Kathmandu Journal

東日本大震災の被災者の方たちの復興を祈って

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 今日、プラノバネスワルにある小劇場「グルクル」で小さなプログラムがあった。東ネパールの山村に住む美しい女性の不幸な結婚生活を淡々と描いた映画「ヌマフン」で有名になった映画監督ナビン・スッバ(38歳)ら、50人余りの映画関係者が「デモクラティック映画製作者フォーラム」を結成し、結成式と記者会見をかねたプログラムが開かれたものだ。このフォーラムは、「ロクタントラ(民主主義)」をスローガンとして、民主化を求める市民の運動に参加するために結成されたもので、民主化を通じて、映画制作分野での表現の自由を実現することを目的としている。

 ナビン・スッバの話しによると、ネパールの映画は、1990年の民主化後も検閲制度が厳しく、脚本だけでなく、映画のなかで歌う歌の歌詞までも情報通信省の管轄下にある映画委員会に提出して、許可をとらねばならなかった。そのために、政治をテーマにした映画が検閲を通過することは難しく、「アゴ(火)」や「バリダーン(犠牲)」、「ビール・ガネシュマン(勇敢なガネシュマン)」など数えるほどしか製作されていない。私は後者の2本しか見ていないのだが、「バリダーン」はパンチャヤト時代の反政府運動をテーマにしたもの、「ビール・ガネシュマン」は1990年民主化運動の最高指導者ガネシュマン・シンの一生(というよりも前半生)をテーマにした映画だ。「バリダーン」は左翼系詩人マンジュールの歌詞で、左翼系歌手のラメシュが歌う歌がヒットして、「ガウン・ガウン・バタ・ウタ(村々から立ち上がれ)」は現在進行中の市民グループの集会で、毎回最後に歌われている。

 2月1日の政変以後は検閲だけではなくて、映画上映まで制限されるようになり、「アゴ」と「バリダーン」は実質的に上映禁止、「ビール・ガネシュマン」も、先日、ポカラの映画館で上映しようと試みたところ、ポカラのCDO(郡行政長官)からストップがかかり上映できなかったという(監督のビジャイ・ラトナ・トゥラダルの話)。

 映画関係者のなかには2月1日クーデターのあと、国王の動きを支持することを明らかにした人も少なくない。「アーマー(母)」、「ヒジャ、アジャ、ボリ(昨日、今日、明日)」、「パリバルタン(変化)」など、パンチャヤト時代には、パンチャヤト政策を浸透させる道具として製作された映画もある。現在のネパール映画界で活躍する役者も、ほとんどが政治と関わることを敬遠しており、フォーラムの参加者のほとんどは監督やカメラマンなどだ。

 フォーラムはナビン・スッバが中心となって、9月9日から7政党と市民グループによる街頭運動の撮影を始めた。これまで、ネパールで起こった歴史的な出来事を記録した映像がほとんどないことから、今回の運動を記録映像として残すことがこの活動の目的だ。今日の結成式では、こうした記録した映像から「民主主義とネパール」というタイトルのドキュメンタリー映画を製作することを宣言した。フォーラムは、製作にかかる費用はすべて自前でやっている。映画作りを仕事とするネパール人による、初めての試み。応援したい。

上の写真の手前に座っているのがナビン・スッバ。下はフォーラムのコーディネーターで映画監督のデシュバクタ・カナル

 22日後半の出来事は、現在、この国を支配する軍が、司法を超えて何をしているのかを知る良い機会を与えてくれた。クリシュナ・K.C.(31歳)はマオイストの学生組織ANNIFU(革命)の元副会長で、逮捕された2003年当時は、ラリトプル市のビューロー(党責任者)だった。彼とは会ったことはなかったが、2003年1月に停戦が宣言される少し前から、彼がパタンのイン・チャージで、対話コーディネーターと接触するメインのマオイストの1人であることは聞いていた。第二回「停戦劇」に、彼が関わっていたことも耳にしたことがあった。党内での地位がそれほど高くはなくとも、首都圏で活動するメインの1人として、名前が知られたマオイストだった。K.C.は、第二回対話が失敗におわり、マオイストが停戦を一方的に破棄した直後の2003年9月に、カトマンズ市コテスワルで、週刊紙「ジャナアスタ」の記者とともに逮捕され、それ以降、行方がわからなくなっていた。彼の妻ドゥルガ・K.C.は夫の行方を捜して、国内外のありとあらゆる人権団体に助けを求めたもの、政府側は彼を「逮捕していない」という返答をしたために、訴訟を起こしても受け付けられない状態だった。しかし、今年に入って、国家人権委員会が、K.C.がゴルカ郡の軍施設に留置されていることを公にしたため、彼の妻は再度、夫の身柄を保護する訴訟を最高裁に起こしていた。裁判に出席するために、K.C.は昨日、ヘリコプターでゴルカからカトマンズに移送され、今日、公の前に姿を現した。

 午後3時すぎに最高裁に行くと、すでに弁護士による弁論が始まっていた。最高裁の7号室は、大勢の人権活動家やメディア関係者で埋められ、数十人の立ち見が出るほどだった。K.C.は妻のドゥルガと著名な人権活動家のパドマ・ラトナ・トゥラダルにはさまれて、2列目のベンチに座っていた。判決が出るまでの休憩時間に、クリシュナ・K.C.に直接インタビューをすることができた。彼の話しによると、逮捕されてからの6,7ヶ月のあいだは、24時間、目隠しをされ、手を縛られたまま、頻繁に車であちこち移動させられたために、軍の施設であると言うこと以外には、どこに入れられているのかさえもわからなかったという。一番ひどい拷問を受けたのが、カトマンズ市内のマハラジガンジにあるバイラブナス部隊で、ロルパ郡の元国会議員バルマン・ブラ・マガルの義理の息子が、彼の目の前で殴られて死亡するのさえ見たという。ここには、他にカトマンズで逮捕されたあと行方がわからなくなっている、マオイストの学生リーダー、ヒマール・シャルマやギャネンドラ・トリパティもいたという。一時期は「マオイスト」の容疑で62人がここに拘留されていたが、そのほとんどはマオイストとは関係のない人たちだったとK.C.は話す。この兵舎内で、昨年、拷問死したバルマン・ブラの義理の息子もマオイストではなかった。チャウニにある軍施設では、インドのニューデリーで捕まったあとにネパールに引き渡された政治局メンバーで第二回の対話団メンバーのマトリカ・ヤダフにも会ったという。ヤダフはかなり健康を害しており、「健康体に戻らないだろう」とK.C.は話していた。

 午後5時すぎ、最高裁は「K.C.を拘置しておく理由はなし」として、彼の釈放を求める判決を下した。しかし、問題はこの後に起こった。裁判が進行中から、最高裁の門の前には数台の警察のバンが止まっており、K.C.の「再逮捕」が予測された。それがはっきりとしたのは、判決が出るころになって、私服の警官や軍の治安部隊が大量に裁判所内に侵入してからだった。再逮捕がほぼ確実であることがわかってから、K.C.と家族、国連人権高等弁務官事務所の外国人スタッフ、国家人権委員会のメンバーらを含む人権活動家と一部のジャーナリストとらが最高裁の事務局の責任者の部屋に集まり、対策を練りだした(写真一番上)。国家人権委員会のメンバー、スディプ・パタクも駆けつけたものの、委員会はK.C.の移動のために車を出すことをしぶり、K.C.がいかにして最高裁を出るかが問題となった。一方、警察高官が「K.C.を別の用件で起訴する」という意向を伝えてきたために再逮捕が確実となった。一時は最高裁に泊まるという案も出たが、最高裁の部屋のなかまで私服の治安部隊が大勢入り込んできたために、これも実現せず、国家人権委員会の車で拷問の影響で健康を害したK.C.を病院に運ぶということになった。しかし、彼を車に移動させようとすると、治安部隊が彼を連れ去ろうとしたために、これも失敗。結局、担当弁護士が警察側と話し合って(写真2番目)、警察側が「人権活動家らの前で、尋問のためにK.C.を連行する」という書類を作り、これに基づいてK.C.は警察に「逮捕される」ことで一件落着となった。警察は今晩、K.C.をハヌマンドカに拘置したあと、明日、彼を病院に連れて行くことにも同意した。結局、午後9時近くになって、K.C.は警察に連行されていった(写真3番目)。

 それにしても国の司法の最高峰である最高裁の判決が、これほど容易に無視されるとは。「再逮捕」の命令が軍側から出ていることを、現場にいたある警官が間接的にもらしていた。K.C.も最高裁に連れてこられたときに、軍の士官に「必ず、また逮捕してやる」と言われたと言っていた。今のネパールが軍により支配されていることを示す一つのケースだ。K.C.は、少なくとも軍の拘束下から警察の拘束下になったことで、拷問・殺害を受ける可能性は減少した。これまでにも、官憲側が最高裁の判決を無視して再逮捕したケースはたくさんあるが、最高裁のなかにまで私服の警官・治安部隊が大勢入り込んで再逮捕したのは、初めてのケースだ。このケースを「ネパールの一部で起こっていること」と軽く見るのは大きな間違いだ。これはむしろ、国家の側による人権侵害ケースの氷山の一角と言っていい。

 「絶対王政」とは何なのかを、表と裏から目の当たりにした1日だった。まずは、22日の前半に経験した「表」の部分から。ギャネンドラ国王夫妻は22日午前10時からラリトプル市のクプンドルからプルチョーク、パタンドカ、マンガルバザールへと行き、さらにそこからジャワラケルのマヘンドラ・ユバラヤに歩いていく予定だった。そのために午後1時までメイン道路は封鎖されると伝えられていた。自宅のあるクプンドルから歩いてヒマラヤ・ホテル前を通ると、100メートルおきに国王を歓迎する赤い横断がはられていた。パタンドカを入ると、国王が通るルートにあたる道路は紙の旗で飾られ、道々で公立校の生徒たちが国旗や花を手に、すでに待機していた。マンガルバザールに行くと、入り口の横にある寺院が報道関係者用として決められており、そこで外国人観光客を含めた人たちが国王の到着を待った。

 しかし、11時になっても、12時になっても、午後1時になっても国王夫妻は到着せず、午後2時すぎになって、ようやく姿を現した。地方での市民歓迎集会では、国王はたいてい軍服姿だが、今日はベージュのクルタ・スルワル姿だった。国王よりも前に「ラジャバディ(国王派)」が現われて、女性が1人で「国王は誰のもの?国民のもの!」「国民は誰のもの?国王のもの!」というスローガンをあげるが、これに従う人はあまりいなかった。観客のなかで腕をあげてスローガンをあげる人もいたが、少数であるためにとにかく目立つ。隣にいたカメラマンが、思わず、「マンダレ(国王派のギャング)が姿を現した」と一言、口にしていた。国王は何とかコメントをとろうと身体を乗り出した報道関係者とも言葉を交わさず、一般市民ともあまり話さずに、花を受け取りながらマンガルバザールを歩いて行った。

 結局、国王を一目みようときた市民も、学校から強制的にかりだされた生徒たちも、4時間近くを待たされた。昼食の時間をはさんだ時間帯ということもあり、皆空腹を訴えていた。学校の生徒が多いのが目立った。大量動員の手段として最も容易な学校を利用するのは、マオイストも国王も同じである。国王が歩いた道路は花などのゴミで汚れていた。これだけの人を動員して、時間を使って、こうしたパフォーマンスをすることにどんな意味があるのだろう。力の誇示以外に何か意味があろうのだろうか?

 

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 次は、同じ日に最高裁で起こった、マオイストの再逮捕劇の写真です。詳細は、このあと、追って記事を書きます。

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 とりあえず、写真を紹介します。まず、国王のパタン訪問から。

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