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ジャイアントロボ


現在、60歳前後のおじさんおばさんたちは覚えているんじゃないだろうか?
TV版ジャイアントロボ。
昭和42年10月から43年4月までの半年、全26話。

最近、スポーツ界や政治の世界、事件でも、これでいいのか!!と思えることが多すぎる。
たまには思い出してみよう。
あのジャイアントロボのラストシーンを!!。

ジャイアントロボ
イメージ 1



円盤に乗って地球に飛来した謎の宇宙人「ギロチン帝王」は、秘密結社「ビッグファイア団(以下BF団)」を結成し、地球征服を開始する。巨大ロボット・GR1(ジャイアントロボ)は、その尖兵とするために秘密裏に開発された破壊兵器である。

しかし設計者であるドクトル・ガルチュアはその陰謀を阻止するため、腕時計型の操縦システムを偶然BF団に捕われていた少年、草間大作に託し絶命する。この操縦システムは音声登録・認識式で、初起動の際に声を登録した者の命令にしか従わない仕組みになっていた。GR1 = 「ジャイアントロボ」とともに脱出した大作は、地球を守るため国連秘密警察機構・ユニコーン機関日本支部の隊員U7となってBF団と戦う。


ギロチン帝王が次々と送り込むロボットや怪獣を倒し、地球を守るユニコーン機関と大作少年とジャイアントロボ。

WIKIの説明にあるように、ジャイアントロボは大作少年の腕時計からの声の命令しか聞かない。
イメージ 2


しかし、最終話。ジャイアントロボは大作少年の命令を聞かない。

第26話ではガンモンス、イカゲラス、アイスラーを繰り出し、団員を使って総力戦を挑むが、これはジャイアントロボの原子力エネルギーを使い切らせるのが目的だった。
円盤を破壊されたのち、巨大化して現れたギロチン帝王は、自らが原子力エネルギーの塊であることを明かした。原子力エネルギーの塊であるギロチン帝王を地球上で攻撃することは出来ない。

ギロチン帝王は、攻撃できないユニコーンに武装解除を要求する。
ジャイアントロボはエネルギーを使い切って動けない。
勝利の笑いをあげるBF団。

直後、予備エネルギーで再起動したジャイアントロボはギロチン帝王に再度、戦いを挑む。しかし、攻撃すれば地球があぶない。
大作少年が叫ぶ。
「やめろ!!、ロボ、攻撃しちゃいけない!!」

事情を理解したジャイアントロボはギロチン帝王を抱えて宇宙空間へ。
「ロボ、どこへ行くんだ!!」

隕石に向かっていくジャイアアントロボ。
叫ぶ、大作少年。
「 ロボ、かえって来い。ロボ、やめろ!!
 ロボ、ボクの言うことが聞けないのか!!」

ギロチン帝王とジャイアントロボは宇宙空間で隕石に激突し爆発する。

U6(女の子)が言う。動画の英訳とは違うが日本語ではこう言っていたと思う。
「ロボは自分を犠牲にして地球を守ったんだわ」


最近、人を犠牲にして自分を守ろう、という人のニュースが多くある。

日本語の動画が見つからないがアメリカで放送されたものがあった。
主演の金子光伸さんは私と同じ年の生まれなので、ちょっと思い入れがある。





歌も聴いてみよう。
♪ 輝く太陽、背に受けて
  鉄の巨人の叫び声・・・


歌やドラマから人の生き方を見直すこともある。
正義とか勇気とか、忘れてしまった大人たちはジャイアントロボから少しは思い出してほしいものです。

関の弥太っぺ

かなり前にテレビで一度だけ見たことがあり、もう一度見てみたいと思っている。
「関の弥太っぺ「は中村錦之助さんの映画しかみていないけど、これこそ日本の時代劇映画だと思う。
最近、テレビからはほとんど時代劇が消えてしまった。
同じように義理とか人情とかいうのが消えかかっているように感じるのは私だけか・・・。
 
動画を紹介してくれた方達に感謝。
Wikipediaからあらすじ

物語[編集]

常州生まれの関本の弥太郎、人呼んで「関の弥太っぺ」は、生き別れた妹を探す旅で母のない少女「お小夜」と出会う。小夜の父「和吉」は盗賊であり、金を盗まれた「箱田の森介」は和吉を斬って金を奪っていく。自分の50両も森介に持って行かれた弥太郎は宿場まで小夜を連れて行く羽目になるが、父の死を知らない娘に妹の面影を見て心を動かす。(肩を抱きながら)「…この娑婆には辛い事、悲しい事がたくさんある。だが忘れるこった。忘れて日が暮れりゃあ明日になる。(空を見上げて)ああ、明日も天気か」と娘を励まそうと明るい顔を見せる弥太郎。
 
宿場で沢井屋に着いた弥太郎だが、お小夜の身の上について全く知らないため往生する(観客はお小夜が沢井屋の女主人の孫であると知っているが、この家族の前には歳月の壁が立ちはだかっている)。来る筈の無い父を往来で待つ小夜を見ると、弥太郎は50両で娘を預かってくれと強引に頼み、森介を追っかける。気持ち良く金を返した森介に礼の5両を渡すと、弥太郎は沢井屋に戻り軒裏に45両を置いていく。裏庭の垣根越しに見える沢井屋の家族の優しさは小夜を包み込んでいた。(ニッコリと)「50両はなくなったけど、おいら、お星さまになったような気持ちだぜ」と誰に見られることもなく手を振って去る。
 
信州で妹の行方を探し当てた弥太郎は、半年前にお糸が死んでいたと知らされる。幼かった頃の記憶のままに兄である自分を慕っていたと聞かされた弥太郎は、墓前で涙する。家族と一緒に暮らしたいという望みのために、やくざの泥水を飲んで過ごして来た旅は、ここで終わった…。
 
10年後。
生きる目的を無くしたまま、助っ人稼業で命を張る弥太郎は、凄惨な容貌に変わっていた。敵方に恩人の「田毎の才兵衛」と森介を見た弥太郎は、雇い主の飯岡を裏切る。旧交を温める3人。ここで才兵衛はお小夜が名も知らぬ恩人の消息を求めていると弥太郎に語る。飯岡の追及が伸びる中、弥太郎は再び沢井屋の垣根の前に立ち、成長したお小夜を見ると暖かい気持ちとなったまま立ち去る。
 
一方、森介は恩人(弥太郎)の振りをして沢井屋を苦しめる。金を強請ろうとした森介はやがて小夜と一緒になりたいという分に合わない夢を見始めていた。小夜の父を斬ったのが森介自身であると弥太郎は教えるが、森介は逆上。これ以上小夜を苦しめないため涙を飲んで弥太郎は森介を斬る。その場所こそ森介自身が和吉を斬った森の中であった。
 
業の深さに苦しむ弥太郎の前に立ちはだかる飯岡一家。「暮れ六つ時に再び」と約束して別れた弥太郎は、笠を被ったままあの垣根を越えると沢井屋の家族に全てが終わって森介は旅に出たと伝える。10年ぶりに対面した弥太郎とお小夜だが、弥太郎に昔の面影はなく、お小夜は気が付かない。帰ろうとする弥太郎を小夜は呼び止める。父と母を求めた少女のままの小夜がそこにはいた。
「旅人さん、私のお兄さんになってくれませんか」「あっしの願いは妹の所に行くことだけです」「妹さんがうらやましい」。己と同じく彷徨い求め、ついには得られぬ現実を突き付けられる娘に弥太郎は優しく答える。「…お嬢さん。この娑婆には辛い事、悲しい事がたくさんある。だが忘れるこった。忘れて日が暮れりゃあ明日になる。(空を見上げて)ああ、明日も天気か」。全てを悟ったお小夜は弥太郎を追いかけるが土手の下に隠れ小夜の背中を見送る弥太郎。
 
ラスト、飯岡衆は約束の場所で弥太郎を待つ。「来ました」「森介は一緒か?」「弥太郎一人です」。行き止まりの道を歩いてくる弥太郎。笑っている。カメラは背中に廻る。背中が小さく、小さくなる。傘をポーンと投げる弥太郎。弥太郎の運命を暗示するかのように彼岸花(死人花とも呼ぶ)が咲いている。遠くで鐘が鳴っている…。


 
「…この娑婆には辛い事、悲しい事がたくさんある。だが忘れるこった。忘れて日が暮れりゃあ明日になる。(空を見上げて)ああ、明日も天気か」と娘を励まそうと明るい顔を見せる弥太郎。
 
10:00〜
「お前のおっかさんの名前はなんというの?」
「おすえというの・・・」
「えっ!!」

 
 
お小夜の旅籠代を届ける弥太郎
 

 
 

「…この娑婆には辛い事、悲しい事がたくさんある。だが忘れるこった。忘れて日が暮れりゃあ明日になる。(空を見上げて)ああ、明日も天気か」
 
「妹のところへ行くのが望みです」
弥太郎の妹は死んでいるが、お小夜はしらない。
観客はその意味を知っている。
 

音楽が良い。
そして、ラストで鳴る鐘の音が心に響く。

東京ぼん太

私が小学生のころ、住んでいた村が町になった。
その時、村にひとつしかない中学校に芸能人に数人きてもらってお祝いをした。
よく覚えていないがケーシー高峰さんと東京ぼん太さんが来てくれた。トリオのスリーボンボン、歌手の誰かさんも一緒だった。
 
そんなこの町も数年前に合併して市になった。
何人懐かしいと言ってくれるだろうか?  東京ぼん太さん・・・。
 
初めて実際にみた東京ぼん太さんは唐草模様の傘を持ち、ふろしきを背負って舞台を右へ左へ元気いっぱいでした。
 
 
 
イメージ 1
 
 
                             えっ、東京ぼん太なんて知らないって・・・。
 宮 沢 賢 治
「雨ニモマケズ」

雨にもまけず
風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決してらず
いつもしずかにわらっている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜をたべ
あらゆることを
じぶんをかんじょうに入れずに
よくみききしわかり
そしてわすれず
野原の松の林の蔭の
小さな萓ぶきの小屋にいて
東に病気のこどもあれば
行って看病してやり
西につかれた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北にけんかやそしょうがあれば
つまらないからやめろといい
ひでりのときはなみだをながし
さむさのなつはオロオロあるき
みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい


有難や節
 
 
 
 

ジョンさんへ

ジョンさん
返事が長くなるので記事にさせてください。 
以下、ジョンさんのコメントです。


O・ヘンリーの作品は、主に短編で読みやすいので学校へ上る前には、既に読んでいました。
今読んでも又感じ方が違って、非常によい作品が多いです。
でも、子供は、(私は子供の頃アニメとか見せて貰えませんでしたが)スタッフロールとか、読むでしょうか
私は、映画館以外ではエンドロールは、見ませんし
タイトルなど子供にも分かる配慮が必要だと思います。

それがきっかけで、原作を読むようになったり
古い映画を見る機会が出てくると思います。

怖いのは、誤解したまま成長してしまうことだと思いますし
原作者に対しての配慮を忘れているのでは?と、思う事です。

有名な話では、トーベ・ヤンソンのムーミンや
アーシュラ・K・ル=グウィンのゲド戦記など
後から、私の作品とは認めないと原作家が、怒りそうな改変は、やめるべきでしたし
削除
この放映に対して、きちんとストーリーの骨格だけ借りますと
家族の方から承諾を得ては居ないのでは?と思う事です。
O・ヘンリーは1910年に死亡していますので著作権の時効もありえますが
サザエさん等原作に気を使う子供の見るTV番組と、扱いが違うのが
私には不思議でなりません

見ているのは、子供だと言う事を忘れてはいけないと思います。

韓国ではガンダム・ドラえもん・セーラームーン等子供たちは韓国の作品だと思っています。
フランスでも、キャンディ・キャンディは、フランスの作品だと子供は思っています。

日本人は、それは、平気なのでしょうか?

だから、オマージュとしての作品であっても原作が誰であるか
一目でわかるようにするべきだったと思います。

偉そうな事を言ってすみません、でも、私の素直な気持ちです。


ネコミ
ジョンさん
外国のほうまで話が広がるとけっこう大変なので、この「おそ松くん」だけにしぼります。
難しいですが、まとめると以下のようになるでしょうか。
 
>タイトルなど子供にも分かる配慮が必要だと思います。
>見ているのは、子供だと言う事を忘れてはいけないと思います。
>だから、オマージュとしての作品であっても原作が誰であるか一目でわかるようにするべきだったと思います。
 
ご意見ありがとうございます。
たしかに原作者に配慮するのは大事なことです。
でも、具体的にどうすれば良かったでしょうか?
仮にタイトルを「チビ太の金庫やぶり」ではなく、「よみがえった改心」としたら、子供達にはこのタイトルだけでは内容がまったく理解できないでしょう。それにストーリーを少しでも変えることで批判がくるでしょう。
実際、この「チビ太の金庫やぶり」はストーリーが少し違います。原作と違って、チビ太は刑務所を出てから金庫やぶりはしていないので、トトコちゃんを助けても元々逮捕されることはないのです。
では、タイトルは「チビ太の金庫やぶり」としてその下に「原作、O・ヘンリー、よみがえった改心」とした方がいいでしょうか?
 
これが良いように思えますが、もし、これが普通のこととして決まるとまた他で問題が起きます。
この「チビ太の・・・」は全編ストーリーは「よみがえった改心」なので問題ないですが、他のドラマ、アニメ作品には部分的にだけ過去の名作のストーリーが入っているものがあります。
 
例えば、一人の赤ちゃんに二人の母親が名乗り出てきた。これを見事に解決する話が「大岡越前」、アニメの「一休さん」、「水戸黄門」に出てきます。元の話は聖書のソロモン王の前に出てきた一人の赤ちゃんと二人の母親の話です。「一休さん」のその日のタイトルの下に原作「聖書」と書いてもいいですが、仏教の一休さんの元の話が聖書では最初からしらけませんか?「大岡越前」や「水戸黄門」の一部(1割くらいの時間)にこの話が出てきたとして。タイトルの下につけるべきかどうか?
 
人によって考えは違うので、どうやってもどこかから批判がでますが、製作者が臨機応変に対処するしかないようにも感じます。ある時はタイトルのそばに、ある時はエンディングに原作者の名前を出すとか・・・。
 
時代劇ばっかりですみませんが「水戸黄門」の話に「走れメロス」のストーリーが入っていたのを見たことがあります。角さんが人質になって友人が数日後の日暮れまでに帰る。それをじゃまする悪代官、という話でした。子供に限らず、たとえ「走れメロス」でも知らない人は大人でも知らないのです。そのように知らない人が思い違いをしないためにタイトルの下に「原作、太宰治、走れメロス」と表示するのがよいことでしょうか?
そこまで気を使わなければいけないでしょうか。
 
筋立てを利用して出来た作品でも、それ自体は独立しているものとして見てよいのではないかと思いますし、出来上がった作品のエンディングに原作者とその元の作品名を載せることでも、原作者には失礼にはならないように思います。
 
ちょっと想像してみてください。
水戸黄門の動画を載せます.
「水戸黄門」のあとに、その日のタイトル「闇夜に咲いた女義賊」というタイトルが出ます。
仮にそのとなりに「原作、太宰治、走れメロス」と書いたら「水戸黄門」の雰囲気が壊れると思うのはわたしだけでしょうか?
「原作、太宰治、走れメロス」はエンドロールでもいいのではないかなぁ・・・と思いますが・・・。
 
 
 
今より原作者を大事にしたほうが良いのはたしかにその通りです。
この「チビ太の・・・」の下に「原作、O・ヘンリー、よみがえった改心」と書いても良かったと思います。
でも、すべての作品には無理があるように感じます。
作品によってラストに原作者の名前を持っていくのもアリかと思います。
何か基準とか規則とかをつくることなのかもしれませんが、良いアイディアがあったらお知らせ下さい。
 
 
 

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