ネコの道草

83歳のネコブログです。

歴史

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美濃電鉄

昨日(21日)は今年一番の暖かい日になる。  昨年秋から肺癌で入院中の友人が、盲腸と、脱腸の施術をした、と聞き、午前10時頃より見舞いに出かける。
 
関の中濃病院に居るのだが、早めの10時に家を出かけるが、入院病棟へ午前中に訪れるのも、
どうか?と思案しながら、途中の美濃市へ寄り少しの時間稼ぎをする。
 
美濃市は「うだつの上がる町」として、屋根にウダツガ上がっている町で有名に成っているが、私が前に投稿したのが有るので、URLだけ入れて、省きます。
 
 
と言う事で、車社会が普及していなかった頃に、良くお世話になった美濃電鉄の「美濃町駅」へ寄る
 
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私たちが知っているのは初めから、名鉄(名古屋電気鉄道)の経営だと思っていたが、その前身は、地元の財界有志が明治44年に「美濃電気鉄道」として、開業したものだと、説明があります。その後も大正12年に此の美濃駅が開設されて、地域の発展に貢献していたが、車社会の発展により、平成11年に新関より美濃駅間が、廃線となった、と言うことです。
駅の改札を通りホームへ行くと3台の電車がそのまま展示してあります。
 
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少し車内を見て回ります。車内は少し狭いが、客席は窓際へ一列に並んだものだが、良く横揺れがして居たがスピードが遅いので安全な乗り物で、岐阜市へ用事で出かけるには必ず此の電車を利用していました。(美濃大田で乗り換え、高山線廻りも有ったが、料金が少し高かった)
 
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次は、運転台です、此の運転手の上に鐘が付いていて後ろで車掌が発車の合図は、紐を引っ張ると其の鐘に槌が当たって、チンチンと鳴る様にしてあり、「チンチン電車」の名前が付いていた。
 
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電車の乗降口のステップは、走行中は上に畳み込み、引っ掛からない様になっていた。扉と連動していて、扉を閉めるとステップは上に仕舞い込みました。途中にホームの無い駅が有ったので、路面から乗り降りするには、必要なステップでした。
電車内には、乗車券売り場の切符入れ、電車運行表示板等の展示もして有ります。
 
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展示電車の横には、線路ポイント切り替えの物が立っているが、線路が無いのでどんな仕組みか?解らないので、今も現職で働いて居る「長良川鉄道白鳥駅構内踏み切り」、にあるポイント切り替えを入れて置きます。下の写真が白鳥駅構内踏み切りにあるものです。全部手動です。
 
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此処で岐阜市から来て降りると、越美南線(現長良川鉄道)に乗り換えして、郡上へ行くのだが、名鉄美濃町駅から越美南線美濃駅までは、一寸坂道で距離も有ったが、大勢がワイワイガヤガヤと言いながら駅まで行くが、未だ汽車の待合時間が有ると駅前の飯屋でコップ酒を貰って、次の汽車を待ちました、その店を遣っていた、家は有りましたが、店は既に畳んでいてソンナ活気は有りません。
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改札出るとトンネルを通り階段上がり、其処がホームですが、昔と変わっていません。随分此処はお世話になった駅ですが、50年程も来ていないが、駅の風景は元のままでした。
 
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駅前では美濃市への、歓迎看板が新しく建っていただけで、昔の面影をそのまま残していました。
 
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郡上は未だ周りは雪景色だが、40キロ程南の美濃市ですが、スッカリ此処は春で梅の花が咲いていた。
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午後1時に成るので、関の中濃病院へ急ぐ
 
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長良川鉄道

 
久しぶりで昨夜から雨降りになり、気温が少し上がる。今朝は晴れ来たので、何十年も寄り付いた事の無い長良川鉄道、山田駅付近を訪ねてみた。
 
此の鉄道は、元国鉄、越美南線と、言うが、昭和50年の後半頃から、利用客の減少で赤字がかさみ、廃止路線の対象になり、もう存続は不可能かと、思っていたが、昭和60年代に入ると第3セクター長良川鉄道として、営業が再開されました。
 
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私は昭和5年生まれですが、何時の頃から、物心のつき始めた頃に、祖父の背中に負んぶして、汽車を見に行きましたが、時々煙突の長い機関車が、無蓋貨物車にバラスを積んで来て所所で、止まって、降ろして居ました。
車掌や機関手の真似をして遊んで事、幻ながら少し覚えています。
 
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昭和9年には終着駅の北濃駅まで開通したと言いますから、昭和5年頃は此の「山田駅」迄は開通していたのでしょう。
 
岐阜県と福井県の越美北線を結ぶ計画で越美北線は福井県九頭竜湖駅まで建設が進んでいましたが、田中角栄元総理大臣の日本列島改造論の波に乗り、郡上町村議会でも、田中角栄邸までも陳情に押しかけたと言う話でした。例の角栄スタイルの下駄履きで、片手上げて「ヨシヤ、ヨシヤ」と言われて喜んで帰ったと、当時の議員から聞いた話です。それから後にロッキード事件でオジャンになりました。
 
上を跨いで居るのが、東海北陸高速道で、車社会の発達と、共に長良川鉄道も利用客の減少で、経営が苦しく、此の後どうなるか解らないが、細々ながら動いています。
 
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大東亜戦争最中は、出征兵士の見送りや、無言の兵士の帰還の出迎えに、又終戦後には、郡上木材の積み出し、木炭、薪、の出荷、ガス薪(木炭自動車の燃料)の積み出しと、日常生活物資、農業資材の移入も皆、鉄道に負んぶして居たので、引っ込み線もあり、上下線の行き違いも出来て、此処で働く駅長以下大勢の鉄道マンが活躍して居て、此の駅前は活気が有りました。
 
私も長良川鉄道出来てから、未だ利用した事が有りません。久しぶりで来て見ましたがみんな昔の夢物語です。
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帰りは長良川の川端を散策しながら、歩くと柳の芽、コロコロの枝を取っている人に会い、雑談して帰る。
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田んぼの端に蕗のとうが出ている。写真だけ撮る。午後は風が吹き始めて寒くなる。
 
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縁側と雨戸

旅行等で始めて訪れる土地では、一番先に眼に留まるのが、其の地域の建物の特徴ですが、最近は何処へ行っても同じ様なデザインの建物が並び、ローカルカラーが無くなりました。
 
私の住む郡上でも、昭和20年代頃までは、同じ郡上でも、南側の美並地方に建つ住宅と、北方面の高鷲地方に建つ住宅では構造的には、大きく違った建て方でした。雪の降る量や、台風の当たる道、等に縁り屋根の構造や、軒の出が替わっていて、外観は違って見えました。
ですから、初めて其の土地へ仕事に行くと木柄の大きさに、少し戸惑いました。
 
しかし、家の間取りは坪数の大小はある物の、何処へ行っても殆んど同じように「田の字型」の設計で、主人(施主)さんとの打ち合わせは(板図)だけですが、それで居て、お互いが家の構造まで、良く理解できました。
 
居間の17畳半、床の有る客間(郡上では、デーと言う)8畳間、 仏間6畳、玄関等、お決まりの間取りで、其れに南側には内法幅3尺(909mm)の縁側が部屋と、障子で仕切られて、冬の寒い日には暖かく、夏は風を良く通し年寄りが一日過ごすには、非常に優しい空間でした。
 
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此の草葺き屋根の家は材料の萱が無くなるのと、人手も足りなくなり、昭和30年頃から急速に改築されて、40年頃は大体姿を消していきました。其れでも家の間取りは殆んど変わらず、縁側は残っていて、夜に成ると雨戸を引いて、防犯には「心張り棒」で鍵をかけて、朝は何処の家でも同じ時間頃にガラガラと音を立てながら開けたのだが、隣の人が少しでも、朝遅いとお互い心配して声を掛け合いました。
 
すべてがオープンな田舎暮らしも、其の後昭和40年頃からはアルミサッシを縁側にも入れる様に成ると、雨戸は台風の時の用心に引く位で、無用の物になるが、それでも家の外観の体裁も考えて、戸袋や雨戸一筋鴨居等の位置は、体裁良い仕事をしたくて、戸袋等は少し手間の掛けた仕事もしました。
 
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その後も年が経つに連れて、体裁が良くて、価格も適当なアルミ戸袋が出来てくると、木造の戸袋を作る大工も少なくなり、今では殆んどコンナ戸袋作る事は無いでしょう。
 
それに平行して次第に縁側へ寄り合って雑談の場所も無くなってしまい、近年は、雨戸の開け閉めも殆んど無くなって忘れ去られました。
 
雨戸だけのオープン縁側時代は昼間一日中開け放しで、色々の人が立ち寄り隣近所の情報は皆筒抜けで、誰もプライバシーなどや個人情報と言うことは、気にも掛けずに、困ったときはお互いが助け合う土壌が出来ていました。
 
アルミサッシで仕切られた空間へは、他人の立ち寄りを拒み、若者は、車で朝晩の通勤に成ると、一ヶ月でも隣同士が顔を合わせなくなり、次第に疎遠に成っていくのです。
 
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縁側を通じて、近所同士のご縁が深まる社会が出来れば、良いのですが、色々の意味で考えさせる事の多いのだが、縁側文化もいずれは消えてなくなって仕舞うのかと思うと。複雑な感慨に打たれるのです。
 
幸い我が家ではまだ、私が縁側でパソコンをやって居るので、物珍しい事もあるのか、良く人が寄り付いて聴かなくても良い情報まで、落としていく。
 
ついでにもう一つ大きな家を入れて置きます。
郡上市からもう少し156号線を北へ行き、蛭ヶ野を越えた辺り迄行くと、飛騨市の牧戸になるが、此処に「荘川の里」と言う所にこんな大きな民家が展示して有ります。入れて置きます。
此処は縁側は、有るようだが、外から出入り出来ませんが、郡上にはこんな大きな民家はなかなか珍しいと思います。
 
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郡上八幡城

 
昨日は久しぶりで良く晴れて暖かいので、正月からコタツに入ったまま、の状態から抜け出して
少しばかりの運動に出る。
まだ雪が残る所もあるので、南へ行けば寒くないと思いながら、買い物がてら、八幡城へ行く。
 
麓の岸剣神社まで行くと、消防車や、救急車、大勢の消防団員が慌しく走り廻っている、何かあったのかと聞くと「文化財消防訓練」だと言う。(1月26日、朝刊の記事)
 
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消防隊は「登城ならどうぞ、気を付けて行って下さい」と言うので登り始めるが、一昨年以来登っていないので、体力も衰えたのか?かなりキツイ。路面には雪は無いが、息が切れる。
 
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長い時間をかけて、のぼりついた。雪の八幡町市街が一望。息が切れる、暫らくベンチで市街を眺めながら休憩。こんな物好き誰も居ない、唯消防隊員だけが訓練終わり、ホースを畳んでいる
 
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天気も良い、もう少し雪があると、面白い写真になるがな〜〜と疲れていながらも生意気な事思う。
 
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向こう側に見える山が東氏の居城、東殿山。城跡があります。
 
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前にも良く此のブログに投稿して居るが、また同じ記事かも知れないが、粗筋を。
 
郡上八幡東殿山城主、東氏12代目、東常慶には、一男三女があった。其の内女一人は是まで数々の戦功のあった、神路木越城の弟で、苅安城(現美並町)の遠藤盛数に嫁がせた。
 
一男である、十三代目を嗣ぐ、東常堯 は末っ子で甘やかされて育てられ、一寸不出来な育ちもあり、神路木越城の娘、お通に惚れていた処アッサリ振られて、畑佐城の六衛門へ嫁いでしまう。
 
この世のことは何でも思うように出来るものと、勘違いしている常尭は、木越城主を逆恨みして神路で長良川を渡る用意している所へ来て、その場所で木越城主を殺害してしまう。       さあ〜大変なことになった。
 
弔い合戦が始まる。自分の主君を討つのであるからえらいことである。  
東殿山は海抜五百二十メートル、激戦は十日も続いたが、難攻不落の城は容易に落ちなかった。
 
遠藤勢は城への水路を断つことに、成功した、水が無くてはもう生きられない  暫く様子をみていれば城も陥落するだろうと、   
 
すると不動の龍の真上へ馬をを引きだし、背中から白米を落とし、遠くから眺めれば水を流して馬の背中を洗っている様に見えた。
遠藤勢は城中にはまだ水は沢山有ると思い込み士気もゆるみだした。
 
そこへ安久田に住む老婆が進みよって来て、「あれは白米ですぞな。お城には水は無いはず、このババが道案内をしましょう」と言って、教えて貰い、藪に覆われた山道を行き背後から攻めて東殿山城へ攻め登った。
 
背後を突かれた城兵は慌てふためき、深い谷底へ落ちて死んでしまった。
今はそこを地獄谷と呼んでいる。(郡上市役所の裏)
 
常尭は辛うじて此処を脱出、明宝村の山伝いに飛騨の帰雲城へ逃げる。   常慶はもう是までと自害する       
そして遠藤は現在の八幡山に城を築き かくして郡上は遠藤の支配下に入るのである。
 
明治初年に成り廃藩置県となり、取り壊されたが、昭和8年大垣城をモデルに、此の模擬城が作られたのである。
 
暖かい一日で良い汗かいた。万歩計3400歩程でしたが高齢者にはきつかった。
2006年に登った「東殿山城跡」URL開いて見てください。
 
 
 

初詣(1)

今日(10日)は朝から良い天気になり、ヤット初詣に出かける。
昭和34年車の免許貰って以来、毎年の行事だが、犬山成田山 大聖寺(真言宗)へ交通安全のお参りです。
 
今日は途中各務ヶ原、苧ヶ瀬池の横を通るが、此処は昭和十九年、川崎航空機岐阜青年学校に学んで居た頃には、軍事教練で隊列を作り、軍歌を歌いながらの行進、又時には、早駆けでと、教官に良くしごかれた懐かしい場所でもある。
 
此処の神社は変わって居ないが、池の対岸は葦が茂り、陸と池の境がはっきりして居なかった様に思う。60数年経た今綺麗に整備はされているが、何故か最近水質が落ちたと言う事である
池の中程にある社は「八大龍王堂」が祭られて居るが、私が昔見た儘で此処に祭られていました。
 
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此の池には古くからの伝説や信仰があり、奈良時代に(770年頃)一晩で出来たと言う事が言われ池の水は枯れた事がないと言います。そして池には大蛇が住み竜宮城への入り口が或ると言い伝えられています。
 
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昭和十九年軍事教練で訪れた頃も、戦勝祈願参拝客相手の商店街はあったが、売る物が殆んど何も無い時代だが、たまたまジャガイモの半切れを串に刺して「おでん」と称して、「本日の販売は30個まで」2串ずつ一皿に盛ると15人分しか無いが、其れでも長い行列が出来ていた。
 
教練で自由の身で無い悲しさ腹の虫がグウグウ泣くが、此処は一番「武士は食はねど、高楊枝」とやせ我慢が何より辛かった。
 
今は美味い店に行列が出来る時代、皆行列を作る事が好きなのか。
 
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苧ヶ瀬池伝説、ネット検索して見ると、此処の伝説色々有るが、一部をコピーして見ます。
 
(天に昇りそこなった大蛇)
昔、苧ヶ瀬の池に二千年も生きた大蛇が住んでいた。海に千年、山に千年も住んでいたという池の主である。長く生きた大蛇は天に昇って龍になることができる。しかし天に昇る時、人に見られると神通力を失って龍になることができない。
村人は大蛇を畏れて池には近づかなかったが、甚平という村人は大蛇が天に昇るところを見たいと思っていた。ある晩、時が満ち大蛇は龍になるため天に向かおうとした。ところが大蛇が水面から離れようとした時、隠れていた甚平に見られてしまった。大蛇は神通力を失い池に落ちて死んでしまった。その後、甚平も苦しみながら死んでしまった。村人は甚平が死んだのは、大蛇の祟りだと噂し合った
 
(池の呑まれた惣八郎)
昔ある年の夏、村人たちの雨乞いにも関わらず全く雨が降らず日照りが続いていた。そこで、惣八郎という村人が、苧ヶ瀬池に棲む龍神に牛馬を奉げ雨乞いすると、大雨が降り始め池の水が溢れ、惣八郎は池に沈んでしまう。
それから数年して、村人が惣八郎の供養を取り行っていると、池から惣八郎が帰ってきた。驚いている村人に、惣八郎は池の底で病む大蛇と出会い、大蛇の病を治癒するため僧になることを約束したことを伝え、その約束の礼に授かった剣を見せた。その後、僧となった惣八郎は剣を祭り、蛇神を供養したので、苧ヶ瀬池はどんな日照りでも渇水することなく、村の田畑を潤し続けたという
 
成田山参拝ブログ長くなるので、又後ほど続く。

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