ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

今日は何の日

今日は掛かり付け病院へ内科診察に行く。「外科手術は完治した」と言われて居るが、私は相変わらず(糖尿病)の定期診察であるが、現行維持のままで、悪くは、成って居ないと言う診断で、以前と同じ薬を貰い帰る。
 
イメージ 1
 
相変わらず、大勢の知り合いに、出会う、殆んど高齢者が多いが、60歳以上の方も沢山居る
 
「ヤット目やな〜〜まめなかえ〜〜」なんて挨拶されるが、病院へ来ている者に、マメなか(郡上弁で達者ですか、の意味)の挨拶は無いでしょう。
 
診察待合の間に知り合いと雑談で、「今日は広島へ世界で始めて原始爆弾を落とされた日ですな〜」と話しかけるが、余り反応が無い。
良く考えて見れば、もう67年も昔話しです。皆忘れたのか、知らないのか、無理も無い事です。
 
私は当時各務原の川崎航空機に居て昭和20年6月22日と26日の2度の空襲に会い工場機能は、完全に破壊されて、私も危うく一命を落とす所でしたが、幸い生き延びていました。
下のURL開いて見て下さい、  以前のnekoの投稿です。
 
本社工場が空襲で破壊される前に或る田舎町へ疎開した機械工場で、一つ、年上の女子学徒動員で徴用された生徒に、何も知らない僅か数え年、16歳の坊が、ノギス、マイクロメーターの、測定工具の扱い方や原理を教えて居ましたが、プロの先輩達は殆んど徴兵されて、居なくなり、余り工作機械の事も知らない坊が、知らない生徒に教えるには、かなりの無理がありました。
 
毎日空襲警報の退避や、避難ばかりで殆ど仕事の用は成さなかったのですが、夜勤の時、空襲警報退避命令で裏山へ、女子学徒と一緒に避難して居たら、一人のお姉さんが、「今日広島へ、新型爆弾が落とされたそうよ、爆弾が、ピカッと光っただけで、広島市全部丸焼で、市民は皆死んでしまったそうだ、あなたこれからどうする」と言われたが、それが何であるか解らなかった。
 
こんな田舎の工場まで、攻撃を受けて、その様な恐ろしい爆弾を落とされては、もうすぐ私達の日本も玉砕だな〜と、思ったりしたが、捕虜にはなりたくないし、お姉さん達連れて郡上の山奥深く逃げ込んでも、食料無くなればどうしょうも無いし、うちへ帰れば家族も居る事だし、何にも言えずにお姉さんには、黙っていた。
 
其れが原子爆弾である事を知ったのは、終戦後の事でした。
 
67年も昔話しを、雑談で話しても、年下の知り合いは、マスコミ等で話は、聞いていて知っていても、其の話には、合い槌は打てないのも、無理は無い。
 
 

郡上八幡 毛付け市

今日、7月27日と28日は、郡上八幡町では、毛付けと言います。
郡上踊りも、最盛期に入り、今夜は殿町、安養寺上に有る、ホテル積翠園広場で、毛付け市踊りがあります。             郡上踊りの中に
「春駒」と言う踊りが有るが、その歌詞の中に、「毛付け市」を歌った物があります
 
『駒は〜売られて、いななき交わす、土用最中の〜〜ササ毛付け市』
 
此れは、郡上郷土史家の先生の話から聞くと、郡上の殿様、遠藤氏時代(1573〜1593)から、名馬の徴発として、馬市が開かれる様になったと言います。
 
現在の安養寺、門前の柳町辺りが馬市の開かれた市場の場所だそうです。この馬市で優等になれば、相当の高値で取り引きされた、と言います。
 
それが金森時代になると、無償で徴発される様になり、馬主達は、毛付け市が、近く成ると、一時他領へ預けて難を逃れていたが、それも出来無くなり、其の他、農民には、高い税金が課せられて、それに耐えられず、郡上一揆が始まったと言われます。
 
こうした江戸時代の、「毛付け市」は其れを売買する、商人は元より、近隣の老いも若ききも、其れを見物に来る人で、賑わい、露天商や見世物小屋まで出来て、一年の郡上八幡城下町の一大イベントとして、根付き昭和20年代後半頃まで、続いていたが、現在は毛付け市の郡上踊り日だけが、残って居るだけです。
 
昭和の始め頃より、馬市は、愛宕公園で、有ったが、馬主や商人以外は、城下の殿町筋へ出掛ける、露天商(郡上弁で「干し店」と呼んだ)の茶碗売り、反物売り、バナナの叩き売り、口上の面白い傷薬売り、輪投げ、子供のオモチャ売り、コップ酒売り、琵琶湯糖売り、イカサマ囲碁、や殿町筋に数え切れない程の色々の露天商売が、一杯に並んだ店を見て回るのを楽しんだ。
 
見世物小屋も立ち、その年に依り色々の出し物の、ロクロク首や、蛇女、地獄極楽の仕掛け人形カラクリ、等の見世物もあり、「さあ〜さあ〜イラシャーイ〜 イラシャイ 料金は見てのお帰り〜」の呼び込みに誘われてサーカス小屋より少し入場料が安かったので、貰った小使い銭で入る事ができた。
 
小学校2年生に成る位までは、父か母に連れられて、毛付けに行った覚えが有る。それ以後は小使い餞を貰い友達と行くか、一人で行った様な記憶が有る。
 
親父に付いて行くと、サーカス小屋の前で、黒山の人たかり、その中へ行き、暫らく立ち見をするが、丸太足場で組まれた、テント小屋の幕にサーカス名場面の、絵が描いてあり、其の幕をスルスルと上げて、時々中の場面の様子を見せて、客を呼び込んで居た。
 
中二階では、生バンド演奏で「天然の美(美しい天然)」を演奏している。其の時代はまだ電気式音声装置は無かったと思います、
 
親父に付いて中へ入ると、美女や美男の空中ブランコ、綱渡り、曲芸の数々、小さい子供も一緒になり、曲芸をしていたが、すぐに飽いてしまい、それより早く露天のオモチャ売り場へ行きたかった。
 
小さい時には、「言う事を聞かない、悪い子供はサーカスに連れて行ってもらう」と脅かされて、本当にサーカスは子供を連れて行くのかと、思い恐がかった。
 
場所は現在の職人町、長敬寺(ちょうきょうじ)跡地で、本堂が焼けて無く、街中の唯一の広場でした。
現在は立派な本堂が再建されて、当時の面影は有りません。写真は3年前の旦那寺総代でお参りした時の物です。
 
イメージ 1
 
本堂より、境内を見る。
 
イメージ 2
 
 
 
 
 

橋の名前

何処に架かる橋でも、殆んど其処の地域名、小字名、又は川や淵の名前、その他、江戸時代後期に私財を尽して橋を作った人の名前から、付けられた物が多い。
 
其の中の一つに、郡上八幡町相生の長良川に架かる、「法伝橋」と言う名前付いた橋がある。
 
以前から何か深い歴史が有るか?仏教から?付いた名前だろうか?と、勝手に想像して居たが、調べてみる事もせず、只通過の時だけ思い出していた。
 
イメージ 1
 
先月,美濃市へ行った帰り道、国道156号線を北上して、美並町まで来ると、長良川と山に挟まれて、トンネルや絶壁を切り開き開通した保危や、カーブの多い道になり、スピードは出せない。
 
私は高齢者の為、ごく控えめ運転をしているので、後続の車両が追い抜きが出来無く、渋滞をして迷惑を掛けている。多くの車両を後ろに連れて、やっと相生の法伝橋、たもとの、退避駐車場で後続車両に進路を譲れた。
 
イメージ 2
イメージ 3
 
この橋の架かる付近の長良川は、巨岩が多く、小峡谷の様である。車から降りて、調べてみると昭和62年にこの橋に架け替えられた様でした。
 
イメージ 4
 
私は勝手な想像で法伝橋の物語を作っていました。
 
「仏教から伝えられたもので、浄土真宗親鸞上人から8代目の、蓮如上人が、越前吉崎で布教始めて、その後、安養寺や、延徳寺、最勝寺を通じ、越前大野市から白鳥町油坂を越えて、白鳥町から高鷲町へと広がり、八幡町市島へ移った最勝寺から、南方面へ布教した時に法(浄土真宗)を伝えた所だ」等と勝手な思い込みをしていました。
 
全然違っていました、案内看板を見つけて、写真撮ったので、読んで下さい
         +をクリックすると拡大します。
 
イメージ 5
 
知らない者が説明する事は出来ませんが、勘違いしていた「法伝橋の由来」が少し解って来た事は、私の収穫でした。
 
勘違いした理由は、法伝橋から南下流には、浄土真宗以外の仏教宗派(禅宗)が多く残って居ることからでした。
 
 
イメージ 1
 
此の橋は「釜淵橋」と言います。現在はこの辺を「リバーサイドタウン」など、と言うハイカラな名前が付いて居て、大型スーパーや、ホームセンター、其の他色々の大型店が並び、大和町一番の、商業地になった。
 
昔(昭和17年頃)」私の小学校高学年頃は、木造の吊り橋で、馬車や荷車の通れる程度の、小さい木造橋で、其の下は釜淵と言って、河童が住むと言い、昼間でも一人で通るのが怖かった。夏休みの合宿で、夜の「肝試し」によく使われて、本当に嫌な思いをしました。
 
終戦後も橋は、まだ其の儘残り、大工の見習い頃に橋の修理に行ったが、吊り橋から、河の流れる下を見ると、高所恐怖と共に、自分が河の流れと共に、動いて居る様で、何かに掴まって居ないと不安で、仕事に成らなかったが、他の人のお助けお蔭で何とか終った。もう2度と行きたく無かった。
 
ココから北は何も無い、沼田や河川敷の区別が無い様な土地で、所所に簡単な堤防はあるが、火葬場が一軒有っただけでした.
昭和34年伊勢湾台風で、両岸の農地が流されて、河幅も大きく成り護岸工事をして、安全が確保されると、火葬場の隣へ、周囲の住民へ騒音を避けて、やって来たのが、大和森林組合の、製材所でした。    
現在この写真の、森林組合製材所は、閉鎖したので、民間の人が繋いでいます。
 
イメージ 2
 
昭和30年に弥富村、山田村、西川村が合併して、大和村になり、庁舎は国道沿いに作ってあったが、昭和60年に大和町になると、間もなくして、昭和63年頃には、森林組合の南へ新庁舎が出来て何も無かった不便な所に、少しずつ整備がされてきた。其の後次々と公共建物や、道路も整備されて、景観も変わって行った。
 
イメージ 3
イメージ 4
イメージ 9
庁舎駐車場の藤棚  満開です。
 
イメージ 5
 
元製紙工場の木材チップセンターが有った所が、閉鎖されて、大型スーパーや、ホームセンターがやって来ると、本屋の、三洋堂書店が出来、薬屋ができて、今は、ヤマダ電気が開店準備をしています。
 
イメージ 6
イメージ 7
 
河川敷も整備されて、一面の芝生が植えられて、盆の花火大会の見物席に成たり、皆さんの憩いの場所にも成っていて、半世紀の間に、スッカリ昔の面影は無くなりました、河童や、古狐、幽霊、の住み家が無くなりました。
 
イメージ 8
 
平成16年には、郡上7ヶ町村が、合併して郡上市になりました。
此のホームページは、大和町観光協会のホームページです、気が向いたら見てください
http://www.xwns.co.jp/yamato/    ここをクリック
5月に成ると、色々地域の行事がある。
「老人会」や「寺、檀家行事」の案内パンフレットを、総代や、老人クラブ会長から頼まれて、沢山印刷して居たらプリンターインキが、無くなった。
印刷途中でインキを買いに、八幡町五町のエーデンまで行く。
国道156号線を南下、途中で国道から外れて、山側裏道を通ると、「楊柳寺」の門前を通るが、門前に八重桜が満開に成っていた。
郡上では、桜の季節は過ぎた様だが、ヒガン桜と比べて又格別綺麗に咲いているので、写真に撮って見た。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
この楊柳寺の歴史は、平成21年秋に(ネコ)が書いて入れたブログが有ります、開いて見て下さい。
 
 
開いて見て下さいましたか、下の写真は「井田長者(いだちょうじゃ)」(豪族)の墓でしょうか、庫裏まで行って聞けば解るが、聞かないで帰りました。
誰か知って居る方教えて下さい。
 
イメージ 5
 

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事