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タバンでの2日目、モデル学校から戻ったあと、私はマオイストの学生組織ANNISU(革命)のレクナス・ネウパニ会長にインタビューをした。マオイストの教育方針など、いろいろな事に関してしばらく話をしたあと、私は彼に気になっていたことを聞いた。それは、昨年、バラ郡で治安部隊に殺された彼の妻のことだった。マオイストは党の規則として、党内結婚しか認めていない。したがって、ネウパニの妻もマオイストだった。2人は結婚したばかりで、お互い活動地域が異なるため、一緒に過ごした期間はそれほど長くなかった。それでも、週刊紙「ジャナアスタ」に掲載された、ネウパニが妻を思って書いた長い手紙2本を読むと、ネウパニが非常に心を痛めている様子が伝わってきて、ずっと気になっていた。これまでマオイストの取材をするなかで、政府側に殺害されてパートナーを亡くしたマオイストには、ずいぶん大勢会った。そのなかには、配偶者を政府側に殺害されたためにマオイストになった人も大勢いた。彼らの悲しみを推し量ることは難しいが、「個人的な悲しみよりも党が大事」という言葉も何度か聞いた。また、悲しみを‘ドゥスマーン(敵)’である国家への憎しみに転化しているような感じを受けることも多かった。ネウパニも、言葉を多くは使わず、妻がバラ郡でどうやって殺害されたか、簡単に説明してくれただけだった。
この夜、モデル学校で2年半ぶりに再会した‘シーラ’と同室になった。消灯してから、隣りのベッドに横になったシーラとしばらく話をした。このとき、彼女が今年はじめに結婚していたことを知った。相手はロルパ出身のマオイストで、DCM(郡委員会メンバー)だという。党内の先輩から紹介されて知り合ったあと、マガラト自治区人民政府議長のサントス・ブラ・マガルも出席したジャナバディ・ビバハ(コミュニスト結婚式)をしたのだと嬉しそうに話した。「新婚旅行はタバンに来たのよ」と言う。いろいろと話しているうちに、彼女はどうやってマオイストになったのかを明らかにした。「(2001年11月の)ゴラヒ襲撃までは、マオイストが誰なのかも知らなかった」のだとシーラは話した。平野部出身のシーラの家は比較的裕福な家庭のようだった。もともと左翼政党のサポーターだった父親がマオイストになったあと、父親の勧めで入党したのだという。インドで薬学を学んだ彼女は党にとっても貴重な存在なのだろう。彼女らの結婚式に大勢のリーダーが参加したらしいことからも、それがわかる。昨年10月、私がロルパのガルティガウンでサントス・ブラ・マガルと会ったこともシーラは知っていた。サントス・ブラ本人から聞いたのだという。マオイストは結婚すると、たいてい夫婦で異なる活動地域をあてがわれるのだが、シーラは夫の受け持ち地域が近いため、頻繁に会えるのだと話した。マオイストの夫婦関係というものは、当然、一般のネパール人の夫婦とは異なるものだ。何よりも、マオイストは男も女も、個人の生活よりも党の仕事を優先させられる。それでも、シーラが幸せになってほしいものだと思った。
上の写真は、タバン村で歌を歌って楽しむ人民解放軍の兵士たち。制服を着ていても、彼らは屈託のない若者だ。
下の写真は、壁に書かれたマオイストの党首‘プラチャンダ’の「私たちは笑いながら泣いている。泣きながら笑っている」という言葉。若いながらも人間の悲喜を経験しているマオイストたちの心情を表しているのかもしれない。
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