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さて、前回の続きを書きたいと思います。
前回はハッキリと述べませんでしたが、観点や視点をズラせば反論や正論はいくらでも作る事が出来ます。
ディベートなどでは当たり前の手法なのでしょうが、ちょっと頭の回る人ならば、会話の最中であっても論点を巧みにズラして切り返す事は、そんなに難しい事ではないでしょう。
政治家同士のTV討論などでは、そんな事がしょっちゅうですから、聞いていても消化不良を起こしそうな気分になってきます。
ましてや研究家同士の誌上対決などは準備時間が十分にある訳ですから、攻撃に対する反論の創作などはかなりの完成度で出来るでしょう。
都合のいい史実や調査結果などを抜粋し、有利な基準を勝手に設定して上手に組み立てればよいのです。
よく言われている事ですが「現在の価値観で過去を評価すべきではない」という理屈があります。
これは一瞬は、ごもっともと思ってしまいます。
しかし、よくよく考えると必ずしもそうではないケースもあると思います。
「現在は違法であっても、過去は合法であったので、その責任は追求出来ない」という表現に置き換えて考えてみましょう。
実は私自身もちょっと前までは、そのように考えていました。
しかし、例えば国連憲章などの整備が不十分な時代の絶対君主制におけるホロコーストはどうでしょう?
現在の国際法や倫理観で考えれば、確実に非難の対象です。
しかし絶対君主制の国家であれば、君主が法という場合が大半でしょうから、当時は合法であったとしましょう。
そんな過去は非難出来ないでしょうか?
ナチスのユダヤ人に対するホロコーストはこれに近いケースですが、ニュルンベルグ裁判では人道に対する罪という新たな概念を導入してこれを裁きました。
その概念は東京裁判にも導入された訳ですが、それはナチスと同一に考えるべきではないと思いますのでちょっと置いておきます。
私は現在の価値観で非難すべき過去もあるんだと思います。
曖昧なようですが、ケースbyケースだと思います。
「非難」や「批判」という観点で考えると感情論も入ってきて難しくなりますが、「反省」という観点で考えると昔は合法であろうが悪い事は悪いと考えるべき絶対悪というのはあると思います。
話を戻しますが、私は「現在の価値観で過去を評価すべきではない」というのは正論を組み立てる上での「設定」との見方も出来ると思います。
つまり結論を導く為の基準を理論に組み込んでいるという事です。
勘違いしないで欲しいのですが「現在の価値観で・・・」は、正論なんだと思います。
しかし、ケースによっては完全な正論となり得ない場合もあり得るという事です。
これはほんの一例ですが、なるほど論理的と思える文章も、よくよく読めばこのような著者の主観よる是非の基準設定というが何気なく入っている場合が少なくはないと思います。
まぁ、私も自分よりも程度が劣ると思った相手にはよく使う手法ではありますが、私の場合はまだまだ未熟だと思っています。
しかし、この手法を有名大学の教授や専門の研究家が使っているとしたならば、なかなか素人には見抜けないでしょう。
文章のプロというのは、おそらく他にも色々な手法を隠し持っているのでしょう。
その技術と歴史研究を組み合わせたなら、鬼に金棒と言ってもいいかもしれません。
学生や私レベルの人間を洗脳する事くらいは朝飯前でしょう。
近代史認識の問題は複雑な難問だと思います。
それは先人達の思惑が複雑に絡んでいる事もそうですが、現代人の思惑や利害関係も大きく反映している問題だからであります。
プロパガンダや意図的基準設定などに惑わされない客観的な視点を持ちたいものです。
では!
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