続、時刻表昭和史

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故、宮脇俊三氏に捧ぐ
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 中学生入学後すぐに入った課外活動はバレーボール部であった。入部動機は「友人に誘われたから」で特に興味があった訳ではなく、それどころかほとんど体験した事すらなかった。
 その頃の人気はテニス部と野球部、そして市内では強い方に数えられていたバスケットボール部で40名ほどの新入部員を獲得していた。しかしサッカー部や卓球部などの不人気スポーツは新入部員10名程度でバレーボール部も例外ではなく校庭の片隅のコートで細々とその活動は行われていた。
 新入部員に課せられたのは玉拾いと走る事と声を出す事であった。
 これを怠けていると、いや本人たちは怠けているつもりは一切ないのだが、ペナルティーが課せられる。それはスポーツ根性ものの代表とされていた「ウサギ跳び」。時にはコートの周りを、時にはグランド一周をとよくピョンピョンやらされた。
 ペナルティーはもうひとつあった。それはフライグレシーブ。通称「突っ込み」。
 フライングレシーブとはボールを受ける際、走っても間に合いそうもない場合に落下地点に向かって頭から飛び込んでいって先に伸ばした腕で受けるという技で、受けた後はまず両手を地面に着けて次に胸が接地した時点で体を送り出すように腕を後ろへと蹴り出すようにして体を滑らせ落下の衝撃を和らげるのである。
 これは実際の試合でも多く使われる有効な技ではあるのだが見た目が派手な事も相まって、たとえそれでも間に合わずポールが落ちてしまってもその落下点に「突っ込み」をして闘志を表すというバレーボールならではの根性表現の代表でもあった。
 これがペナルティーで使われる場合はむろん根性の部分だけが強調されたものとなり、「その場で突っ込み5回」などと怒っている様なそれでいて少しにやけている様な先輩によく命じられた。
 むろんいきなり「突っ込み」を命じられる事は無い。この技はやはりそれなりの練習をしないと出来ないのである程度マスターした頃からペナルティーとして使われるようになる。
 これの練習を始めた頃は惨憺たるものであった。まず先輩が手本を示す。それも最初だけ。後はそれを思い出しながらただ只管「突っ込み」。着地に失敗して胸を強打し呼吸困難になる。体操着の胸は泥だらけ。それが擦り切れて来る。胸も擦れて真っ赤。新しい体操着をあっという間にボロボロにしてしまい、毎日泥だらけで帰っ来る私に向かって母が言った。
 もう少しかっこいい部活にすればよかったのに。
 練習時間は放課後。冬は練習を始める頃にはもう日が沈みかけていてちょっとボールに触るくらいで終了。ナイター設備が無く日が暮れると校庭は真っ暗になった。強豪バスケットボール部は体育館を使っていて日が短い季節でもみっしり練習していたり、ど根性野球部は暗い中ボールを追いかけていたりのを横目に早々の下校。また、時にはコートが溶けた霜柱でぐちゃぐちゃになっていて練習にならない事もあった。雨の日もしかりで、校舎内で廊下や階段を使った筋トレを行う事もあったが大抵は休み。
 陽が暮れるまでの練習だったので夏場の練習は長くそしてきついものであった。中には途中でダウンしてしまう子もいた。今思えばおそらく熱中症であったのであろう。当時は「へたばるから」という理由で練習中の水分補給は厳禁であった。それでも救急車を呼ぶような事態になる事は無くダウンした子も木陰で少し休ませると復活した。むろんそれでも水分は与えられていない。
 唯一給水が暗黙の下に認められていたのが試合中であった。
 これは試合に出ている選手だけに与えられていた特権で、試合中にタイムがかかると監督がコートまで進み選手がそれを囲む。そこへ一年生がタオルを届ける。名目上は汗をふくタオルであるがそれにはたっぷりと水が含ませてある。手渡された選手は汗を拭くふりをしてそのタオルを吸う。むろん、こっそり吸っていたのは監督に対してではない。このくらいの暑さなんともない。まだまだやれるぞ。相手チームへのはったりである。当然相手も同じ事をやっているのだが。
 このような状況だったので練習後の水飲み場はいつも大渋滞をしていた。どの子も腹がガボガボになるくらい水を飲んだ。あまり長い事飲んでいると「いつまで飲んでるだ」と後ろからどなり声が上がる事もあったがそれでも飲んだ。そしてこの水が美味かった。
 喉が渇いていない時に飲む学校の水はまずかった。この辺りの水源は相模川で、城山ダム(もしくは相模ダム)から延々とトンネルを通ってきて近くの長沢浄水場から配水されていた。その浄水場を見学に行った事があるが、トンネル出口付近のその水は緑色に濁っており、とても飲み水になるとは思われないようなものであった。
 その水が濾過されて各家庭と同じ様に学校へも来ていたのだが家の水は冷たく美味かったのに学校の水は生ぬるくそして薬臭かった。学校の水は独自に消毒薬が添加されていたのかもしれない。学校側が神経質過ぎたのか、浄水レベルが低く各家庭の水がそのままではあまりよいものでなかったのかは解らない。
 練習後にそれほど水を飲んだというのに着替えて下校する頃にはまた喉が乾いてしまって校門近くの文具屋兼駄菓子屋でジュースを買って飲んだ。冷蔵ケースの中には様々なジュースが冷やされていた。皆たいていはその中から小さな300ml入りくらいの瓶を拾い出して飲んていたが、時にはケースの隅の方にドテンと居座っている威圧感ある1L入りコカコーラやスプライトに手を出す子がいた。1L入りは登場したばかりで目新しいという事もあったが、だからと言ってその子がそれほどに喉が渇いていた訳ではない。これに手を出すのは1つの遊びであった。
 その遊びとは「1L一気飲み」。別にそれが出来るかどうか何かを賭けていたのでもなく、誰かに強制されたものでもない。ただいきなり「よし、挑戦するぞ」と手を出すのである。
 これを成功させるにはあらかじめやっておかなければならない事がある。それはズボンのベルトを緩めておく事。
 始めの半分ぐらいまでは結構すんなりいく。そのあたりでゲップをして圧を抜いておけば後半もなんとかいけるが、ゲップをせずに一気飲みをして初めて完全なる成功となる。なので突きあげて来るガスをぐっと我慢して飲み続ける。終盤戦ともなるとお腹はパンパンになる。この頃になってベルトを緩めようとしてももう手遅れとなる。膨れたお腹に食い込んだベルトは緩める為に引っ張るという事が出来なくなっている。ゲップを出してお腹をへっこませればよいのだが、その状態になるとお腹が締め付けられ過ぎていて容易にゲップは出ない。そしてじたばたしているうちに益々ガス圧は高くなる。これはもう地獄の苦しみ。こうなったらゲップが出るのを待つか、友人が無理やりベルトを引っ張って緩めてやることとなる。
 校門前の店でひと騒ぎしてからあらためて帰途に着く。しかし、素直には帰らない。次によく立ち寄ったのが本屋であった。
 バス通り沿いにあるその本屋は小さい個人商店であった。だが建物は新しく店の前に少々のスペースもあった。
 小学生の頃は自ら本屋へ行くという事はまずなかった。せいぜいが低学年の時に通っていた古い学校のそばにあった古い本屋で、それは通りにべったりと面して建っていて自転車すら置く場所がなく、必要以上にガラガラと大きな音を立てる硝子戸を開けて入ると店番の人がいて何か買わずには出られない雰囲気の物であった。
 しかしその店はとても開放的でたいてい大きなガラスドアは開け放たれており、道路拡幅予定地かもしれない店前の駐車スペースらしき場所に鞄を放り出して立ち読みにふける子供たちでいつも賑わっていた。
 ちなみに鞄は学校指定の物だったので皆同じものを持っていた。よって立ち読みを終えていざ帰ろうとすると「あれ?俺の鞄はどれだ?」という事になる。そこで皆鞄に何らかの目印を付けていた。私が付けていたのはキーホルダー。家族で出かけたり遠足などで出かけた先でキーホルダーとペナントを買いそれを鞄に付けた。むろんペナントは部屋の壁にである。やがて鞄はキーホルダーだらけとなり、壁はペナントだらけとなった。卒業する頃には鞄のキーホルダーは30個近くになり、中にはどこぞの神社で買ったおみくじキーホルダーなどもあって、ときおり友人がそのおみくじを引いたりと、それをじゃらじゃら言わせながら通っていた。
 その本屋で初めて存在を知ったのが鉄道関係の月刊誌であった。だが内容が難しく、載っている写真をペラペラと眺めるだけで買うという事は無かった。
 やがて、そんな立ち読み専門の私が月に一度だけは顧客となった。
 月末にその本を入手するとその晩はついつい夜更かしになってしまう。もっともその見方はどこかへ空想旅行へ行くというのではなく幹線系にひしめき合う特急列車の時刻を眺めて楽しむという物であった。
 だからローカル線のページなどはほとんど見ない。巻末の私鉄のページに至っては全く見ない。というような偏ったもので、逆に東北本線のページは特によく見ていたので背表紙が折れてしまって二冊に分かれてしまう寸前状態となってしまう号も多かった。
 もう1つその本屋でそれこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入した本があった。それは鉄道専門誌の巻末の広告に載っていたもので、注文取り寄せとなる。
 注文すること自体は何ら問題は無く、書籍名と出版社などのメモを渡すだけ。―よく専門誌巻末に注文用の短冊が付いている事があったが、立ち読み専門だったのでそれをメモした―
問題はその値段。
 ちなみに、校門前の店で飲んだコーラは300ml入りで60円。500mlホームサイズで70円、1Lでも150円。500mlや1Lは別に瓶代が取られたがそれは瓶を返せば返却される。そして時刻表は400円。ただし購入を始めてからすぐの1976年4月号からは450円であった。
 ところがその本の値段は上下巻合わせて5000円。実に時刻表の約一年分。こずかいをやり繰りしてなおかつ親におねだりして注文し待つ事約ひと月。入荷した旨の連絡があった翌日はずっとそわそわ。部活が終わるのももどかしく、本屋へ駆けつけると少し誇らしげに本を受け取った。
 以来暫くの間は時刻表そっちのけで毎夜毎夜飽きずにページをめくった。


--第44号(平成24年1月8日)--

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 その話を言い出したのは誰だかわからない。経緯も覚えていない。入学後1ヶ月。クラス担任引率のもと、数名で静岡県の登呂遺跡へ見学に行く事になった。覚えていないが、歴史史跡と鉄道の話に私が加担していないはずはない。なおかつ私は以前訪れた事がありその辺からも私と担任教師との計画であったと思われる。
 ルートは溝の口−大井町−品川−静岡。
 一度わざわざ品川へ出るのは目的列車の急行「東海2号」が品川始発であったからだ。5月連休中の事なので始発から乗らなければ座れないのではないかと危惧したからである。
 計画段階で私はこの品川発が気に入らなかった事は覚えている。東海道本線の列車であるならば当然東京始発であるべきだと。だから利用するのは「東海1号」にしようと主張した。
 しかし、「東海1号」の東京発車時刻は7:15。すると集合時間は6時前になってしまう。この時間では駅までのバスは無い。男子は魚釣りで早暁の自転車経験もあり不可能ではないが女子は無理だ。ならばその後の列車なら、とも言った。30分毎に出る急行は伊豆方面ばかりなので熱海で普通列車に乗り換えとなるがそれでも良いと思っていた。つまらぬ事にこだわった。次の「東海」は午後で静岡に着くのは夕方になってしまうのでさすがに問題外。往路は「東海2号」と決まった。
 溝口駅集合。男子はパンタロンにテンガロンハットとはやりの格好。女子は小奇麗に着飾っていて小学校の頃とは全く印象が違った。
 大井町で乗り換えて品川へ。すでに停まっていた列車は思いの外空いていた。それでも後ろへと進んでいくと次第に車内はガラガラになり、無人であった車両に陣取った。その後ろには御殿場行きの「ごてんば2号」が連結されている。時刻表の列車編成ご案内に「東海・ごてんば」の列車編成は記載されておらず、品川に着くまで「東海」と「ごてんば」のどちらが前かは判らなかった。
 品川を出ると横浜、大船に停車。次の停車は国府津だ。かつての東海道本線の要衝ではあるが急行で停まるのは「東海」だけ。「伊豆」(伊東・伊豆急下田行き)「おくいず」(修善寺行き)は共に停車しない。「ごてんば」を切り離す為だけの停車だ。
 東京〜熱海間の急行停車駅は列車、時刻によって変わりはあるが、全ての急行が停まる駅は横浜・大船・小田原・湯河原の4駅だけで、(1978年時刻表より。1974年には大船に停まらない「伊豆」もあった。)特急「あまぎ」にいたっては横浜・熱海のみ。小田急利用者は乗せないぞ、と小田原を無視。新幹線利用者も拒否した熱海通過時代もあった。
 国府津から最後尾となったその車両に途中から乗ってくる客は無く貸切状態で列車は湘南を下って行った。快晴の5月初旬。気温は高めであったが窓からは爽やかな風が吹き込んでいた。
 いや、吹き込むではなく、吹きまくるであった。なにしろ貸切なので座っていたボックス以外の窓も開けてしまい、車内を風がビュービュー吹きぬけていた。特に上り列車とすれ違う時はすさまじく、爆風の様な風に襲われる。そんなすれ違う列車の中に時折ブルー1色のものが混ざる。ブルートレインだ。電車に比べて足の遅い寝台列車は通勤時間帯を避けて設定されている。よって、品川を9時過ぎに出ると続々と上ってくる寝ぼけ眼の列車とすれ違う事となる。
 小田原を過ぎれば列車は崖の上に出る。左眼下は相模湾。右眼上は青々と茂るミカン山だ。その急斜面に柵のような物が続いている。ミカン専用の農業用小型モノレールで、以前この辺りにミカン狩りで訪れた時に動いている姿を見た事がある。道路沿いにあった店から案内されて獣道の様な道を登り遮断機も何もない東海道本線の踏み切りもどきを渡ったその先の山の上でガーガーと音をたていた。真鶴半島の最先端にもそれがあった。そこのはミカンではなく崖下の売店へ商品を運ぶ為に設置されているもので、間近に停まっている姿を見る事が出来た。これに乗せてくれれば急な坂を上り下りしないですむと思ったが、細いレールの上に乗っているそれは人が乗るにはちょっと心細いような倒れないのが不思議な代物であった。
 熱海はこの列車での最大の楽しみであった。もちろん温泉にはまだ全く興味は無く、その先にワクワクが待っていたのである。
 それは丹那トンネル。詳しい事はさっぱりだったが、多くの犠牲者を出した難工事であったことは何かで読んで知っていた。そして一番の魅力は、くぐり抜けるのに8分くらいかかる、という国鉄でも5本の指に入るその長さであった。
 実は丹那トンネルをくぐるのはこれが始めてではない。それがいつの事だったか何の為に通ったのか全く記憶に無い。もしかすると以前の静岡訪問時に通ったのかもしれない。その時の思いは、ずいぶんと長くいつまでも続いて不安になってきた頃ゴーッとブレーキがかかりこのまま抜ける事無くトンネルの中で停まってしまうのかと引きずっていた不安が最高潮に達した時パッと外に出てすぐ駅に着きほっとした、というものであった。それからいくらでもない月日の流れはそのトンネルの再訪を楽しみへと変化させていた。
  熱海駅を出発するとすぐにトンネルに入る。つたない知識で
「このトンネルは長いぞ。8分かかるぞ」と廻りの友人に吹聴した。
 ところがそのトンネルはあっという間に終わってしまった。窓外にはビル群が見える。隣町に着いてしまったのか?小さな駅を通りすぎた。
 1人はしゃいでいた自分に少々ばつが悪くなり窓から顔を出すと次のトンネルが目前に迫っていた。入り口には「丹那随道」と書かれている。
 壁に当たりそうに思えたので半分だけ窓から顔を出すとずっと先まで壁面を照らす車内の明かりがあるばかりで出口は見えない。時折前の方でその壁面がバシッと青く光る。パンタグラフのスパークだ。湧水の多いトンネルなのでしばしば水滴が当たる。ビシッと痛いほどの粒であったり、霧状であったり。もっとも、当時使用されていた急行列車は全ての車両に便所と洗面所を設けるというポリシーの元に作られたものであって、まだその処理装置は一部の車両に付いていただけなので、当たった全てが湧水とは限らない。
 楽しみにしていたせいか、思いの外あっさりと丹那トンネルを抜けてしまった。その余韻と拍子抜け感が感覚を狂わせたのであろうか。列車は間もなく三島駅に着いた。函南通過は気づかなかった。よってしばらくの間私は、熱海を出てすぐの駅が函南、丹那トンネルは函南〜三島間にあると勘違いをする事となった。時刻表の地図では伊東線は熱海からすぐに別れてしまい、来宮駅が東海道本線と接しているとは判らない。
 開け放った窓を閉めたくなるくらいの異臭が入り込んで来ると吉原。田子の浦公害を実感させられる。
 その臭いが薄れてきて、いつもは丹沢の上にその嶺だけを覗かせている富士山が覆い被さる様に見えると富士。
 富士川の長い鉄橋を渡って油井。線路脇に防波堤のコンクリートが続いているがその役目は自宅近くから続く東名高速道路が担っている。
 海から離れ左手に日本平の山が見えてくると終点静岡。あっという間の3時間であった。
 駅前からバスに乗る。この辺りもかなりおぼろげな記憶になるが、駅北口から出たバスは駅西にあった陸橋に登って東海道本線を渡り、新幹線に突き当たるとカクンと曲がって陸橋を降りた。陸橋その物が新幹線で断ち切られた様な形になっていたのである。
 静岡駅から約15分。登呂遺跡着。バス停は少し離れた所。
 すでに学校で習っていてその様子は写真で見ているがやはり実物を見るのはいいな、と思う子供は少なかったであろう。事実、その目的で来たであろう復元竪穴式住居や水田跡、資料館などの見学はさらりと終了。昼食は列車内で持参の弁当を食べたような気がする。
 まだ時間が早いので徒歩で海へ。約2キロくらいだ。しばし波とたわむれた後バスで静岡駅へ。そして新幹線で帰路に。「こだま」は30分毎であったが、連休中は臨時が運転され本数はその倍になっていた。よって帰りの列車の時刻は大まかな予定しか立てていなかった。
 「こだま」は静岡から新横浜まで約1時間。所要時間は「東海」の3分の1であったが乗客数は反比例して3倍どころではなくかなりの入り。バラバラにならなければ座れなかった。途中で「ひかり」に抜かれる。「ひかり」は名古屋から東京までノンストップ。静岡や新横浜に停まるものはなかった。


この年、国鉄財政再建問題検討委員会と新国鉄経営計画推進委員会が発足し、
国鉄諮間委員会から赤字ローカル線の地方移管もしくは廃止などの国鉄再建提案が出され、
藤井国鉄総裁からは国鉄再建計画が提された。


--第40号(平成20年10月5日)--

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1975年の時刻表が無い為
1978年5月号より東海道本線下り時刻表
伊東線は地震被害により伊豆稲取〜河津が
不通になっています。




 1975年3月10日、「ひかりは西へ」のスローガンのもとに建設が進められていた山陽新幹線、岡山〜博多間が開通した。その時のダイヤ改正では新幹線以外でも大きな変動があり、新設や急行からの格上げによる特急列車も増えたが一方では「高千穂・桜島」などの名門急行が姿を消した。
 しかし、まだ「電車が好き」程度だった私にはどこ吹く風。
 また、「ヨッシャヨッシャ」と上向きだった経済も1973年のオイルショックを期に下降し始めその頃にはかなり深刻な物となっていたが、トイレットペーパーの買占めもどこ吹く風。
 ふと気がつけば中学生になっていた。
 中学校は家から4kmほど離れていたが、自転車通学は不可。全員徒歩通学。
 制服はブレザー。母は息子の詰襟姿を夢見ていた様だが残念ながら1年遅かった。
 前項でも書いた様に私の代からは新設の小学校、1つ上の子供たちまでは創立100年を数える小学校と、同じ場所に住みながら通う小学校が違っていたが、中学もそのままブレザー制服の新設の中学校と詰襟100年中学校へと分かれたのであった。ちなみに3つ下の弟の代からは更に新設された別の中学(徒歩10分程、もちろんブレザー)へあがったので、その地区から私と同じ中学校へ通った子供の数は少ない。
 さて、その中学校は新設とは言え私達は第3期生。つまり今度は先輩がいた。小学校4〜6年を最上級生として過ごした私には実質上はじめての先輩であり、当然顔見知りもいない。
 先輩は大きかった。特に3年生は大きく感じた。ついこの間まで最上級生だと威張っていた自分が急に小さい物に思え、上級生に脅威さえ感じた。が、後に部活を通して付き合ううちに頼り甲斐があり頼もしくありながら親しく付き合えるという様なざっくばらんとした存在になった。よく世間では先輩の厳しさ、時には鉄拳が飛ぶ様な事が言われたりしたものだが、そんな事は一切なかった。後によく考えれば、その先輩達も実は先輩を知らない人達であって、長き歴史のうちに発生する悪しき風習的な物も一切なかったのである。
 さて、当時の私は実に多趣味であった。釣り、サイクリング、etc。もちろん鉄道にも興味はあったがそれ以上に興味を持っていたのが歴史。ただしそんな大げさな物ではない。地元の少し古い事を調べるのが好き、程度であった。
 始まりは小学生高学年の時。友人の間で「近所で土器を採る」がブームとなった。掘るのではない。採るのである。
 宅地開発により山は削られて無くなっていったが、その裾の方はさほど削られる事は無く黒い土の所は農地として使われていた。
 その農地は言うなれば開墾したばかりの土地で小石がコロコロ出る。畑の持ち主は邪魔なのでそれを農地外へ投げる。その中に土器の破片が混ざっていた。それを拾うのである。雨が降ると深い溝ができ、その中にも流されずに残っていた。それも拾った。
 小学校の先生に聞くと、それは縄文式土器でありかつては遺跡があった事も教えられ、太古の昔よりこの辺りに人が住んでいたという事に感動すら覚えた。
 中学校には課外の部活と授業の一部のクラブがあった。
 部活は友人に誘われてバレーボール部に入ったが、クラブは迷わず郷土研究クラブに入った。
 そのクラブの顧問はクラス担任の大学出たて新人先生であった。その教師とは妙に息が合った。専門は社会科。年は近い。そしてよくよく話してみれば鉄道好き。これで息投合しない訳は無い。
 クラブ活動ではよく学校外への研究に出掛けた。もっとも、名目は学外研究であっても早い話がミニ遠足である。歩いたのはバス通りなどの大きな道ではなく、車一台がやっとのような狭い道。ゆえに車の通りもほとんど無く安全という理由もあったが、教師の注意に促されて見てみれば所々に馬頭観音や庚申塔、道標などがある。つまり古代道をたどっていた訳だ。
 馬頭観音は交通手段として、また農業の担い手として馬が重要だった頃にその感謝と健康を祈って作られた物であるが、道行く途中で急死してしまった馬を供養する為に建てられたものもある。庚申塔は庚申講(60日毎に巡ってくる庚申の夜に眠ると体内から虫が出てきて神様に悪口を言われるのでその晩は皆で集まって寝ずに過ごした)に由来するもの。
 庚申塔に掘られている三猿や道標に「みぎかまくら」などと刻まれた文字を見るに連れ、それまでの狭く使い勝手の悪い何気ない裏道という印象が塗り替えられ、代わりに新しい道がどんなに綺麗であってもつまらないものに思えるようになった。新しい道にも大きな石碑が立っていたりするが、それは区画整理であったり道路開通記念であったりで、そして必ず功績のあった人の名が記されていた。
 新しい道は田圃の中や山を削った土地にまっすぐに作られた。しかし、古くからの集落ではその場所が無くせいぜいが道に沿った用水路にフタをして歩道を確保する程度であった。通学路にその様な所が何ヶ所かあり、夏になるとフタの間からつんとする臭いが立ち上った。
 もちろん通学路の途中では古道を通る所もあった。その部分にさしかかると子供たちは道幅いっぱいに広がって歩いた。車はめったに通らない。通っても事情を知った地元の車で、抜け道として傍若無人に高速で通るものは無く、車の方が子供に遠慮しながら静々と進んでいた。
 道の主役と化した子供たちは悪の限りを尽くす。
 田圃への落しっこ。肥溜めへの石投げ。竹やぶへの石投げ。……。
 田圃への落しっこはたいてい刈入れの済んだ田であったが時には調子に乗った者が田植え直後の田に落ちたりもした。肥溜めへの石投げは度胸試し。どれだけ近くからどれだけ大きい石を投げ込めるかを競うものでもちろん下手をすれば大きな痛手を負う。竹やぶでは投げた石が何本の竹に当たるかを競うもので、稀に2回や3回コンカンコンと当たる事があった。もちろんそれらの所有者がいればやらない。隙を狙ってやる。結果、学校へは苦情の電話が殺到する。
 通学路は決まっていたがその通りに帰ることはあまり無かった。一緒に帰る友人によって道が変わった。時には全く別方向の友人と帰った。その時は学校の門の所でまずジャンケン。勝った者の家の方に進む。交差点毎にジャンケンをする。そのたびに進む方向が変わる。いつまでたっても帰れない。
 登校時は忙しいのでたいてい決まった通学路を行く。だが稀に友人が弁当にパンを買うとなると道が変わった。中学は給食は無く瓶入り牛乳が1本だけ出る。だから全員手弁当となるのだが、何らかの都合で弁当が用意出来ない時は通学途中で仕入れていく事になる。私の母は几帳面に毎朝弁当を作ってくれたが、一緒に登校していた友人の中には稀に母親が寝坊したなどの理由でパンを購入する事があった。
 パンは学校近くの文具屋兼駄菓子屋でも手に入ったが、最短の通学路とは違う道筋に美味いパン屋があった。友人が買い物をしている間はたいてい外で待ったが一緒に入る事もあった。
 店に入るとショーケースの中には普段その辺の店では見られない様なパンが並んでいた。特に目を引いたのがクリームサンド。コッペパンを縦に切った間に生クリームが挟まれ真中に赤い玉がある。
 私はこれが食べたかった。しかし、母は毎日弁当を作ってくれるのでその機会が無い。そこである日私は母に明日はパンを買って持っていきたいと告げた。だだパンを食べたいと言うとサンドウィッチを作ってくれる母である。
 翌朝母は少々の昼食代を渡してくれた。思うに、中学生の腹を満たすには300円は必要だったであろう。しかも値段が少々高めのパン専門店である。弁当の方が経済的であったに違いない。おそらくは苦しい家計の中からやりくりして出してくれたのではなかろうか。
 しかし、当時の私はそんな事はつゆほども思わず、嬉しさばかりであった。今日はパンを買うからといつもとは逆に友人を遠回りの道に誘ってパンを購入。もちろん、アンパンなどの差し障りの無いものと一緒に、念願のクリームサンドを1つ買った。
 待ち遠しかった弁当の時間。差し障りの無いものから食べ、クリームサンドを最後に食べた。
 ガブリと一口かじるとクリームの甘さが口中に広がった。生クリームにはグラニュー糖が混ぜられていてしっとりとしたクリームにジャリジャリが混ざる食感も良かった。
 真中の赤い玉に近づくとパンの向きを変えて反対側から食べた。目玉を最後まで残しておこうというのである。
 かじる度にはみ出しそうになるクリームに苦戦しながらついに中央部分を残すのみとなった。
 最後の一片を口に入れる。玉をつぶさない様に注意深く噛みパンとクリームだけを飲みこんだ。
 後に残ったの玉はジェりービーンズであった。私は余韻を楽しむ様に長い事それを口の中で転がし続けた

--第36号(平成19年12月8日)--

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 今にして考えてみればぱっと見ただけでそれが修学旅行用電車であると解ったのは不思議なことである。
 現在では修学旅行にはバスもしくは新幹線や寝台列車、更には飛行機まで使う時代である。特に小学生は学校から目的地までバスに詰め込んで運んでしまった方が、何回もの乗換で行方不明になってしまう危険や他の乗客に迷惑を及ぼすことが少ない。しかし、私の頃は高速道路の不備もあったが、その年の秋に行った日光への修学旅行では、東急電鉄の宮前平駅に集合し、溝の口で乗り換えて川崎まで一般客と一緒の電車。川崎からは修学旅行用電車で日光まで、であった。
 その修学旅行列車の時刻は定かではないが、ずいぶんと早い時間に集合して日光には昼前に着いた。その辺から探ってみると東北本線に大宮9:16発で宇都宮には10:33に着く土日運転の黒磯行き臨時急行「なすの51号」というのがあり、平日は恐らくそのダイヤを利用して走っていたのではないだろうか。よって、川崎発は8:00ごろ、日光へは11:30ごろの到着であったのであろう。途中上野と大宮に停車したのは覚えている。その他は当然宇都宮とたぶん東京も停まったのであろう。もちろんドア扱いは無い。
 いづれにせよ川崎を8:00ごろの出発とあればまさに通勤時間真っ只中である。その為旅行前には駅や車内でのマナーについてとくとくと教えられ、宮脇氏の著書にあるように軍事教練ではないが、校庭で乗車の練習も行われた。
 川崎までの東急と南武線は通勤型電車である。だから数多くのドアからある程度分散してわーっと乗ってしまえば良い。溝の口の下車は「降りるぞー」の掛け声と共にドヤドヤと降りる。即座に人数確認。その点川崎駅は終着駅なので楽だ。
 問題となるのは川崎駅乗車時である。当時東海道本線は横須賀線が分離されておらずダイヤがいっぱいいっぱいで狭いホームにはひっきりなしに電車が到着しては大勢の通勤客を吐き出していた。だから専用電車も停車時間はいくらも取れない。しかもドアの数は1両に2ヶ所で幅も狭いと来ている。もたもたしていればダイヤの乱れは必至で国鉄としてもそれだけは絶対に避けたいところだ。国鉄には内部だけに通用する隠語があったが、乗客にまつわるものはこの修学旅行用電車の「ジャリ電」だけだったという。このあたりからも無理な時間に割り込んできて遅れの出やすいこの列車はかなり厄介な存在だったのであろうと考えられる。もしかすると乗車訓練の要請を各学校に出していたのかもしれない。
 川崎駅に着いた生徒たちはいったんホーム上コンコースに待機させられた。コンコースと表現したが実のところは改札口への連絡橋である。記憶があやふやで申し訳無いが、当時の川崎駅はまだ橋上駅にはなっておらず、改札口はそのコンコースを南へ行き、階段を降りたところにあった。その先には駅前広場を横断する地下道の入り口があり、その京浜急行の線路との間の駅前広場からは各方面へのバスがひっきりなしに発着していた。京急川崎駅は広場の東側の少し離れたところ。その反対側の高架下にはかつて市電の停留所があった。北側はすぐに大きな工場で、南武線のホームの途中からその工場へと引込み線が分かれていて、まさに工場地帯の為の駅という感じであった。
 だから朝晩、特に朝は通勤客でいっぱいである。その大人数をさばく為コンコースや地下道はずいぶんと幅の広いものであった。その広さを利用して生徒たちの待機場所とされたのだが、そもそもが通勤客の為のスペースなのだからずいぶんと迷惑なことであっだろう。ちなみに昼間ともなればこのスペースがもったいないくらいで、薄暗い地下道を通るのは駅前のさいかやデパートへの買い物客ぐらい。壁際には軍服に包帯姿の傷痍軍人がアコーディオンを弾いていたりして、その姿に興味と恐怖を覚えた。
 発車時刻が近づくといっせいにホームへと移動した。おそらく乗客の切れ目を狙って駅員の誘導で教師の吹く笛の音が鳴り響く中の移動であったのだろうが舞い上がっていた私達にはワーッと移動して気づいたら電車の中、という状態であった。
 車内は向かい合わせのボックス席で片側は普通に4人掛けであったがもう片方は6人掛けとなっていた。網棚は窓上ではなく背もたれの上に車両と直角にあり、座席の間には大きくテーブルが張り出していてとても狭苦しく感じた。6人掛けの方ではそのテーブルに大きな荷物が引っ掛かるなどしてスムーズに着席することができなかった。靴を脱いで座席に乗り荷物を網棚に乗せようとする子、その子のまたの下をくぐって奥の席に入ろうとする子などと混乱を極め、結局「とにかく乗ってしまえ!!」となり乗車訓練があまり活かされず、車内が落ち着いたのは発車してからずいぶん経ってのことであった。
 車窓風景はよく覚えていない。と言うよりおそらく外など見ていなかったのであろう。あっという間に日光に着いたような気がする。テーブルが空間の大部分を占めていた為窮屈だったという印象だけは強く残っているが、おやつを食べたりトランプに興じたりするには大変便利であった。ただし子供には少々高い位置であった。夜行列車にこのテーブルが付いていれば会議中もしくは授業中に居眠りしているような感覚でよく眠れたかもしれない。もっとも、みんながみんなテーブルに突っ伏しているしいう風景はかなり異様なものとなったであろう。実際に1970年の時刻表には東海道本線の末尾に品川、東京発の6本の修学旅行用電車の時刻が載っていて、そのうちの3本は昼行で京都、大垣行き、あとの3本が夜行列車で明石、下関行きである。それぞれに「ひので」「わかくさ」「こまどり」「きぼう」「わこうど」「わかば」と列車名まで記されており、「わこうど」は東京を20:55に出発して下関に翌日15:35に着くというものであった。1974年の時刻表にも「わこうど」だけが載っているが、このような専用列車の時刻がなぜ時刻表に載っていたのであろうか。
 日光駅に到着した後はバスで奥日光へと向かい、竜頭の滝、中禅寺湖、華厳の滝、と廻って日光市内の宿に泊まり、翌日は東照宮を見学して昼食の後専用電車で帰途、というさらりとしたもので、栃木県出身の両親に言わせれば「遠足コース」との事であった。当人たちの修学旅行は鎌倉、江ノ島で、くしくも一昨年前息子が向かった修学旅行も鎌倉、江ノ島で私に言わせれば「遠足コース」であるが、両親は「60年経っても変わらないのだな」と懐かしがっていた。ただし八景島がプラスされてる。
 日光からの帰途、友人の1人が熱を出してしまった。彼は狭い座席でぐったりとしていたが、この電車にはこの様な事態に備えて各車両の1箇所に座席を引き出すと簡易寝台になる所があった。しかし、満席だった為か知らなかったのかでそれが使われる事は無かった。
 さて、話を八王子に戻そう。
 そんな修学旅行用電車で仕立てられた「たてしな51号」であったが、車内のそれは修学旅行用ではなく、普通の急行電車と同じであった。
 修学旅行用電車には作られた時代によって仕様が違っていて、私が修学旅行で乗ったのは最初のタイプであった。この電車はまさに修学旅行専用仕様になっていて、修学旅行の無い時期、特に繁忙期に車庫で昼寝をするしかないもったいない電車であった。子供ですら窮屈だったのに一般客を乗せたら普通列車であっても苦情が来たであろう。そこで、国鉄はそのどちらにも使える電車を作った。洗面所と給水タンクを増設してテーブルは着脱式にした基本的には急行型電車で色だけが修学旅行電車である。先の「わこうど」は高校生を対象とした列車でこの車両が使われていた。そもそも、いくら昔の日本人の体格が小さかったとはいえ高校生にお子様用電車は無理な話である。
 「たてしな51号」もこの車両であったが、修学旅行用電車にそんな種類があることを知らなかった私はおおいに驚いた。
 更に驚いたことにこの電車は先ほどの「あずさ」と違って比較的空いていたのである。ばらばらではあったが全員が座ることが出来た。ついさっきまでの意気消沈から180度の気分好転である。
 座ったのは通路側であったが、空いているのでどちらの車窓もよく見える。誰かに臨時列車は空いているという知識が有ったのか偶然なのかどうか知らないが良くぞこの列車を選んでくれたものである。おそらくこの時の私の顔はニコニコ状態であったであろう。
 だが、やはりおそらくでは有るが、すぐにその顔はポカンに変わった事と思われる。発車していくらも経たないうちに車窓は家並みからいきなり山になってしまったからである。しかも、その山は自分の心の中に有る山とはまったく違うものであった。
 私の住まいは谷のどんずまりの様な所であった。だから3方を山に囲まれていて、「今日は西の山で遊ぼう」などと言っていた。行けば頂上で手を振っている友達が見える。そこでがさがさと草を掻き分け潅木の根を踏んでいけばすぐにポカッと上に有る団地の庭に顔を出す。その様な物が私にとっては山だったのである。崖をダンボールを尻に敷いて滑り降りる、降りたら簡単によじ登っていける。これが山であった。多摩丘陵が山だったのである。頂上に登ればスモッグの向こうに東京タワーが霞んでいる。なんとここらは自然が豊かなのだろう。(田舎なんだろう。)と思っていた。
 ところが、今目の前に有るものは何なのだろう。席が通路側というせいもあったが、頂上が見えない、谷底も見えない。
 いきなり強すぎる印象を受けてしまったせいかその後の風景の記憶がない。長いトンネルや発電所への導水管の異様な姿だけが思い出される。
 列車が終点の上諏訪に着いたときにはかなり空いていた。おそらく小淵沢あたりで大量下車があったのであろう。そこからバスで白樺湖を経由して一山越えた宿泊地に着いた。
 そこは貸し別荘地で点在する別荘を結ぶ未舗装の道の脇には自宅周辺で普通に見られるU字溝があったが、それにはどぶつき物のヘドロや臭いは無く、透き通った水が細く流れていた。それを見て私は
「うわー、きれいな水だ」
と叫んだ。すると母が
 「都会の子はかわいそうだね」
とぽつりと言った。

 この年、運輸政策審議会の国鉄地方交通問題小委員会より赤字ローカル線の民営移管などの合理化案が出された。  


--第32号(平成19年4月1日)--

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 もうひとつの水遊び場は川であった。とは言っても近所の小さな川ではない。
 近所にあった川は平瀬川と言い、川崎市の北部を水源として開発の進んだ宅地の中を流れて来るので汚れ切っていて、とても水遊び場とはならず、流れてくるごみに石やビンを投げつけて遊ぶ場であった。その川で魚の泳ぐ姿は見たことがなく、生き物で見られるものはザリガニだけであった。もちろんその姿が直接見えるのではなく、にごった水の底を網で適当にさらうと時々入ってくるというものである。その他の小川は全てドブと言った方が良く、少しドロッとした臭いのきつい水が流れていた。その様な川であってもまだぽつぽつと残っていた水田に利用されていたのだから、今にして思えばそこで採れた米がどのようなものであったのかを考えると空恐ろしくもなる。
 遊びに行った川は多摩川であった。もちろん平瀬川の様なドブ川の集合体であるから水がきれいな訳ではないが、その見えない水中には魚がいて多くの釣り人で賑わっていたし、水辺の憩いを求める家族連れも集まっていた。
 さて、水遊び場とは言ったが、実際に水に触れて遊んだ事はほとんど無く、主な川の楽しみ方はその雰囲気を味わう事であった。その主たる物がサイクリングで、多摩川の土手に設えられたサイクリングロードを時には上流へ時には下流へと、家族そろってペダルをこいだ。川が大きい分空が開けてとても気持ちがよかった。
 もちろん小学生時分には子供だけで多摩川へ行く事は許されておらず、友人と誘い合わせて川へ出かけるようになったのは中学生になってからであった。
 目的は魚釣り。釣りと言えば多摩川。それ以外で魚が連れる場所は溝の口にあったビルの中の釣堀しか知らなかった。
 まだ夜の明けないうちに誘い合わせて出かける。早く出かけるのは早朝の方が良く釣れると言うよりも、早く行かないと場所が無くなる、という理由の方が大きかった。
 場所は登戸にある宿河原堰堤下。後に水害とそのドラマで有名になった堰堤である。
 この堰堤は川崎市の農業用水取水堰で川崎側に水門がありその下流は深くなっていてテトラポットが沈められている。釣りのポイントはその下流のテトラポット部分と堰上用水流れ込み部分で、日が昇る頃には釣り人が肩を触れ合うほどに混み合った。
 そんな頃を見計らって「漁業組合」の腕章を巻いた人が遊漁料の徴収に来る。その料金は記憶に無いがおそらく100円くらいであったであろう。当時は別段気にもせず支払っていたが、今にして思えば川で魚釣りをしていながらも、実際には釣堀でやっているのと変わりは無い。いやそれどころか釣堀よりも釣れないのだからはっきり言ってぼったくりである。
 今住んでいる近所に小貝川という川があり、しっかりと漁業組合があって料金を取っている。しかし、考えてみればこの川に漁師はいない。それなのに漁業組合だけはしっかりとある。で、何をやっているかと言うと年に一度魚を放流する事と「川をきれいにしましょう」なんて看板を立てているだけ。そして、釣り人に遊漁料を払えと言っている。その割には国土交通省がガンガンやっているコンクリート護岸工事に毎年のブルドーザーを入れての川底ならしで魚の住めない川にしている事には文句を言わない。
 話がそれてしまったが、とにかく多摩川では夜明けから昼頃まで釣り糸をたらしても釣れる魚はわずかであった。
 それでも、広い川を目前にしてボーッと浮きを眺めているのは楽しかった。すぐ上流の小田急線鉄橋は頻繁に電車が通りその音が聞こえてくる。普通はその音が「ダダンダダン、ダダンダダン」であるのだが時折「ダン、ダン、ダン、ダン」と聞こえてくる。この音がすると顔を上げてそちらを見る。赤いロマンスカーが通過していく。ロマンスカーはカーブでも高速で通過できる様に車体が短く台車がその継ぎ目だけにあるので音が違う。当時鉄道知識はあまり無かったがそれは知っていた。が、それに聞きほれていると浮きが隣の人の前へ流れて行ってしまい注意された。
 さて、水遊びであるが、もちろん釣りの時はまず水に触れる事は無かった。あまり水には触れたくなかったし、下手に水音を立てると周りの釣り人に魚が逃げると注意されたからである。数少ない水遊びは父に連れられて堰堤の下部を渡り対岸に渡った時くらいである。
 春が過ぎ水遊びに程よい頃になると取水の為堰が閉じられて渡る事が出来る様になる。水門のところは所々乾いている様な状態で難なく渡れる。しかし、油断は禁物でぬれている所はぬるぬるでとても良くすべる。
 難所は中央にある魚道部分で、スロープになっている所を勢い良く水が流れている。深さは膝下ほどしかなかったが、底がやはりぬるぬるで今にも足をすくわれそうで恐ろしかった。父と弟3人でしっかりと手を繋ぎなんとか渡りきって足を見るとすねの辺りまで海苔の佃煮の様なノロノロがびっしりとついていた。
 渡りきって堰の上に登ると小田急線鉄橋の下に満々と湛えられた水の上に幾艘ものボートが浮かぶのどかな風景で、下流部は小石の川原となっており、バシャバシャやるには良かったが、1歩踏み出す度に小石の上に溜まったヘドロで足を採られそうになり、舞い上がった泥で水が濁った。帰りも魚道を横切って行く。渡り終えてホッと気が抜けたら水門下ですべり尻餅をつき、ズボンにべったりと泥とのろが付いてしまった。しかし、この様な状況が当時の私にとっては自然と触れ合うという事であった。
 そんな小学6年の夏休み。信州へ出かけようという計画が持ち上がった。顔ぶれは付合いの深かった4家族の母親と子供たち総勢12人。父親は皆仕事の都合などで不参加。子供たちに本当の自然を見せてやろう、という事の様だが、実のところは、たまには亭主の事は忘れておかみさん連中だけでわいわいやろう、という事だった様だ。
 計画は八王子から中央本線で上諏訪、そこからバスで、白樺湖の山ひとつ向こうにある姫木平の貸し別荘に一泊、帰りは茅野へ、というものであった。
 この計画を知った時私は「八王子からは「あずさ」に乗りたい」と訴えた。当時私は大阪万博と静岡の久能山へ新幹線で行った以外に関東地方から外へは行った事が無く、よって利用していたのはいつも普通電車、特急に初めて乗れる絶好のチャンスだったのである。
 私は時刻表を繰って「あずさ3号」が程よい時間である事を見出し、それを訴えたのである。
 私がいつから時刻表を読める様になったのかは記憶に無い。しかしこの頃には、夢に見た特急に乗れるとあって、中央本線のページを開いてはその日が来るのを楽しみにするという事をやっていた。時刻表は父が出張が多かった為常に家にあった。
 やがて計画が本決まりになると母から急行「たてしな51号」で行くと告げられた。ショックであった。急行ならば乗った事がある。それに色もいつも乗る普通列車と同じ緑とオレンジだ。私はしつように食い下がり出発前までグズグズ言っていた。しかし、決定は覆らなかった。どうせ急行だったら「たてしな」よりも「アルプス」に乗りたいとも訴えていた。「アルプス」も急行ではあるがこの列車にはビュッフェが付いている。普通の急行よりも上である。それも却下された。
 昭和59年8月。いよいよその日が来た。残念ながら何日であったかは記録に残っていない。
 時間に余裕を取っていたので八王子には9時30頃に着いた。これならば「あずさ3号」に乗れる、とわずかな期待を抱いたのだが並ばされた頭の上には急行乗車口の札が下がっていた。
 やがてアナウンスが特急の到着を告げ、ピカピカの車体が目の前に滑り込んできた。
 が、車内は超満員であった。デッキまで人がびっしりで八王子からの乗客は苦労して乗り込んでいた。
 せかす様にベルが鳴るとなんとか乗客を押し込んだ「あずさ3号」はしずしずと発車していった。その混雑ぶりをみてもやはり特急に乗りたいという気持ちは消えなかった。それどころか、多分急行も混んでいて座れないだろうからどうせなら特急に乗った方が良かったのに、となおさら残念に思ったのである。
 30分待って「たてしな」到着が告げられた。「あずさ」の混雑を見て座れるかどうか心配に思いつつも、いよいよとなるとやはりあまり乗った事が無い急行に乗れるとあって嬉しくなってきた。
 ところが滑り込んできた列車を見てわが目を疑った。それは緑とオレンジの急行電車ではなく黄色と朱色の修学旅行用電車だったのである。


--第28号(平成18年4月9日)--

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