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中学生入学後すぐに入った課外活動はバレーボール部であった。入部動機は「友人に誘われたから」で特に興味があった訳ではなく、それどころかほとんど体験した事すらなかった。 |
続、時刻表昭和史
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その話を言い出したのは誰だかわからない。経緯も覚えていない。入学後1ヶ月。クラス担任引率のもと、数名で静岡県の登呂遺跡へ見学に行く事になった。覚えていないが、歴史史跡と鉄道の話に私が加担していないはずはない。なおかつ私は以前訪れた事がありその辺からも私と担任教師との計画であったと思われる。 |
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1978年5月号より東海道本線下り時刻表 伊東線は地震被害により伊豆稲取〜河津が 不通になっています。 しかし、まだ「電車が好き」程度だった私にはどこ吹く風。 また、「ヨッシャヨッシャ」と上向きだった経済も1973年のオイルショックを期に下降し始めその頃にはかなり深刻な物となっていたが、トイレットペーパーの買占めもどこ吹く風。 ふと気がつけば中学生になっていた。 中学校は家から4kmほど離れていたが、自転車通学は不可。全員徒歩通学。 制服はブレザー。母は息子の詰襟姿を夢見ていた様だが残念ながら1年遅かった。 前項でも書いた様に私の代からは新設の小学校、1つ上の子供たちまでは創立100年を数える小学校と、同じ場所に住みながら通う小学校が違っていたが、中学もそのままブレザー制服の新設の中学校と詰襟100年中学校へと分かれたのであった。ちなみに3つ下の弟の代からは更に新設された別の中学(徒歩10分程、もちろんブレザー)へあがったので、その地区から私と同じ中学校へ通った子供の数は少ない。 さて、その中学校は新設とは言え私達は第3期生。つまり今度は先輩がいた。小学校4〜6年を最上級生として過ごした私には実質上はじめての先輩であり、当然顔見知りもいない。 先輩は大きかった。特に3年生は大きく感じた。ついこの間まで最上級生だと威張っていた自分が急に小さい物に思え、上級生に脅威さえ感じた。が、後に部活を通して付き合ううちに頼り甲斐があり頼もしくありながら親しく付き合えるという様なざっくばらんとした存在になった。よく世間では先輩の厳しさ、時には鉄拳が飛ぶ様な事が言われたりしたものだが、そんな事は一切なかった。後によく考えれば、その先輩達も実は先輩を知らない人達であって、長き歴史のうちに発生する悪しき風習的な物も一切なかったのである。 さて、当時の私は実に多趣味であった。釣り、サイクリング、etc。もちろん鉄道にも興味はあったがそれ以上に興味を持っていたのが歴史。ただしそんな大げさな物ではない。地元の少し古い事を調べるのが好き、程度であった。 始まりは小学生高学年の時。友人の間で「近所で土器を採る」がブームとなった。掘るのではない。採るのである。 宅地開発により山は削られて無くなっていったが、その裾の方はさほど削られる事は無く黒い土の所は農地として使われていた。 その農地は言うなれば開墾したばかりの土地で小石がコロコロ出る。畑の持ち主は邪魔なのでそれを農地外へ投げる。その中に土器の破片が混ざっていた。それを拾うのである。雨が降ると深い溝ができ、その中にも流されずに残っていた。それも拾った。 小学校の先生に聞くと、それは縄文式土器でありかつては遺跡があった事も教えられ、太古の昔よりこの辺りに人が住んでいたという事に感動すら覚えた。 中学校には課外の部活と授業の一部のクラブがあった。 部活は友人に誘われてバレーボール部に入ったが、クラブは迷わず郷土研究クラブに入った。 そのクラブの顧問はクラス担任の大学出たて新人先生であった。その教師とは妙に息が合った。専門は社会科。年は近い。そしてよくよく話してみれば鉄道好き。これで息投合しない訳は無い。 クラブ活動ではよく学校外への研究に出掛けた。もっとも、名目は学外研究であっても早い話がミニ遠足である。歩いたのはバス通りなどの大きな道ではなく、車一台がやっとのような狭い道。ゆえに車の通りもほとんど無く安全という理由もあったが、教師の注意に促されて見てみれば所々に馬頭観音や庚申塔、道標などがある。つまり古代道をたどっていた訳だ。 馬頭観音は交通手段として、また農業の担い手として馬が重要だった頃にその感謝と健康を祈って作られた物であるが、道行く途中で急死してしまった馬を供養する為に建てられたものもある。庚申塔は庚申講(60日毎に巡ってくる庚申の夜に眠ると体内から虫が出てきて神様に悪口を言われるのでその晩は皆で集まって寝ずに過ごした)に由来するもの。 庚申塔に掘られている三猿や道標に「みぎかまくら」などと刻まれた文字を見るに連れ、それまでの狭く使い勝手の悪い何気ない裏道という印象が塗り替えられ、代わりに新しい道がどんなに綺麗であってもつまらないものに思えるようになった。新しい道にも大きな石碑が立っていたりするが、それは区画整理であったり道路開通記念であったりで、そして必ず功績のあった人の名が記されていた。 新しい道は田圃の中や山を削った土地にまっすぐに作られた。しかし、古くからの集落ではその場所が無くせいぜいが道に沿った用水路にフタをして歩道を確保する程度であった。通学路にその様な所が何ヶ所かあり、夏になるとフタの間からつんとする臭いが立ち上った。 もちろん通学路の途中では古道を通る所もあった。その部分にさしかかると子供たちは道幅いっぱいに広がって歩いた。車はめったに通らない。通っても事情を知った地元の車で、抜け道として傍若無人に高速で通るものは無く、車の方が子供に遠慮しながら静々と進んでいた。 道の主役と化した子供たちは悪の限りを尽くす。 田圃への落しっこ。肥溜めへの石投げ。竹やぶへの石投げ。……。 田圃への落しっこはたいてい刈入れの済んだ田であったが時には調子に乗った者が田植え直後の田に落ちたりもした。肥溜めへの石投げは度胸試し。どれだけ近くからどれだけ大きい石を投げ込めるかを競うものでもちろん下手をすれば大きな痛手を負う。竹やぶでは投げた石が何本の竹に当たるかを競うもので、稀に2回や3回コンカンコンと当たる事があった。もちろんそれらの所有者がいればやらない。隙を狙ってやる。結果、学校へは苦情の電話が殺到する。 通学路は決まっていたがその通りに帰ることはあまり無かった。一緒に帰る友人によって道が変わった。時には全く別方向の友人と帰った。その時は学校の門の所でまずジャンケン。勝った者の家の方に進む。交差点毎にジャンケンをする。そのたびに進む方向が変わる。いつまでたっても帰れない。 登校時は忙しいのでたいてい決まった通学路を行く。だが稀に友人が弁当にパンを買うとなると道が変わった。中学は給食は無く瓶入り牛乳が1本だけ出る。だから全員手弁当となるのだが、何らかの都合で弁当が用意出来ない時は通学途中で仕入れていく事になる。私の母は几帳面に毎朝弁当を作ってくれたが、一緒に登校していた友人の中には稀に母親が寝坊したなどの理由でパンを購入する事があった。 パンは学校近くの文具屋兼駄菓子屋でも手に入ったが、最短の通学路とは違う道筋に美味いパン屋があった。友人が買い物をしている間はたいてい外で待ったが一緒に入る事もあった。 店に入るとショーケースの中には普段その辺の店では見られない様なパンが並んでいた。特に目を引いたのがクリームサンド。コッペパンを縦に切った間に生クリームが挟まれ真中に赤い玉がある。 私はこれが食べたかった。しかし、母は毎日弁当を作ってくれるのでその機会が無い。そこである日私は母に明日はパンを買って持っていきたいと告げた。だだパンを食べたいと言うとサンドウィッチを作ってくれる母である。 翌朝母は少々の昼食代を渡してくれた。思うに、中学生の腹を満たすには300円は必要だったであろう。しかも値段が少々高めのパン専門店である。弁当の方が経済的であったに違いない。おそらくは苦しい家計の中からやりくりして出してくれたのではなかろうか。 しかし、当時の私はそんな事はつゆほども思わず、嬉しさばかりであった。今日はパンを買うからといつもとは逆に友人を遠回りの道に誘ってパンを購入。もちろん、アンパンなどの差し障りの無いものと一緒に、念願のクリームサンドを1つ買った。 待ち遠しかった弁当の時間。差し障りの無いものから食べ、クリームサンドを最後に食べた。 ガブリと一口かじるとクリームの甘さが口中に広がった。生クリームにはグラニュー糖が混ぜられていてしっとりとしたクリームにジャリジャリが混ざる食感も良かった。 真中の赤い玉に近づくとパンの向きを変えて反対側から食べた。目玉を最後まで残しておこうというのである。 かじる度にはみ出しそうになるクリームに苦戦しながらついに中央部分を残すのみとなった。 最後の一片を口に入れる。玉をつぶさない様に注意深く噛みパンとクリームだけを飲みこんだ。 後に残ったの玉はジェりービーンズであった。私は余韻を楽しむ様に長い事それを口の中で転がし続けた --第36号(平成19年12月8日)-- |
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今にして考えてみればぱっと見ただけでそれが修学旅行用電車であると解ったのは不思議なことである。 |
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もうひとつの水遊び場は川であった。とは言っても近所の小さな川ではない。 |





