|
2001年に始めたマオイストに関するこれまでの取材を本としてまとめるために、英語で原稿を書く作業を続けている。何十冊にもおよぶノートをひっくり返しながら、頻繁に思うのは、「あのときに会ったあの人は、今生きているのだろうか」ということだ。私が最初に「マオイスト」に会った場所はカトマンズだった。第一回停戦中の2001年9月に、マオイスト側の対話団メンバーだったクリシュナ・バハドゥル・マハラにインタビューをした。その後、10月にシンドゥパルチョークのある村で、初めて「ツァパマール(武装ゲリラ)」に会った。このときに会ったマオイストのうち、すでに3人が死亡していることがわかっている。1人は女性マオイストで、他の仲間7人とともに治安部隊に拘束され、拷問を受けたあとに射殺された。1人は昨年、治安部隊に見つかり、逃げるところをはやり射殺された。もう1人はマオイストの学生組織のメンバーだが、マオイスト側により殺害されている。地元の警察に捕まリ、釈放されたあと、マオイストとすぐに接触をしなかったために、‘スパイ’の疑いで殺害されたと聞く。私が会った人のなかで、殺されたことを聞いて、最も衝撃を受けたのが、マオイストの機関紙「ジャナディシャ」の編集長で詩人のクリシュナ・センと、「マオイスト被害者の会」会長のガネシュ・チルワルの死亡を聞いたときだった。センは2002年に非常事態が発令されているとき、警察に逮捕され、マヘンドラ・ポリス・クラブ内で拷問を受けて死亡した。このニュースを最初にスクープ報道したのは週刊紙「ジャナアスタ」だった。「カンティプル」紙もこの情報をつかんでいたものの、報道しなかった。センはマオイストではあったが、非常にジェントルな性格の人物で、党外の人にも信頼されていた人物だ。ガネシュ・チルワルは、ネパール会議派の党員であることを理由に、マオイストにより拷問を受けたあと、ラムジュン郡の村を離れてカトマンズに住み、彼と同様に、マオイストによる被害者や国内難民を集めて、「被害者の会」を作った。彼は、バグバザールのプラノ・バス・パークの裏側にあるオフィスを出たところを、マオイストの2人組に暗殺された。このオフィスには私も何度も通って、全国から集まる被害者の話しを聞いた。3年前にはチルワルが呼びかけ人となって、ダサイン祭でも実家に帰ることができない人たちを集めて、ラトナ公園で「ボーズ」を開いた。私も‘招待’され、彼らが作ったダル・バートを食べたことを思い出す。チルワルが亡くなったあと、「被害者の会」は内部分裂が進んで、まったくまとまりがなくなってしまった。 |
マオイスト情報
[ リスト ]




