勲祝賀会。
昨日6月26日に友人の《旭日雙光章受賞祝賀会》のお祝いに行って来た。是は永年に亘り地方自治の功労により授章される章で、宮中で天皇の拝謁を仰ぎ、県庁を経て授章してきたと言う事でした。
彼は若いときから、活動家で消防団当時は一緒にやっていましたが、その後教育委員から、教育委員長、議会議員を経て、議会議長、郡上郡町村議会議長会長と、24年間にわたり、その間には数々の要職もこなされてきました。ご本人夫妻の栄誉は言うに及ばず私達もともにお祝いとお喜びを申します。
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約100名の出席者と8名の来賓、

私の歴史

今日は何の日。
一生忘れられんない一日です。昨年の今日も同じ事を書いたので、それを貼り付けます。
気が向いたら読んで、見て下さい。       
かがみはら川崎航空機の空襲  6月22日午前9時より空襲
この日夕暮れ時には赤い炎が燃え盛る中を死体運びの所へ、何処かで電源を見つけて、スピーカを繋ぎ、泣き叫ぶ女達の声を掻き消すためか、二二六事件の軍歌をボリュウーム一杯あげて流していた。
 
♪汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ〜   巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ〜   混濁の世に我立てば〜
義憤に燃えて血潮湧く〜〜♪
 
歌は3番まで続くが、次は忘れました。
昭和11年2月26日から29日に掛けて陸軍青年将校達が、兵を率いて起こしたクーデターで、この歌は発禁になっていたものでしたが、何故か此空襲で持ち出して、士気を煽るためか叫んでいたのがまだ耳に残っている。
昭和11年は私が小学校1年生に上がる歳ですが。私の親父達は何か不穏な空気を話して居た様だが、何も解らなかった。
 
 
 

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