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今日の日刊紙Nagarikが、亡くなったギリジャ・プラサド・コイララは肺がんを病んでいたというスクープ記事を掲載していた。2006年の4月革命のころ、医師団はコイララ党首がガンにかかっていることがわかっていたが、本人には亡くなるまで知らされなかったという。コイララ党首の政治にかける精神力を下げないために、娘のスジャータや甥のシャシャンカら、ごく一部の家族にしか知らされなかった。昨年、病状が悪化してシンガポールに運ばれたときには、あちらの医師に「もって半年の命」と言われたそうである。おそらく、先が短いことは本人も知っていたのだろう。ハイレベル政治メカニズムの発足を焦ったのも、自分がいなくなったあとの準備のためだったようだ。
毎日、ギリジャ・バブに関するさまざまな追悼記事が掲載されている。さまざなま記事を読んで感じるのは、ギリジャ・プラサド・コイララは大勢の政治家を産出したコイララ家のなかでも、最も革新的な人物だったということだ。コイララは息子をもつ未亡人と結婚しているが、これは当時、ネパールの、とくに保守的なバフン(ブラーマン)の社会では考えられないことだった。コイララは、ラナ時代にビラトナガルにあるジュート工場における労働運動を率いて政治の世界に入るが、パンチャーヤト時代には飛行機ハイジャックの首謀者でもあった。彼が一般党員のあいだで広く慕われたのも、こうした背景があってのことである。ある意味で、プラチャンダよりもずっと「革命的な」政治家だったともいえる。和平プロセスのなかで、プラチャンダがコイララを他党リーダーのなかで最も近しい政治家と感じたのも、コイララ党首の伝統や習慣を何とも思わない革新的な性格を理解していたからかもしれない。私は何度かこのブログで、「コイララ党首には(いい意味でも悪い意味でも)持って生まれた権威が血のなかに存在する」という意味のことを書いたことがあるが、コラムニストのC.K.ラールは「ギリジャ・バブはつねに“ビドロヒ(叛乱者)”だった。“サッタ(権力)”には決してなることはなかった」と書いていた。党内での独裁的なやり方や、自分と合わない政治家を除去しようとする行動から、コイララ党首という人物は“権威”そのものであったといえる。だからこそ、ネパール会議派の第二世代のリーダーは、コイララ党首が誤っていると思っても、直に意見をすることができなかった。コイララ党首の権威は、地位が生み出したものではなく、コイララ家の歴史と、コイララ自身の政治の歴史が生み出したものである。その意味で、“地位”による権威しかなかったギャネンドラ国王とは、根の深さと強さがまったく異なるものだったのである。
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2010年03月23日
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