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今回のロルパ行きは、出発前から、ロルパに入ることができるかどうかという懸念があった。まず、政府が9月第三週から、ネパールガンジから西ネパール行きの飛行機への外国人の搭乗を禁止したと報道されたことから、陸路での入域も制限されるのではないかという懸念があった。さらに、同行者の一人が「マオイストがダサインとティハール祭のあいだには、誰もロルパに入れないと話している」という情報を得ていた。この間に、カトマンズで噂されていたマオイストの中央委員会議がロルパで開かれる可能性が考えられた。結局、この噂はロルパに入ってから、真実とはことなることが明らかになったのだが、党首のプラチャンダをはじめとする95人の中央委員が集合する会議が開かれるとしたら、マオイストは厳しい入域制限をすることが明らかだ。いろいろと不確定要素はあったのだが、私たちはロルパ行きを決行することにした。同行者はカンティプル紙記者とマガル族の学生リーダーの2人。2人はタバン村からロルパに接する別の郡に行くことになっており、そのあと、私は一人で北ロルパから東ロルパに行く予定だった。
10月6日、私は飛行機でネパールガンジに向かった。ダサイン前ということもあり、同行者2人のスケジュールもぎりぎりまで詰まっており、学生リーダー‘J’とは7日にダン郡ゴラヒで、カンティプル紙記者‘U’とは8日にダン郡バルワンで合流することになっていた。8日朝7時、Jと私はゴラヒから、ロルパの郡庁所在地リバン行きのバスに乗った。地元の知り合いに前もってチケットを買っておいてもらったおかげで、前列の席を確保できたが、バスはダサイン祭でピュータンやロルパの実家に帰る人で満員だった。通路にまで人があふれかえり、屋根にまで大勢の人が乗っていた。ハイウェーでの治安部隊のチェック・ポストでは、何も問題はなかったのだが、ピュータンとロルパの境界に近いラマチャウルのチェック・ポストで少々問題が生じた。私が軍の兵士にネパール政府発行の記者証を見せていると、武装警官が走ってきて「ちょっと待て」と言う。警官は私を脇に呼び寄せると、手にしていた無線で「マティ(上司)」と相談を始めた。そのあと、「何をしにきたのだ」と質問をされたため、「マオイストの停戦中のロルパがどんな様子かに見に来たのだ」と答えた。すると、「上と相談をするから、少し待ってほしい」という。同行者のUが心配して戻ってきた。警官は私のパスポートのコピーを取り上げると、名前と番号を写し取った。そのあと、再び、無線で相談を始めたが、結局、「OK」の返事が出たらしく、「引き止めたことを気にしないでほしい」と、丁寧な言葉で謝った。このあと、この警官に「停戦中の様子」を聞いたところ、「つい昨日、ロルパのクングリ村で、王室ネパール軍の兵士の家族の家をマオイストが爆破・焼き討ちした。停戦とは言っても、われわれには関係ない。マオイストも活発に行動している」と言う。
チェック・ポストで引き止められたのは、これまで10数回におよぶマオイストの取材で、これが初めてのことだった。警官は決して、失礼な態度を見せたわけでなく、むしろ丁寧な話し振りだったが、やはり、当局側にマオイストの地域への外国人の入域に関して何らかの方針変更があったような感触を受けた。ラマチャウルから半時間ほどで、ピュータン郡からロルパ郡に入る橋に出る。この手前で雨が降り出した。橋を渡ると、クングリ村だ。しばらく走ると、道路の右端に焼けたばかりの2軒の家があった(上の写真)。チェック・ポストの警官が話していた、マオイストに昨日焼き討ちされた家だった。家主は郡庁所在地のリバンに住んでおり、家は空き家だったようだ。ここからさらに1時間ほどで、目的地のスレチャウルに着いた。すでに午後5時近くなっており、今日は、ここに宿泊することにした。
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