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新潮文庫 ISBN 4-10-115234-9(上) 4-10-115235-7(下) あたしのなかで「オヤジ系」という位置づけの小説たち。 だぁ〜いすきなのっ!司馬遼太郎の忍者の話。 伊賀の霧隠才蔵と、甲賀の猿飛佐助が活躍する話。そして、クールでかっくいー真田雪村。 己の技を生かして、のびのびと生きる霧隠才蔵。伊賀は、個人の力量で生きていくのだそうだ。あくまで技を売るのであって、忠義なんて興味ない。だから、ひとつの仕事が終われば、次はそのときの敵方に雇われることもあるのだそうだ。 甲賀は集団行動が得意。だから、猿飛佐助には霧隠才蔵の価値観がよくわからない。でも、お互いの技を認めていて、協力して秀吉を狙う。 そして、真田雪村。 関ケ原ノ役に西軍に味方した罪で、紀州九度山に流されているときに言う言葉がある。 雪村は、男はたれでも、自分の才能を世に問うてみたい本能を持っている、といった。男が世に生まれて生きる目的は、衣食をかせぐためではなく、その欲を満たしたいがためだ、ともいった。
「むろん、煎じつめれば、それも屁のようなものさ。しかし、その屁のようなものも当人にとってみれば、たいそうなことだ。ひらずに死ぬのかと思うと気が狂いそうになる」 まぁ、わたしは、「男が」とか「女が」とか言う発言は、あまり好きじゃないけどね。でも、それを超えてかっこいいなぁと思える発言なのだ。 自分の人生に、「これ」と思える、一本筋の通ったことをしでかしてやろうと思う人は、多いだろう。仕事だったり、こだわりの趣味だったり、なんでもいいけど。それは、男でも女でもあることだと思う。でも、それに対して、ぎらぎらした執念をみせるのではなく、こういう風に軽やかに言えるというのは、かっこいい。 そんな雪村が気に入って、霧隠才蔵は雪村のために働くことになる。狙うのは秀吉。 しかし、そもそも才蔵がこの怒涛のような戦乱のなかに巻き込まれていったきっかけは、雪村との出会いではなく、もう少しさかのぼる。 八瀬ノ里に行った才蔵が何者かに狙われた。それは、人違いで狙われたのだった。しかし、沐浴のときに見かけた女が気になり、その女を調べるうちに・・・。 というわけで、この小説には、女性が活躍する場面も多い。その女達もまた、のびのびと生きている様子が、読んでいてわくわくして、気持ちよい。 才蔵がもてるの、わかるな。とにかく魅力的なんだもの。
わたしも、隠岐殿になって、あんな活躍をしたり、才蔵に惚れたりしてみたいもの。 |
Kinokoは読書ずき♪
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読書は好きですが、今の状況だと新刊はまずめったに出てきません。もともと気に入ると何回読んでも平気だし。
というわけで、わたしの本棚の本(ほとんど小説)を1冊ずつ読み返しながら紹介することになるでしょう。
というわけで、わたしの本棚の本(ほとんど小説)を1冊ずつ読み返しながら紹介することになるでしょう。
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読んだのに、記事にしていない本がたまっちゃってたよ。 3冊まとめてアップしちゃお。 切れるはずの無いナイロン・ザイルが切れた。事故で墜死した小阪乙彦の死の疑惑をはらすため、同行していた魚津恭太は、ザイルが切れた原因を探ろうとする。プロの登山家として、世間の事故の解釈が思わぬ方向に向いていくのが納得いかなかったのだ。 ・・・。 2人をめぐる人々を含めて、心の動きが丁寧に書かれていて、一気に読んでしまう。特に、主人公の魚津の、厳しいまでにまっすぐな生き方に惹かれる。そして、意外な結末。兄を失った小阪の妹が痛々しくて、切ない。 ♪娘さん よく聞けよ 山男にゃ 惚れるなよ♪ この本を読んでいると、どこからともなく、この陽気なメロディの歌が、切なく響いてくる。 井上靖って、わたしの中ではロマンティックな作家というイメージがある。『敦煌』を読んでそう思ったんだ。「んなことあるかい?」とつっこみたくなるでしょ?でも、「そんなことがあってもいいかも」とも思える。心理描写が、説得力を持つのかな? 裕福な商家の娘として大切に育てられた茜。少女の頃、目を患い、その病をなぐさめるために父がつれて行った文楽で、露沢清太郎の引く三味線の一の糸の音色に魅せられた。芸人と添い遂げるなど、身分があわない。しかし、不思議な運命に流され、生涯のただひとりの男として、清太郎との人生が波乱万丈に続いていく。 ・・・。 作家は違うけど、私の中で、前回書いた『一絃の琴』と同じようなカテゴリーに入っている小説。「一本筋の通った芸事の話」ってやつ。これの場合は、主人公が芸事に打ち込むんじゃなくて、芸を極めていく夫を支える話だけど。 こんなお嬢さん育ちだのに、よくこんな人生を生き抜いていけるなぁと感心する。それとも、お嬢さんで世間知らずだったからこそ、こんな人生に飛び込んで行けたのだろうか? いずれにしても、私はこんな根性と緊張感いっぱいの人生は過ごしていないなぁと反省してしまう一冊。 性に興味を持ち始める世代の子供達を対象に、わかりやすい文章と漫画で、性に関するいろいろを説明している本。体の仕組み、避妊について、男の子の考え方・女の子の感じ方、他もろもろのことについて。 先日、子供の性教育の話をしていて話題になって、借りてきた本。ガールズ編もあるらしいが、身の回りになさそうなのが残念。 さすがに、この年になった私にとって、新しい知識というのはなかった。ただ、こんなふうに、淡々と事実をわかりやすく説明している本は、いいなぁと思った。 性教育というのは、ややもすると、ねじれた感情に流れやすい。興味本位で子供達が得る知識は、客観的なものばかりとはいえない。ましてや、ネットが発達した今時だもの、奇抜なものにあっという間にアクセスできる。私達の時代だと、男の子達が必死にエロ本を手に入れようとしても、まぁ、中学生なんかが手に入れられるものなんてたかが知れていた。そういう時代だけに、正しく体のことを知ること、相手を思いやること、なんかを説いているところに、妙にほっとした。 でもさ。若い頃の、こういう甘酸っぱいどきどきって、なつかしいなぁ〜。
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講談社文庫 ISBN 4-06-131778-4 5歳で、旅絵師の弾く一絃琴を聴いて魅入られた、土佐の上士の娘苗。 その後本格的に一絃琴の稽古を始め、師匠との出会いに恵まれ、才を伸ばしていく。師匠の死と結婚によってしばらく中断していた琴を再開し、周りからの勧めに押されて教室を開く。愛弟子との出会い。後継者をめぐる様々な出来事。人生の中心に常に琴があった、苗の一生を描いた直木賞受賞作品。 琴を極める己への厳しさ。 一絃琴は、誰かに聴かせるものではなく、己の心と向かい合うものなのだそうだ。 上士の娘として、お稽古はあくまでも花嫁修業の一環ととらえる家族。嫁いでは夫に従うもの、という教育。自己主張なんて、思いもよらないもののようでいて、やはり苗にとって琴は、いいかげんな気持ちで向き合えるものではなかった。その真剣さに、ぐいぐい引き込まれる。 私は、一筋の「道」を追求する小説が好きなようだ。この小説もそのひとつ。
今、私は「刺繍の道」をちゃんと追求しているだろうか?突然学校をさぼってドライブに行くくらいだから、はずかしくてそんなことは言えないな・・・。 |
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訳者:大久保康雄 新潮文庫 ISBN 4-10-210005-9 1920年代のパリ。ジェイコブ・バーンズ(ジェイク)は、アメリカの新聞社のパリ特派員として働いていた。第一次世界大戦に行ったジェイクは負傷し、性的不能になった。そのとき病院で看護婦をしていたブレットと出会った。ふたりは深く理解しあい、愛し合っているが、伴侶としては選ばない。 ジェイクのテニス友達で小説家でブレットに思いをよせているロバート・コーン、ブレットと結婚する予定のマイク、ほか友人たちと共に享楽的な生活を送っている。 ジェイクは、友人のビルと一緒に、スペインのパンプローナに釣りに行き、それからお祭り(闘牛)をみる予定にしていた。そこに、ロバート・コーン、マイクとブレットも同行することになった。 その祭りの興奮が高まる中、この男女の関係も、若い闘牛士ペドロ・ロメロを巻き込んで高まっていく。 祭りの前に、ジェイクたちがスペインまで移動していき、釣りをする。バスや車での移動は、地元の人たちが生き生きと書かれていて、牧歌的だ。本当は暑い中ワインを飲みながら車にゆられて、けっこうタフな移動なのに、のどかに感じる。 その後、ジェイクとビルが釣りをするシーンも、祭りの前の「静」の部分として、際立つように思う。実際は丘を越えて延々と釣り場まで歩き、かなりの運動量だと思うが、コーンがいないこともあって、落ち着いて楽しめる部分だ。この静の部分があるからこそ、その後の祭りの興奮が対照的に浮き上がって見える。 登場人物が、とても人間くさく、純粋で、それがこの小説の好きなところだ。 ジェイクは人格者だと思う。人生を楽しんでいないわけではない。ただ、影があるだけ。ブレットも、単純に表現すれば淫蕩なのだろう。でも、彼女は、自分に素直にまっすぐだ。そこに計算も、下心もない。純粋に欲しいものを手に入れる、それだけだ。お互い、本当に求めているのは相手だとわかっているのに、パートナーになったらうまくいかない、というところに、この2人の不幸があるのだ。 一方コーンは、とにかく、ウザイ。徹底的にうっとおしい存在として、そこにいる。自分に自信がないし、人の評価が気になるし、報われないのに醜態を演じてますますうとまれる。 闘牛士のペドロ・ロメロは、若い未来ある素晴しい闘牛士だ。あの、闘牛士の、立っているだけでセクシーな、心身共によけいなものをそぎ落としたような凛とした感じがする。まだ若いのだが、絶大な人気を誇る。このロメロの紳士ぶりもクールだ。 この小説を読むと、ほとんどの人の第一印象は「よく飲むなぁ」だと思う。よく、体をこわさないものだ、と感心する。それほど、飲むのだ。パリでも、スペインでも。まるで、正気でいるとなにかが壊れそうで、いつも酔っぱらっていたいのじゃないかという感じがする。そのあたりに、切なさが漂う。 「ロスト・ジェネレーション」という言葉に、なんとなくロマンチックに惹かれた時代があった人は多いのではないだろうか?私の場合は、多分学生の頃。 英語の授業でフィッツジェラルドの短編を読み、映画「グレート・ギャッツビー」を参考として観た。正直第一印象としては、この刹那的な享楽にふける生活がぴんと来ず、この人たちどうしちゃったの?と思った。それが、第一次大戦後の過去の社会の崩壊と、未来の模索と、そのはざまの目の前の享楽という図式をイメージしたとき、何故か痛みを伴う美しさと見えてきた。 ロバート・キャパの写真と生き方が、とても生々しく、かっこいい。生きていくっていうことには、常に痛みが伴うものなのだろうか?なんて考えたりして。 そして、やっぱりヘミングウェイ。 私が読んだことがあるのは、「武器よさらば」「老人と海」「誰がために鐘は鳴る」とこの「日はまた昇る」。そして、一番すきなのが、この「日はまた昇る」だ。他のどれよりも、前向きな読後感がある。「武器よさらば」なんて、もう、立ち上がれないほど落ち込むもの。「日は・・・」も、途中心がずきずきしたりするけど、なんとなく、これからも生きていけるという感じが残るのだ。 最後のマドリードでのブレットとジェイクの会話。 これ以上幸せにはなれないのだろう。でも、これ以上不幸にもならないかもしれない。そんな感じがして、なんか、いい。 「ねえ、ジェイク」ブレットは言った。「あたしとあなたとだったら、とても楽しくやっていけるはずなのに」
「そうだな」ぼくは言った。「そう考えるだけでも楽しいじゃないか」 |
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編者:谷川俊太郎 新潮文庫 ISBN 4-10-126621-2 詩人谷川俊太郎の父母が結婚前にかわした書簡集。 ふたりが知り合ってから結婚するまでの約2年間にかわした手紙は537通もあったそうだ。俊太郎は母からその手紙の存在は聞いていたが、両親の死後、ダンボールいっぱいにはいっているのをみつけたときに初めて読んだ。そのうちの、約4分の1がこの本に収められている。 往復書簡なのに、「母の恋文」と題した理由は、俊太郎があとがきに書いている。 正確にはこれは『父母の恋文』と題すべきものだろうが、私はあえて『母の恋文』という題名を選んだ。父は仕事一本槍の人間でその書き物も多少は人に知られているが、母は父のかげに隠れて一生を終えた人である。だが父に対する母の愛情は、父の母に対するそれよりもはるかに苦しみ多く、深いものだったのではないかと思う。巻末に置いた「三十年後の手紙」にそれはもっともよく現れている。父の一生はその著書や公的な活動を通してある程度たどることが出来るが、母の一生はこれらの手紙を通してしか人には窺えぬだろう。 (あとがきより)
映画や音楽の話、書物の話、手紙にときどきはいるドイツ語やフランス語や英語の単語。恋愛に関しては底抜けにロマンチストなのに、理屈っぽかったりする。要するにふたりは、インテリである。当時のインテリな若者が、こんなことを考えていたんだなぁ、というおもしろさがある。 旧仮名遣いの言葉の美しさにも惹きつけられる。 今日も一日夢を見てゐました。之からお床に入って、ほんとの夢をみませう。あなたの夢を。
私は実際をいふと、いま、勉強以外のすべての時間をあなたと共に過ごしたいのです。すくなくともあひたいと思ふ時にあなたのところへ行きたいのです。しかしたとへば前の日あなたのところへ行ってゐるか、それでなくともあまりに度重なると思ふと気がひけていけないでせう。さういふ場合でも自分を抑へてまた勉強することの出来る日もあります。しかしどうしても出来ない日があります。手紙をかくにもそんな時は感情が先に立って、同じことしか書けません。でそんな場合はお天気がよければ散歩をしますが、さうでないと家にぢっとしてゐられないで、街へ出て了ふのです。
写真を見ると、美男美女のカップルである。お似合いだな、という印象を持つ人が多いだろう。 しかし、徹三のその後の人生は、必ずしも多喜子に誠実なばかりでもなかったようである。あれほどロマンチックに愛し合って結婚しても、日々の生活が淡々と続いていく中にロマンなんてないだろうに・・・。うらやましいほどの若さと夢を読みながら、少し心配していた。 ところが、「三十年後の手紙」が素敵なのだ。この手紙を味わうために、長々と若い頃の手紙を読んでいたと言っても過言ではないほどだ。長い時間をともに過ごし、いろんなことを乗り越えてきたからこそかわせる言葉。三十年経ってもなおある、お互いの新たな発見と新たな幸せ。 さらに、あとがきに載っている2人の晩年の写真が素敵なのだ。若い頃、美男美女だったふたりだが、もっとずっと美しい。実に温和でなごやかによりそっている。 本当の夫婦になっていくって、こういうことなのだろうな、と思う。 ところで、「手紙」についてふと考えた。 私にとって、手紙はちょっと改まった印象だ。すぐに伝えたり相談したかったら、まず電話。でも、最近はメールのことが多い。相手が受け取りたいときに受け取ってくれるメールは便利であると共に、気軽な手段でもある。感覚としては、手紙よりも会話に近い。手紙を書くときほどの気合もはいらず、非常に手軽な手段とみなしている。 ところが、この大正時代の恋人達は、メールのように手紙を出しているのだ。 そこが、ちょっとカルチャーショックだった。 結局、時代や手段がかわっても、大切な人への想いを言葉にするという行為自体はかわらないのかもしれない。
そう思いついたら、なんとなく、この2人が身近に感じられてきた。 |



