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違和感

私は違和感という言葉をよく使いますし、重要視もしております。

ちょっと変だな・・・程度の根拠の薄い第六感みたいな解釈で使っておりますが、一般的にもそんな解釈で通るように思います。

私はドラマは殆ど見ませんが、話題になった「相棒」だけは見ておりました。

杉下右京が違和感を重要視していた部分に共感し、ストーリーの整合性にも感心できたからです。

以前に友人と飲みながら「相棒」の話題になった時に、私が友人に問いかけました。

「もしも杉下右京が実在して、友達だとしたらどうだ?」

なんともぶっきらぼうでツカミ所のない質問ですが、友人がどう答えるかは予想がついていました。

友人は案の定、「ウザイだろうな。友達にならないと思うぞ。」と答えました。

実は少々安心したのです。

言うまでもなく私は杉下右京ほど知識もありませんし、頭の回転も速くはありません。

しかし、理屈っぽいところや違和感に拘るところなんかはちょっと似ている気がしていたのです。

どうやら私の理屈っぽさなんかは、友人にとっては許容範囲のようです。


おそらく多くの人はちょっとした違和感なんかは見過ごす場合が多いように思います。

小さな事に拘るのは世間一般的には小心者・小人物と見られがちですし、人間関係にも悪い影響を及ぼしがちになるからです。

人間誰しも隠しておきたいところや触れられたくない部分はあります。

又、会話の中でも聞き流して欲しいという発言もあるでしょう。

デリカシー云々ということになってきます。

集団生活には向かない癖ですね。

しかし、「相棒」があれだけヒットしたということは、多くの人にそんな部分の鬱憤があったのではないかと私は思っております。

逆に言えば、杉下右京の拘り具合やツッコミ具合にある種の快感を感じていたのではないかと思うのです。

よくわからないけど何か変だ、でも聞いたら嫌われるような気がする・・・そんな場面て、けっこうありますよね。

結論から言いますと時と場合でしょうし、利害や上下関係なんかも考慮しなければならないでしょう。

違和感の扱いは慎重でなければなりません。

よくわかっていないわけですからね。

矛盾なんかも扱いは似たようなものですが、矛盾の場合は違和感と違って根拠が明確です。

口にするかしないかは、判断のみの問題ですね。


ちょっと気分で違和感についての理屈を並べてみましたが、実は原発のニュースを聞いているとそんなことが頻繁にあります。

どうも情報を小出し気味に感じますし、少しづつ広げているように思うのです。

原発情報は難しいですし、知識もあまりないので違和感ばかりを感じます。

まだ重大な何かが隠されているように思えるのです。

それは東電だけではなく、政府も含めてです。

杉下右京みたいな奴が現れて、政府と東電を問い詰めろよ!と思うのは私だけでしょうかね?

北海道に住んでいても近い将来にガンか白血病で死ぬ運命なのかも・・・なんて怯える今日このごろでありました。


では!

見当違いかな〜?

最近、気になっていることがあります。

それは接客についてなのですが、店舗の形態によっての違いが鮮明なってきているように感じるのです。

最初は些細な事から違和感を感じました。

コンビニでレジに向かうとそこには誰もいません。

店内を見渡すと一人が棚整理をしておりました。

大抵のコンビニは通常は二人体制だと思いますので、もう一人はおそらく裏で品出しかなんかをしていたのでしょう。

客は店内に私を含めて二人でしたし、いつレジに向かうかもわからないでしょうから、その時にレジに誰もいない事に対しての不満などは全くありませんでした。

私はレジに買いたい品物を置いたのですが、店員の来る気配がありません。

どうやら気が付いてくれていない様子です。

私は棚整理をしていた店員のほうを向いて「すいませ〜ん」と控えめ調の声を発しました。

気が付いた店員はやや急ぎ足でレジに向かってきます。

慌てた様子でもありません。

おそらくは、よくある事なのでしょう。

その時点では私にはなんら不満はありませんし、違和感も感じていませんでした。

問題は次です。

レジについた店員は、何事も無かったかのようにレジを始めます。

実は私が感じた違和感はこの時点です。

「すいません、お待たせしました。」がありません。

違和感とは、言うまでもなく不快感です。

けっして大きくはありませんけどね。

その程度の事と言ってしまえばそれまでですが、そこには何らかの意味があるように思います。



私は昭和の人間ですがコンビニはよく利用しますし、極たまに大手外食チェーンやファストフードなんかも利用します。

それらを利用してて、入店時や会計時等に待たされることは珍しいことではありません。

そして「お待たせしました」の一言が無いのも珍しいことではないのです。

無論、皆無ということでもありませんが・・・

チェーン形式の店舗に行くと必ずと言っていいほど発せられる大きな声での挨拶は気持ちのいいものです。

マニュアル通りの対応だと分かっていても悪い気はしませんね。

しかし、それだけ挨拶を徹底していながらも「お待たせしました」が無いというのは解せません。

不可抗力とは言え、待たされるのが好きという人がいる筈もありませんからね。

それに、そんなに難しい一言でもありません。

おそらくは多くのチェーン店では意図的にマニュアルに載せていないと私は考えております。

その意図とは、待たせる事を「過失」と定義する訳にはいかないということなんだろうと思います。

「待つ」という感覚の尺度は人それぞれであり、曖昧と言えば曖昧です。

極端に言えば10秒でも「待った」と感じる人もいれば、5分待たされても何も感じない人もいるでしょう。

そこで仮に「お待たせしました」をマニュアルに載せた場合に、新たに発生する問題が平等感の問題です。

時間で区切っても店員のそれぞれの感覚で区切っても、平等感を損なう恐れがでてきます。

「あいつには言って、俺様には言わない・・・」なんて思う客もいるでしょう。

基本、客の感覚なのですから、線引きなんぞ出来る筈もありません。

つまり「過失」を認めないことで、平等感を優先したということのように思います。

極たまに「お待たせしました」を発する店員もおりますが、それは条件反射的なことや個人の勝手な裁量であり、厳密に言えばマニュアル違反者なのかもしれません。

心のこもっている場合が多いように感じますからね^^

上記した諸々が私の見当違いでなければ、それは全店舗均一のサービスを目指すが故のジレンマとも言えると思います。

そう考えると他にも似たようなことがあるのかもしれません。

どうしょうもないんでしょうかね〜?


大手チェーンが従業員個々のの裁量や力量に大きく期待しないという形態はわからないでもありません。

「余計な手柄はいらないから、言われた事だけをキチンとこなせ」というスタンスは均一には必要ですし、それだけマニュアルの精度にも自信があるのでしょう。

しかし、上記した例で客が不快感を持つのも事実ですし、個人店へ行った時に「おまたせしました」と言われると当たり前の事なのに妙な安心感を感じます。

平等感の優先は理屈上は理解出来ますが、現場ではどうなんでしょう?

市場や商店街が買い物客のメインであった時代、各店主は今とは違う競争意識を持っていたと思います。

その中にはおそらくそれぞれの特別な接客技術があり、それとは別に一般的応対もあったでしょう。

看板娘なんて言葉も、そんな時代の名残になってしまいましたね。

そんな昭和が全てにおいて良かったとは申しませんし、現実として古いスタイルは衰退した訳ですから、総合的には劣っていたのでしょう。

しかし、普通が普通として通用し、常識が常識として共有出来ていた時代であったようにも思えます。

つまり、「普通は、お待たせしましたって言うよなぁ〜」という当たり前が共有できていたと思うのです。


この記事は「お待たせしました」がマニュアルに無いという仮定の上で進めてきました。

もしもあったら、ごめんなさい^^

でも、ちょっと気にしてみて下さい。

実際に「お待たせしました」を言うチェーン店は少ないと思いますよ。

因みに外食チェーンの食べ物が来た時は例外ですね。

そこはマニュアルにあるような気がします。


では!

馬鹿親馬鹿

当然と言えば当然ですが、世間では震災及び原発関連の話題ばかりで記事の投稿も自然とその事が中心となってしまいます。

不謹慎かもしれませんが、多少はウンザリ感を抱いている方も少なくはないでしょう。

原発の知識にも疎く現地の状況もテレビを通じてしか見ることの出来ない方々にとっては、専門用語を連発するイライラ報道もけっこうあるのではないでしょうか?

実は私もそんな部類でありまして、最近は断片的な情報しか仕入れておりません。

北海道は今のところは節電という雰囲気でもありませんし、ただ淡々とした日々が流れております。

そんな訳で、つい先日に銭湯で会ったバカ親のことでも書きたいと思います。

私はいつも行くスーパー銭湯の券売機の順番待ちをしておりました。

人気のスーパー銭湯なので、混み合う時間帯は入浴券を買うのも順番待ちであります。

もう少しで私の番というところで、券売機の前に立っている親子がもたついておりました。

よく見ると幼稚園児くらいの子供に券売機のボタンを押させようとしております。

幼児ですからスンナリと目的のボタンを選択することは出来ない様子です。

「○○ちゃーん、はい、これ押してよ〜」

バカ親の気色の悪いトーンが聞こえます。

なんの教育かは知りませんが、後ろで並んでいる客の大半はイラっときたでしょう。

KYと自己中がセットになったような奴であります。

しかし、誰も何も言いません。

仕方ないので私が言いました。

「後ろにたくさん並んでるだろう!状況を考えろボケ!何が○○ちゃ〜んだ!」

私に言わせるとこんな言葉になります。

残念ながら優しく注意する器量は持ち合わせておりません。

他の誰も言わないのが悪いのです^^

しかしそのバカ親は負けん気の強い奴で、

「はいはい、わかりましたよ〜すいませんねぇ〜・・・些細なことでゴチャゴチャ言うなやな〜・・・」

なんて呟いております。

「いいから、さっさとどけ!ボケ!」

「ボケとか言うなやな〜・・・」

などと何かしら返してきます。

まぁ、私の言い方にも問題はあったのでしょうが相手は確信犯です。

つまりウッカリとか間違いなどではなく、後ろに大勢が並んでいることを知っての親バカ行為です。

クドイようですが、私はそんな図々しい奴に対して優しく言う器量人ではありません。

バカ親子はぶつぶつ言いながら脱衣場へ向かいましたが、その後は浴場でも顔を合わせませんでした。

どうやら避けてくれたようです。


浴場などの公共の場で親バカ行為を目にすることは珍しいことではありません。

少子化の現代において「子供様」の増加傾向はやむを得ないようにも思えますし、昔ほど嫌悪感は感じなくなってまいりました。

しかしその風潮を逆手にとったような度を越えたバカ親にはやはり怒りを感じます。

それと同時に何も言わなくなった多くの他人にもイライラ感はあります。

バカは増長します。

時には歯止めも必要だと思うんですけどねぇ〜

違いますかね?



では!

サービスと平等感

私はお金について「サービスを受ける為に必要なもの」という認識を持っています。
 
お金については様々な見解はあるとは思いますが、そのように考えると一番シックリとくるのです。
 
税金を払うのは行政上のサービスを受ける為とも考えられますし、物の購入や飲食なども他人からのサービスの提供と考えられます。
 
そしてお金はそのサービスの提供に対する評価基準であり、「適正な対価」として認められることによって精神的満足感を得るのです。
 
そこで問題となるのが「適正な対価」かどうかということです。
 
飲食店に入ってカップラーメンを出されて、それがたまたま美味しくても、お会計で1000円を要求されたら満足する人は誰もいないでしょう。
 
又、市街化区域に住んでいながら、いつまでたっても上下水道やらのライフライン等の整備すらなされなければ、市民税を払っているのが馬鹿馬鹿しくなってきます。
 
よって、サービスを提供する側は、常に平等感や世間標準や新たなサービスの概念を意識しながら顧客満足を目指さなければなりません。
 
そんな意味において私はコンビニに注目しております。
 
普段、何気なく利用するコンビニではありますが、そこにはあらゆるサービスのノウハウが隠れております。
 
一次的な従業員マニュアルや商品陳列、レジシステム等もさることながら、発注システムや搬入システム等々においても優れたサービス提供形態のひとつであると思っております。
 
それに比べれば役所なんて30年以上も遅れていますね^^
 
 
先日、あるスナックに飲みにいった時に、平等感の話になりました。
 
最近の通信カラオケは、客が自分で選曲できるようになっており、その端末には困ったことに割り込みボタンまであるのです。
 
割り込みは順番という原始的な平等感を損ないます。
 
それに対する評価は、当然のことながら店主と一致したのですが、仮に同じ人が割り込みではない場合で二曲続けて入っていたらどうする?という話になりました。
 
店主は「その人に言って、二曲目を後回しにしてもらう」と言うのです。
 
私は首をかしげました。
 
二曲連続で入っていようが、そこで入曲順が守られているならば、店主の裁量という曖昧な基準で順番という平等感を損なって良いものだろうか?と考えた訳です。
 
客の全てが常に歌いたいわけではありませんし、二曲連続で歌いたい人も中にはいるでしょう。
 
お店側のルールとして「混雑時に二曲連続はご遠慮ください」という感じのものが確立されているのであれば別ですが、それを臨機応変と考えるには少し無理があるような気がいたしました。
 
店主があまりにも自信満々でしたので私は言葉を控えましたが、とても違和感のある会話でありました。
 
平等感というとても馴染みのある抽象的な表現ですが、具体的に突き詰めていきますと人それぞれ違った感覚でもあるようです。
 
サービス全般で具体的に考えると、まだまだ複雑になりそうな感じですね^^
 
 
では!
 
 
 
 

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自己紹介

色々な方々とお話をしておりますと、人は如何に自己紹介好きであるかということに気が付きます。
 
一番ポピュラーで顕著な例が、食べ物の好き嫌いを楽しそうに語る光景ですね。
 
尋ねてもいないのに、延々と理由まで語る人も少なくはありません。
 
又、ご年配の方々の持病自慢もよく耳にいたします。
 
話はどんどん膨らんで、対処方法やお医者さんの良し悪しなどの情報交換にもなりますから、まんざら無駄な井戸端会議とも言えないようです。
 
私の知人にもとても自己紹介が好きな奴いて、周りの人間は皆がそいつの事を詳しく知っています。
 
言うまでもありませんが、知りたくて知っているわけではありません。
 
 
私は自己紹介癖が嫌な癖だとは思っていません。
 
会話が途切れた時などは有難い場合もありますし、余程の自慢話とかではなければ、聞いていてもそんなに苦にはなりません。
 
ただ、矛盾を感じることはよくあります。
 
例えば「それは一般的には、恥ずかしいこと」などと客観目線で言うと怒り出す場合なんかです。
 
素直に肯定してあげれば何のことはないのでしょうが、世間一般という基準は確保しときたいという思いもありますので、自然とそれがツッコミになるのです。
 
本人からすると、「微笑ましいワガママ」に真っ向から非常識の烙印を押されるわけですから、面白くないのもわからないではありませんが、自分を晒すリスクも考えて話すべきだと思うのです。
 
誰もが常に肯定してくれるとは限らないというリスクです。
 
まぁ、問い掛けに答えた自己紹介であるならば、別ですけどね^^
 
 
それと聞くに堪えない自己紹介のパターンもあります。
 
自慢話もそうですが、それよりも話題の少ない人の自己紹介やら身内話やらです。
 
これは辛いです。
 
自慢話の場合は大振りの単発攻撃ですが、ネタ不足の奴の自己紹介の場合は手数の多いジャブ攻撃のようなものです。
 
長時間に渡り、ジワジワと効いてきます。
 
話題を変えようとしても、すぐに戻されます。
 
知らない話題は受け付けないのです。
 
これはある特定の人間の事というわけではありません。
 
話題の少ない人ほど自己中心的になりがちではないかと思うのです。
 
逆に考えれば、聞き手が多い人、聞き上手という人は、話題が少ないということはないでしょう。
 
そいう人はどんどん話題が膨らむ筈です。
 
 
よく「足して2で割れば丁度いい」なんて表現がありますが、けっしてそうはならないのが人間社会の難しいとこですね^^
 
長所の多い人はどんどん長所が膨らみますし、短所の多い人は短所が膨らむんですね^^
 
肝要なのは自身の長短をよく理解しておくことなんでしょうなぁ〜
 
こんなことを考えれる俺って、凄いなぁ〜^^
 
 
では!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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