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タバンに来て3日目の朝、同行者のUとJは実家がある隣りの郡に行くために北へ向けて出発した。私はこの日、もう一度モデル学校を見に行き、翌日タバンを出る予定だったのだが、後に予定を変更することになった。タバンに着いてすぐ、タバン村出身のマガラト自治区人民政府議長のサントス・ブラ・マガルとの会見を、ロルパ郡人民政府議長の‘チリン’にリクエストしたのだが、「ルクムに行っていて、しばらくは戻らない」という答えだった。今思うと、中央委員でもあるサントス・ブラは、プラチャンダ党首らも出席した党拡大会議に出席していたことになる。マオイストにとって、‘歴史的決定’を行ったこの会議はルクム郡のある村で、18軒の家を借り切って、15日間にわたって開かれたと聞いた。後になって知ったのが、会議が開かれた村は、私が滞在していたタバンから徒歩数時間と、非常に近いところにあった。
この日朝、泊まっているところから300メートルほど離れた共同トイレに行った帰り、1人の女性に「ミス!」と呼びかけられた。2年半前にタバンに来たとき、5日間泊めてもらった家の奥さんだった。2日前にタバンに来たとき、この家の窓や戸が閉まっていたため、不在なのだろうと思っていたら、昨日たまたま家族で帰ってきたのだという。「ジャガイモを食べに来て」と言われたため、3階の台所に上がった。前回来たときには、熱を出して寝込んだ私にお湯を沸かしたり、ジャガイモを焼いてくれたり、ずいぶんと世話になった。囲炉裏を囲んで彼女と話すうちに、前回私が来た直後から、彼らはこの家を離れて、奥さんの実家がある近くの村に住んでいることがわかった。「食器も家具も寝袋も彼ら(マオイスト)に持っていかれて、何も残っていないのよ」と彼女は話す。彼女たちはマオイストではないのだが、治安部隊が村に来ると逃げなければならない。「マオイストと治安部隊のあいだにはさまれて、ここで暮らすのが難しくなったの」と、この家を離れた理由を話した。
モデル学校には一人で行った。昨日歩いたときには1本道のように思えたのだが、丘に上がる道を間違えてしまい、昨日の倍の時間がかかってしまった。3年生のクラスに行くと、ネパール語の授業で、「ダンテャカタ(伝説)」を教えていた。5人の目の見えない人たちが象の身体に触って、「象とはどんなものか」を語る話だ。触った箇所が異なるため、それぞれの意見が合わず喧嘩になるというお話である。突然、先生に、日本語の「ka,kha,ga,gha」を教えてほしいとリクエストされ、黒板に「あいうえお」の50音とネパール語で発音を書いた。子供たちが熱心にノートに書き取る。先生が小さな地球儀を持ってきて、日本の位置を教えてくれた。3年生は9人の生徒のうち、6人が父親を人民戦争で亡くしている。最年長のラビン君(14歳)は、マオイストの党員だった父親を警察に殺害されていた。兄もマオイストだという。「革命について学べるので、この学校が好き」だと話す。12歳のビマルチャン君は元教師でマオイストだった父を政府側に殺害され、母を病気で亡くしていた。弟(2年生)もこの学校で学んでいる。12歳のビノドゥ君はダリット・カースト出身の両親が、タバンにある党の裁縫産業部で働いているという。「僕も学校を終えたら党員になりたい」と言う。
午後3時に授業が終わったあと、2階にある‘校長室’(といっても、4畳ほどの部屋で、男性教師2人はここで寝泊りしている)で校長や党の教育局の地区長らと話しをした。「ジャナバディ・シッチャ(コミュニスト教育)」とは、唯物論に基づいて、労働を愛し、正直で独立した人間を作ることだと校長は話す。この学校では、肉体的体罰は絶対に与えない、また、試験重視の点数主義もとらないと言う。
この日の夜、新しいルームメートがやってきた。マオイストのFMラジオ局「ラジオ人民共和国ネパール」の女性記者‘アンビカ’だった。最初に会ったときの自己紹介で、「私の名前はビセシュ・チェトラ(特別区)の人は皆知っているのよ」と話した、アンビカはショートカットでズボンにシャツ姿の非常に活発な女性だった。いつも手に無線電話をもっており、党機関紙の「ジャナデシュ」にも記事を送るのだといって、ベッドの上で記事を書いていた。この夜、武装マオイストのグループもタバンに来ていたことを翌日朝知った。
写真上は、タバンで開かれたプログラムで歌を歌う人民解放軍のエリート部隊である中部師団マンガルセン第一連隊所属のカルチャーグループ。
写真下は、マンガルセン第一連隊所属の女性兵士。国軍である王室ネパール軍の制服と区別をつけるために、左肩に「P.L.A.」(People’s Liberation Army;人民解放軍)の赤い縫いつけがある。
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