My Simple Life

これから暑くなってきますね。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全85ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


 
 
 
8月は、普通ならば暑い日が続く夏本番の毎日ですが、今年は毎日が雨降りで
まるで梅雨のような毎日で、お盆だというのに出掛けて行くのも何となく気が進みません。
お陰で昨年のように、クーラーが一日中フル回転と言う日はなくて、少しは電気代が安いかな......
 
昨日は、写真仲間に連れられて花火を撮りに行きました。
昼から大雨で、花火は中止だと思っていたら主催者の方で、少しの雨なら他に日が無いので
花火を打ち上げますとのことなので、日本海側になる油谷町に花火を見に出かけました。
運がよく、花火を打ち上げる時は雨もすっかりあがって星こそ見えませんでしたが
なんとか打ち上げの間は、持ちこたえそうで早く花火が上がらないかと長い間待ちました。
 
今回は普通の花火と違って、レーダー光線を使った花火です。
 
イメージ 1
 
初めの挨拶も何もなく、最初からこのような「ド派」でなレーダー光線の演出には驚きです。
 
 
イメージ 2
 
打ち上げられる花火が高くて、レーダー光線の中に丁度入ってくれなくて、
このように花火とレーダー光線の位置が離れてしまって別々の撮影になってしまいました。
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
音楽と、花火と、レーダー光線が一緒になって、写真を撮るのもとても忙しいですね。
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
終わりの挨拶もなく、15分ぐらいで花火大会は終わってしまいました。
せめて30分はあるだろうと思っていたのですが、レーダー光線の花火を撮るのは初めてなのに
輪をかけて、15分前後とは余りにも短すぎて余り美しい画像は撮れませんでした。
 
 
  画像をクリックすると拡大されます。 
 

開く コメント(11)

仏教のハスの花

http://www.clocklink.com/clocks/5002-Blue.swf?TimeZone=JST&Place=&DateFormat=YYYY-MM-DD&
   
 
 
野暮用で山口大学に行った時に、大学の入口にあるハスの池にはたくさんのハスの花が咲いていて、
連日、カメラマンの方たちが朝早くから来てハスの花を撮っていました。
私も偶然持っていたコンパクトカメラで、カメラマンたちに交じって撮影してみました。
 
イメージ 1
 
ハスの花を 「ウィキメディア」 で、調べてみますと花と言えどもとても奥が深いですね。
今回は、仏教の方ですと馴染みのある宗教について調べてみました。
 
ハスの花、すなわち蓮華は、清らかさや聖性の象徴として称えられることが多かった。
蓮は泥より出でて泥に染まらず」 という日本人にも馴染みの深い中国の成句が、
その理由を端的に表しています。
 
ヒンドゥー教は、古代インドでは、ヒンドゥー教の神話やヴェーダや
プラーナ聖典などにおいて、ハスは特徴的なシンボルとして繰り返し登場します。
 
例えば、「バガヴァッド・ギーター」 11章で、
クリシュナは「蓮華の目を持つ者よ」と美称され、アルジュナは 「ハスの上に座す梵天(最高神)を、
そしてシヴァ神、あらゆる賢者たち、聖なる蛇たちをわたしは見ます」と語っている。
 
イメージ 2
 
「結果を最高神に任せ執着なく義務を遂行する者は、罪に迷わない。
あたかもハスの葉に水が触れぬがごとく」 は、後の仏教における「ハス」の
象徴的用法と近いものを含くんでいます。
 
泥から生え気高く咲く花、まっすぐに大きく広がり水を弾く凛とした葉の姿が、俗世の欲に
まみれず清らかに生きることの象徴のようにとらえられ、このイメージは仏教にも継承されました。
性典の中では、「女陰」 の象徴。
 
イメージ 3
 
多神教信仰から女神崇拝が生まれその為、
古代インドでは女性に対する4段階の格付けが生まれ上から
パドミニ(蓮女)、チトリニ(彩女、芸女)、シャンキニ(貝女)、ハスティニ(象女)といい
最高位の 「蓮女」 の象徴としてラクシュミーという女神が、崇拝されています。
性典「ラティラハスヤ」を参照
 
イメージ 4
 
梵天とは、ご存知の方も多いと思いますが「阿弥陀様」のことです。
ちょっと(多いに)、難しいともいます、私自身が「ウィキメディア」から引用していて分からない状態です。
インドの宗教の聖画には、像のような鼻の長い女神さまが描かれているのを見かけますが、
それは、ここに記されているハスティニ(象女)ではないでしょうかね。
 
イメージ 5
 
仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を
咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されています。
如来像の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、また厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしている。
 
主に寺院では仏前に「 常花」(じょうか)と呼ばれる金色の木製の蓮華が置かれています。
一方で、仏教国チベットでは標高が高く生育しないため、想像でかかれたのかチベット仏教寺院では
日本に比べ、かなり変形し、その絵はほんのり赤みがかった白い花として描かれている。
 
また死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって
身を託すという思想があり、「一蓮托生」という言葉の語源になっている。
 
イメージ 6
 
「白龍山寶珠寺」、和歌山県新宮市木ノ川360番地の蓮池には、
毎年7月から8月末までの間に、白蓮が開花します。
 
宝珠寺の古文書(過去帳)によると、約300年前より蓮池が存在し、蓮もそれに由来する。
蓮の葉が80cm以上で大きく、花も開花すると30cmと大きい、
青や、他で登場する黄色は睡蓮のみに存在する色です。
仏典においては蓮と睡蓮は区別されず、共に「蓮華」と訳されています。
 
イメージ 7
 
密教においては釈迦のみならず、ラクシュミー(蓮女)である
吉祥天女を本尊として信仰する吉祥天女法という修法があり、蓮は特別な意味を持っています。

 
☆ 「ウィキペディア(Wikipedia)」から引用して記事を書いています。
 

開く コメント(9)

日本丸と海王丸

 
 
やっと、大学の単位認定試験も終わって10月まではな休みなので羽をのばしている最中です。
 
梅雨の時期も余り雨も降らないで終わってしまったので空梅雨かと思っていたら、
なにがなにが終わってからは雨ばかりで台風様も来るし何となくおかしな天候の毎日です。
 
イメージ 5
 
天気予報は、全てが晴れマークだったので
梅の土用干しをすると雨ばかり降って余り上手に干せませんでした。
 
イメージ 1

先月の下旬から下関港に「海王丸」と「日本丸」の2隻の帆船が停泊していて、
4日に出航というので船の登檣礼が見たくて雨の降る中を下関まで行きました。
 
11時から出航というのですが大雨になり肝心の登檣礼は中止となってしまい
代わりに登舷礼になってしまったので残念で仕方ありません。
 
イメージ 2
 
 
日本国内では現在、独立行政法人航海訓練所が所有する帆船「日本丸」「海王丸」が
訓練航海の為に出航する際に訓練生による登檣礼が実施されています。

日本丸の後継として、1984年(昭和59年)に日本丸II世が就航した。
日本丸II世は帆装艤装設計から製作まで、すべて日本国内で行われた初の大型帆船である。
住友重機械工業浦賀工場で建造された。
 
イメージ 3

なお、日本丸II世と姉妹船の海王丸II世(1989年(平成元年)就航)を
見分けるための大きな違いは、舳先にある船首像である。
 
イメージ 4
 
日本丸、海王丸には船首像がなかったが、1985年(昭和60年)に
日本丸II世が就航した際に、日本丸II世と海王丸に船首像が取り付けられた。
 
イメージ 6
 
日本丸II世の船首像は手を合わせて祈る女性の姿をした「藍青」、
海王丸の船首像は横笛を吹く女性の「紺青」である。
1989年に海王丸が引退した際、船首像の「紺青」は海王丸II世に引き継がれた。
 
イメージ 7

大きさは「海王丸」も「日本丸」もそれほど変わりませんが、
観た感じでは「日本丸」の方が大きいようにも見えました。
 
 
 
 
 

 

開く コメント(9)

http://www.clocklink.com/clocks/5002-Blue.swf?TimeZone=JST&Place=&DateFormat=YYYY-MM-DD&
     
 
 
旧約聖書に登場する「メデバ」は、マダバ Madaba でヨルダン西部の都市、
マダバ県の県都、首都アンマンの南西35km、死海の東の台地上に位置しています。
 
イメージ 3
 
東ローマ帝国時代およびウマイヤ朝時代のモザイクが残ることで知られており、
特に東ローマ帝国時代のパレスチナおよびナイル川デルタを描いた、
モザイクでできた大きな地図(マダバ地図)が有名です。
 
イメージ 1

マダバ周辺には新石器時代以来人が住み続けた。
マダバの街は青銅器時代中期に遡り、かつてはモアブの境にある町で、
旧約聖書の民数記21章30節およびヨシュア記13章9節では「メデバ」の名で登場する。
 

マナセの他の半部族と共に、ルベンびとと、ガドびととは、
ヨルダンの向こう側、東の方で、その嗣業をモーセから受けた。
主のしもべモーセが、彼らに与えたのは、 アルノンの谷のほとりにあるアロエル、
および谷の中にある町から、デボンとメデバの間にある高原のすべての地。
ヨシュア記 13・8−9
 
モアブよ、お前はわざわいなるかな、ケモシの民よ、お前は滅ぼされるであろう。
彼は、むすこらを逃げ去らせ、娘らをアモリびとの王シホンの捕虜とならせた。
彼らの子らは滅び去った、ヘシボンからデボンまで。
われわれは荒した、火はついてメデバに及んだ」。
こうしてイスラエルはアモリびとの地に住んだが、
民数記 21・29−31
 
イメージ 2

ナバテア王国の支配下にあったマダバは、106年にローマ帝国に支配され
アラビア属州に編入され、7世紀まで東ローマ帝国により統治された。
その後はイスラム帝国およびウマイヤ朝の統治するパレスチナの一部となった。
 
マダバのキリスト教徒共同体や司教に関する最古の言及は、
451年のカルケドン公会議の記録の中にみられる。
この地方の主都ボストラの大司教のコンスタンティンは、
「メダベニ Medabeni」 司教ガイアノに代わり署名を行っているメダベニが現在のマダバにあたる。
 
イメージ 4
 
746年の大地震で破壊されその後は再建されず廃墟となったが、
1880年に2人のイタリア人司祭に率いられた90家族のアラブ人キリスト教徒がカラクから
この地に移り住み、以後、現代のマダバの街が古代の町の跡に築かれていった。
また廃墟の中からモザイクなどが発見され、乏しい文献資料を補う考古学的発見が続いた。
1897年の時点で10カ所の教会の跡があったが、現在では拡大した市街地の中に取り込まれてしまっている。
 
イメージ 5
 正教会の聖ゲオルギウス聖堂(地図の教会)
 
 
1896年、モザイクでできた古代エジプト・パレスチナの地図、
いわゆる「マダバ地図」が偶然に発見された。
 
19世紀末、新たにマダバに移住した人々が家を作ろうとして
古代の廃墟から切石を運び出していた際に、床を飾っていたモザイクが出現した。
マダバの新住民達は、司祭らからモザイクの重要性を教えられ、
以後見つかったモザイクは全て丁寧に保存された。
 
イメージ 6
正教会の聖ゲオルギウス聖堂から見つかったモザイク地図の一部、聖都エルサレムの部分
 

市の北側は古代のモザイクが集中する地域である。
東ローマ帝国およびウマイヤ朝の時期、現在の市街地の北半分にはローマ街道につながる
列柱道路が直交し、「地図の教会」、ヒッポリュトスの邸宅、聖母マリアの教会、預言者エリヤの教会と
地下聖堂、聖殉教者教会(アル=ハディル Al-Khadir)、「焼けた宮殿」などが建っていた。
 
イメージ 7
 
マダバのモザイク地図は6世紀のパレスチナ・エジプト地方の様々な地名を記載した地図で、
正教会の聖ゲオルギウスのバシリカの床を飾っていた。
2百万個の石のかけらでできたモザイクは、パレスチナの丘や谷、町や村を表している。
また東ローマ時代のエルサレムを表現した現存する最古の地図でもある。
街の横に「聖なる街」と書かれ、6世紀当時のエルサレムのランドマーク、例えば列柱が並び
店が連なる南北の大通り(カルド、Cardo)や、聖墳墓教会などがはっきりと描かれている。
 
イメージ 8
 
この地図は、70年のエルサレム攻囲戦で一旦破壊された後、
135年に終わったバル・コクバの乱後に再建されたエルサレムの姿についての
研究を進める重要な資料となった。
 
イメージ 11
 
イメージ 9
 
その他のモザイクの名品は聖母教会、使徒教会、考古学博物館などにあり、花や植物、鳥や魚、動物や
その他珍しい獣の豊かな描写、神話の風景、狩り・釣り・農耕などの日常の営みなどが描き出されている。
さらに5世紀から7世紀にかけてのモザイクがマダバの町中から発見され保存されている。
 
イメージ 10

市民の半分以上はムスリムだが、ヨルダンに住むキリスト教徒の多くが
マダバに住み、市民の35%から40%はキリスト教徒である。市内には多くの教会がある。
 
 
 
☆ 「ウィキペディア(Wikipedia)」から記事と画像はお借りしています。
 

 

開く コメント(5)

http://www.clocklink.com/clocks/5002-Blue.swf?TimeZone=JST&Place=&DateFormat=YYYY-MM-DD&
      
 
 
この日は、霧雨のような天気でしたが仲間に連れられて九州にアジサイの花を撮りに行きました。
幸い大雨にはなりませんでしたが、しかし、ずいぶん濡れました。
やはりアジサイは、雨上がりの時が一番きれいですね。
 
イメージ 8
 
中塚大日不動明王は約千百有余年の昔に、
自然の岩石に神として出現されたと謂われているが、
清き流れのお滝に打たれる神姿、しかも東方向きの滝は全国でも珍しいといわれる。
 
イメージ 1
 
しかしながら、当時の文献もなく古老の多くの方々が他界された今日、
事情は審らかではないが弘化年間(1844年より1848年)に山下村は
旱魃に依る変死者が数十名に達し村は存亡の危機に漸した時、
雲水来りて不動尊に籠り慈雨豊穣病気の平穏折り、滝に打たれ、
捨て日間の荒業に入り、その満願の朝、滝壷より忽然として神霊の使者の白馬が現れて
「汝の願い、成就せり」と告げ、昇天するや霊感忽ち灼にして村に平和が訪れたと謂われる。
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
以来、村人の護り神として崇められ、また信者により十三仏様及役行者が奉祀され、
更に鐘楼が建立され、玖珠地区の八十八ヶ所の八十番札所に記され、
最近信者は遠く四国・山口・福岡・佐賀・長崎・熊本など、他県よりの参作者も
多く薬石効なき病気のカ々がお籠りし、お滝に打たれ祈願修業し治癒された例は多い。
 
イメージ 4
 
又昔、村の数軒で夜中かまど不始末により、
火災が発生し人影も無いのに家人を幻の声で起こされ、大火に至らなかったと聞かされている。
 
イメージ 5
 
又昔、ある畜産家の人が早朝牛馬の飼料として野草切りに不動相の周りに行き、
まだ明けぬ原野に突然「ガヤガヤ」と話す声にビックリして振り向くと、
白馬にまたがった神霊が友をつれて通るお姿を拝したという話を聞いた。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
又ある信者の話に、不動拝にお参りし滝に打たれ荒業をしていると、
おのずと白馬が現れ乗馬させられ、修業に旅立させられる業となり
「ハイシドウ、ハイドウドウ」と経文を唱えさせられるそうです。
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
 
 
☆ この神社に掲げてある掲示板の解説より引用しています。

開く コメント(9)

開く トラックバック(1)

全85ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事