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今度はなんだ!!

こんなこともある。


昨年12月20日。
朝5時ごろ、右わき腹がイタイイタイ・・・。
朝7時20分、痛みでしかたなく仕事を中止。
病院へいくと思ったとおり、尿管結石。

12月21日。
11月に自動車2台の車検があり20数万の請求書がきていた。
尿管結石のわき腹とサイフがイタイイタイ。

結石は痛み止め(座薬)で抑える。
薬が切れると痛み始める。痛み止めをしながら仕事をする。

新年1月1日、
10日続いた痛みも治まり、なんとか復活。

1月5日。
お風呂のお湯張りができない。
続けて水道のモーターが止まらない。

1月8日ごろ、修理を頼んで数万円。
これもイタイ出費だったが、お風呂が治り、モーターは止まるようになった。

・・・が、出費が止まらない。。

1月半ば。
今度は冷蔵庫が故障。冷えない。
たぶん、冷気の吹き出し口が氷で詰まっているのではということで、カミさんが修理。(電源を切って氷がとけるのを待っただけだけど)
これで冷蔵庫復活。

・・・かと思いきや、調子がイマイチ。
変な音もする。
カミさんの「もう10年以上も使っているから買い換えたいんだけど」
ということで、買い替えになり13万の出費。
イタイイタイ出費だったが、これで冷蔵庫復活。
冷蔵庫は冷えるようになったが、私のふところも同じく冷える。

2月始め。
自動車のスライドドアの取っ手が壊れた。
しばらくはほおっておいたが、前輪がパンクし、タイヤのミゾも減っていたのでドアを修理してタイヤ4本交換、これで3万ちょっとの出費。

またまた出費がイタ〜〜イ・・・が自動車は復活。
自動車の走りはよくなったが、私は出費の多さでよろめきそう。

3月始め。
イヌのポチとネコのシャンの具合がおかしい。
私の肩の具合もおかしい。
カミさんが風邪をひく。

3月半ば。
ポチが亡くなる。
捨てられて我が家に来て10数年たっていた。老衰といえば、そうなんだけど・・・。
1週間後、ネコのシャンが亡くなる。病気だった。
心がイタイ。

同じく、3月半ば。
私の肩と背中の痛みがすごくなり、それでもムリをして動いていたせいか、50肩とテニス肘になってしまった。
今度は肩と背中と肘に、イタイイタイが復活。

整形外科で8日ごとに痛み止めの注射を肩と背中に打ってもらい、少しおちつくが肘の激痛は治まらない。なるべく手を使わない仕事だけをするが、出来る仕事は半分になった。

4月1日。
息子がギックリ腰で動けなくなり、娘が迎えに行き、そのまま整形外科へ運ぶ。
息子は4,5日休んで仕事に復活。

私はというと、肘の痛みがピーク。
じっとしていても動いていてもイタイイタイ。
痛み止めの薬もほとんど効いている感じがしない。

4月半ば。
カミさんの母親の具合が悪くなり、入院。
このころ、親戚や友人からお払いとか墓参りとか、何かしたほうがいいんじゃないか、と言われたが、拒否。
あいかわらず、左肘の痛みが強く、自動車のハンドルを持っていられない。
右手だけで運転をする。


4月20日。
4,5時間に1回くらい痛み止めを飲めば、我慢できるくらいになってきた。

4月28日。
自動車免許の書き換えが近い。
目が心配なので、メガネを作ることにした。
3万数千円の出費。
まだ、肘もイタイし、出費もイタイ。

4月30日。
1日、2回の薬で肘の痛みが耐えられるようになった。

5月2日。
痛み止め1回ですんだ。
もう少しで復活。

5月4日。
痛み止めを飲まなくても大丈夫になった。

5月5日。
頼んでおいたメガネをうけとる。
視力復活。
肘の痛みもほぼ無くなった。
体力復活・・・のような?。

5月7日。
5日ごろから右肋骨(ろっこつ)の下が少ずつ痛み始めている。



   まったくもう!
  今度はなんだ!!



たま〜に以下のようなメールが来るので紹介しておきます。
「ネコミのメールアドレス」には私(ネコミ)のメールアドレスが入っています。


重度違反user「ネコミのメールアドレス」


ibLZh9C

追跡記録電子郵便
2850602

当職らは貴殿の登録情報のある情報サイトにおいて利用料金の未納が続いた為、提携信用情報機関により回収の任を承りました。

「ネコミのメールアドレス」への通知理由》
当事件および本状は、貴殿がWEBコンテンツ(アプリ等含む)に「ネコミのメールアドレス」で登録状態にあった際に、会員規約にて利用の意思が無くなった場合に自身の登録アドレスを添えて退会番組申請を行わなければ延滞金が発生する内容が記載されていたにも関わらず、貴殿がメールアドレスを提示せず放置した事により発生した延滞金の督促請求と致します。

▼未払い記録情報
請求金額【62*,600円】
(滞納管理費等の支払いを求めることができるサービス管理元が現在請求権を持っております。
※民事訴訟法110条)

上記、お支払いが困難な場合、下記を閲覧後、救済措置による合意契約解除の手続き行って下さい。
運営元より代理人として弁護士が立てられ、債権を確認させて頂き本通知の通り再請求させて頂きます。
万が一、期限までに[和解手続き]の確認が出来ない場合、甚だ遺憾ではありますが、 法的手続の強制執行を含めて対応させて頂きますので予めご承知おきください。

■合意契約解除(和解手続き)申請方法■
継続利用の意志がない場合、合意契約解除申請を行うことで、上記記載支払いを免除とすることが可能となります。

合意解除の手続き申請は、このメールに[和解合意手続き]と記載し、直接返信して下さい。
※本人確認の為必ず受信されたアドレスから返信を行って下さい。

以上の解約手続きの履行により、貴殿とサービス提供元との間に何らの債権債務のないものとする。
また、再度の請求等および個人情報の公開措置等は行わないものとする。

但し、指定期限内に契約解除を行わない場合は、債務者である貴殿に対しこのまま民事訴訟へと移行させて頂きます。
また、滞納者として信用情報機関へ登録し、債権債務が解消されるまでの期間、電気-ガス-水道を停止させて頂きます。
給与所得者の場合や、銀行口座に個人資産がある場合、給料差押え等の法的措置を先に行います。
逃亡の恐れがある場合は、親類縁者、実家、勤務先等関係先への連絡、および書面通達を積極的に行います。

草々

ibLZh9C



以下、ネコミ
この文面には訴えられている私の名前も住所も書いてない。
つまり、メールの送り主は私の名前も住所も分からないということになる。

貴殿がWEBコンテンツ(アプリ等含む)に「ネコミのメールアドレス」で登録状態にあった際に・・・

なんというWEBコンテンツか書いてない。
ちなみに私はブログを書く場所以外にメールアドレスを登録したのはワープロソフトの会社しかない。

その他にも、「お金をあげます」とか「訴えられています」とか、様々あります。
けっして返信したり、相手に問い合わせの電話をしたりしないように、
みなさんもご注意下さい。

 私は1937年(昭和12年、12月)南京で日本軍がおこなったのは虐殺や略奪、強姦ではなく南京市民の救出だったと思っている。(ただ、山田支隊の捕虜の殺害は5000人前後あったとは思う)

 日本人なのに旧日本軍が極悪人のあつまりのように思っている人達がいる。その人達には、その後に起きた黄河決壊事件で日本軍がなにをしたか中国軍が何をしてどんな発表をしたかを知って欲しいものです。行動だけみれば現在の自衛隊が過去にも存在していたように感じませんか?

1937年12月13日、南京陥落。
1938年6月9日、日本軍阻止の為、国民党軍によって黄河の堤防が決壊される。
水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある[

Wikiから抜粋。
 背景
国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た[4]

 堤防の破壊準備
 堤防破壊の準備作業は5月下旬から確認されており国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた

 洪水
 氾濫は河南省安徽省江蘇省にまたがる54,000平方km(ちなみに関東地方の面積は32,420 km²)の領域に及んだ。
水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われる[9][10]が被害の程度については諸説ある[

 日本軍の対応
 6月12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた[15]。この惨状の中で日本軍には犠牲者・被害共にほとんどなかった。
イメージ
被災地における日本軍の救助作業


イメージ
                日本軍に救助された避難民


 国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えた[5]ほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した(日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた中国軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった)[18]
 日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった。

中国側の虚偽発表
 中国国民党は当初から「黄河決壊事件は日本軍が引き起こしたものである」との発表を行っていた。6月11日午前、中国国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。6月13日には全土の各メディアが「日本軍の暴挙」として喧伝した[19]
各国メディアはこの発表に対しては慎重な姿勢を示した[20][21]。また、日本側も中国側の発表を否定するコメントを出した

 中国側からは、最初は黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している中国軍を日本軍が砲撃及び爆撃した時になされたものであるとの説明がなされ[22]、後には事件は日本軍によって意図して行われたことであり、中牟と鄭州地区にある中国軍陣地への水攻めとし、かつ後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略であり、広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に中国民衆を威嚇する日本軍の作戦の一部とされた[24][21]
 
 さらに報告では日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は洪水の被害を受けた地区からの避難民を機関銃で銃撃していること[24]が説明された。

 日本側は「開封の堤防破壊は中国軍に強制された農民によるもの」との声明を出し[22]、日本軍は自軍の前進を妨げる洪水を引き起こすことはなく、また堤防の大きさを考慮すれば爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だったと主張した[24]

ネコミ
>水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われる。氾濫は河南省安徽省江蘇省にまたがる54,000平方km(ちなみに日本の関東地方の面積は32,420 km²)

 南京大虐殺を問題にする人達はなぜ、黄河決壊の犯人を問題にしないのか?

 中国人を助ける日本軍、中国人を平気で殺す国民党軍。
 これが戦後、中国人やチベット、ウイグル人を平気で殺す中国共産党軍となるが、なぜ、旧日本軍を批判する人達は現在の中国共産党の批判はしないのか?

 黄河を決壊させた国民党軍はこの後。揚子江まで決壊させた。
 水の流れは大きく変わり、中国人民を苦しめることになった。
 こんどは黄河決壊から5年後、(1942年から1943年)。


他のブログから以下転載。
Wikipediaにはこう書かれている。
「劉震雲によれば1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、干ばつ、イナゴの発生、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した。…この状態が続けば河南省は全滅していたが、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り多くの軍糧を放出して多くの人々の命を救った。」

 そして、河南省の人々が中国軍に叛旗を翻し、日本軍に協力する者も少なくなかったという。
河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れない程だった
 
 1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行しはじめた。これは農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取りあげはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した。推定では、河南の戦闘において数週間の内に、約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果30万の中国軍は全滅した。」

 なぜ、このことが教科書に載らないかというと戦勝国に都合が悪いからだってさ。

 では、音楽でもどうぞ。
 アランフェス協奏曲 Concierto de Aranjuez - Kaori Muraji 村治佳織  

転載元転載元: あしたのネコミ

203高地の精神

前の記事の続きになります。

入社して、ほぼ毎日、月曜日から土曜日まで、朝8時から夜の12時ころまで仕事をするというのが続いて10ヶ月が過ぎたころ、この会社の創設者で現在はグループ7社の会長という立場の人が励ましに来るという話があった。

会長という人は70代だっただろうか(記憶があいまい)

会長の話というのは2時間に及んだ。
この話はカセットテープに録音され、その後、同じ話を2回聞かされた。
内容はこんな感じ。
・ この会社の設立まで
・ 他社との戦いに勝つには
・ 今は辛(つら)いが203高地の精神で頑張ってほしい。

特に、「203高地の精神で・・・」に時間が割かれた。
当時、学校で、日露戦争についてはよく教えてもらった記憶がない。当然、20代、30代の若い班長や班長補佐は203高地の話がピンと来ていないようだった。
2才年上の班長補佐のDさんは
「ネコミ、203高地って知ってる?」と聞いてきた。
私は映画の「日本海海戦」や「明治天皇と日露戦争」を見ていたので。少しは知識があった。

私が会長の、この話を聞いたのは1977年ごろ。
日露戦争開戦は1904年、2月。
70代の会長さんにとって日露戦争の203高地の激戦は子供のころによく聞いた話だったのかもしれない。

会社のほとんどの従業員は会長の話に感動した。
強敵ロシア軍は他社、弱小日本軍は自社。
203高地の精神で頑張れば必ず勝てる!!

そして、「みんなで頑張ろう!」となった。

さて、数日後、直径10センチメートルくらいのバッチが従業員全員に配られた。
バッチには「203高地」の文字とそれらしい絵が書いてあった。
会長の「203高地の精神」を常にみんなが持つようにという会社の方針だった。

しかし、このバッチは私たち作業員にはかなりジャマだった。
そうでなくても名札と品質管理(だったかな?)のバッチを胸につけているのに、さらに直径10センチもある円形のバッチはジャマ以外になんの役にも立たなかった。

数ヶ月後。
仕事が落ち着き、少しは定時で帰れる日がやってくることになるのだが・・・。

それにしても、みんな(日露戦争)203高地で、どれだけの人達が死んでいったか知っていたのだろうか?もちろん会長は命を懸けて働けと言ったわけではない。「そういう精神を持って」、と言ったのだ。

すごくおおざっぱに調べると。
日露戦争でのロシア軍は約50万人。戦死約3万人。
対する日本軍は約30万人。戦死約8万人。

1977年ごろの私たち日本人はまだ、戦士の気持ちで仕事をしていたのかもしれない。辛(つら)い時には「戦場の兵隊さんより、自分ははるかにマシだ」と自分に言い聞かせたこともあった。

みんなが命をかけて国を守ろうとした時代があった。
みんなで命をかけて(?)会社を守ろうとした時もあった。
あのころはあれで良かったように思う。

時代は変わった。
従業員が会社の為に、なんてのは今、どれだけあるのやら。
でも、時々は思い出そう。
203高地の話を・・・。

会長の話から2,3年後に公開された映画「203高地」

(ラスト3秒くらいではじまるので最初から見て下さい)

ラストで、家族から心配されながら出てきたロシア兵の若者と、恋人を置いて出てきた若い日本兵が戦う場面がある。なんともやるせない。

戦争が終わって、豆腐屋さんが突撃ラッパではなく豆腐のラッパを吹く場面はホッとする。

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