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“カンチャン”こと、アグニ・サプコタは5年前に会ったときよりも、さらに細くなったように見えた。サプコタ家は党内でも有名な“マオイスト一家”だ。40代後半になるカンチャンは5人兄弟の次男だが、病気で亡くなった長男を除く4人兄弟全員がマオイストの党員で、シンドゥパルチョーク郡の党インチャージを務める末の弟の“バンドゥ”もこの日の集会に来ていた。多くのリーダーが経験していることだが、サプコタ家からも人民戦争の犠牲者3人を出している。そのうち2人が、亡くなったサプコタ兄弟の長男の息子である。1人は1998年6月に警察に殺害され、もう1人は2001年11月のソルクンブー郡サッレリ襲撃で戦死した。そして、もう1人の犠牲者がバンドゥの長女スバドラだった。バンドゥの話によると、当時14歳だったスバドラは、1999年3月に起こった有名な“アネコット事件”の7人の犠牲者の1人だった。この事件は、歌や踊りのカルチャー・プログラムを終えて、マオイストのカルチャー・グループのメンバー7人が民家に集まっていたところを、警官隊が家に火をつけて外におびき出し、7人全員を射殺したものだ。リーダー格の少年は17,8歳で、少女4人を含む他のメンバー全員が14歳から15歳という年齢だった。
集会は安全を考慮して、くぼ地にある段々畑で開かれた。最初はずいぶん参加者がすくないなと思ったのだが、集会が始まっても、スローガンをあげながら来る人が絶えず、最終的には数千人を超える人が集まった。演説の合間合間に、アネコット事件にちなんで命名された「アネコット記念文化中隊」の少年少女たちが歌や踊りを披露する。昨年10月にロルパ郡タバン村で会ったばかりのマオイストの学生組織ANNISU(革命)のレクナス・ネウパニ会長が演説をする。ネウパニも一昨年、新婚の妻を治安部隊に殺害されている。ネウパニは、「民主化運動だけでは、封建主義者を終わらせることはできない。武器をもたないとだめなのだ」と、武装闘争の必要性を説く。そして、「われわれは10年間、サトゥ(トウモロコシや大豆の粉を混ぜた食物)を食べて戦ってきた。これけらはサトゥを袋に入れて、カトマンズに行く」と話した。一方、メイン・ゲストであるカンチャンは最後に2時間におよぶ演説をした。まず、「治安部隊が四方を包囲しているにもかかわらず、こうして、集会に来てくれたことを感謝したい」と話し、「われわれも過去に過ちを犯した。人々からの暖かいマヤ(愛)を忘れた。党内で汚職もあった。人々を尊敬しなかったことも認める」と、さかんに謝罪の言葉を繰り返していたのが印象に残った。
集会が終わったのは午後6時近かった。集会場からさらに2時間歩いたところにあるシェルターで、カンチャンは“記者会見”を開いた。私は翌朝、ロルパ郡出身の女性マオイスト“ウサ”にインタビューをした。実は、ウサは4人の人民解放軍副コマンダーの1人で、カトマンズ盆地を含むリング・エリアに駐屯する第三師団を率いる“アナンタ”の妻でもある。ウサは女性として、初めて、人民解放軍大隊のコミッサーになったリーダーで、以前から会いたいと思っていたロルパ出身マオイストの1人だった。まさか、今回の取材で会えるとは思っておらず、予想外の収穫だった。
今回の取材で、何よりも驚いたのは、カトマンズからこれほど近いところ(おそらく、直線距離にして、50キロほどしか離れていないと思う)で、トップ・クラスのリーダーが参加して、これだけ大きな集会が開かれたことだ。周囲には治安部隊のキャンプが少なくとも数箇所あるにもかかわらず、ここでマオイストが集会を開いているという情報を、政府側がまったくつかんでいないことは明らかだった。王室ネパール軍は「われわれはすでに、マオイストの背骨を折った。治安はコントロールされている」と主張しているが、少なくとも、それは首都圏だけの話しで、カトマンズ盆地から一歩外に出ると、状況はまったく異なることを再認識した。
この日の集会については、やはりプログラムに“招待”された週刊誌「Nepal」のボドゥラジ・バタ記者と、「Kantipur」のウジル・マガル記者が「United We Blog!」に書いている。(http://www.blog.com.np/?p=1123#more-1123)
写真上は、無線電話で通話をしている“カンチャン”。
写真下は、「アネコット記念文化中隊」の踊り。
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