Kathmandu Journal

東日本大震災の被災者の方たちの復興を祈って

ロルパ取材記

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新年、明けまして、おめでとうございます。

お正月休みであるにもかかわらず、このブログを見てくださっている方々に感謝をいたします。さて、2006年最初の記事は「取材記」の続きです。

 今回の取材は、いろいろな意味でいつもとは違ったものとなった。まず、カトマンズから偶然、7人のジャーナリストたちが同じ時期にロルパを訪れたために、私がいつも一番避けたいと思っていたグループでの行動を強いられた。マオイストのbase areaに取材に入ると、大抵、彼らが食事や宿泊する家をアレンジしてくれる。別の言い方をすれば、彼らが指定した所で食事や宿泊をしなくてはならない。今回は、国内外のジャーナリスト12人がロルパ郡ババン村で開かれたプログラムの4日後に、ルクム郡ルクムコット村で開かれることになっている集会を見に行くことになったため、ババン村からルクムコット村までの数日間、行動を共にすることとなった。とはいえ、7人のグループの男性陣は、あまり山歩きに慣れていないようで、歩く速度が遅いため、ババンからルクムコットまでの3日間におよぶ移動時に、私はマオイストと一緒に歩いた。上りを歩くときには、さすがにおしゃべりをする余裕はないが、ババンを発った2日目、ロルパのイリバン村からルクムのチュンバン村につながる川沿いの道を歩いたときには、中央委員メンバーで人民解放軍第5師団のコミッサー“スダルシャン”こと、ヘマンタ・バハドゥル・オリと話しながら歩くという貴重な機会を得た。

 ルクム郡チュンバン村は10月末にマオイストの党中央委員総会が開かれた村だ。ロルパのタバン村にも近く、山襞に抱かれたこの村はマオイストにとって安全な地域のようだ。ババンを出てから2日目、チュンバン村に泊まった私たちは翌日、朝食をとったあと、正午近くにルクムコットに向けて出発した。すぐに上りが始まる。ルクムコットに行くには峠を一つ越さなければならない。第5師団のツァパマール(武装マオイスト)に混じって歩き出した私は、休みなしに2時間ほど山を上り、峠を越えて、午後4時半にはルクムコット村の中心集落に着いていた。私とカメラマンのKの2人はここで、残りの人たちを待ったのだが、いつになっても現れない。膝を痛めた最年長の作家カゲンドラ・サングラウラは、イリバンからマオイストがアレンジした馬に乗っていたのだが、彼も現れない。そのうち暗くなったため、私たちは宿泊先の民家に連れて行かれた。荷物を解いて、台所で家の家族と話をしているうちに午後8時をまわった。それでも彼らは現れない。ようやく彼らが集落に入ったという連絡が届いたのは午後8時半ごろのことだった。彼らを待つ間に、私はこの家の家族といろいろな話をすることができた。話をするうちに、何年か前から、彼らの家や畑を含む全財産をマオイストが占拠していることがわかった。それは人民戦争による別の形の被害者の典型的なストーリーだった。

写真は、2003年3月に最初にルクムコットを訪れたときに撮影した中心集落。村のはずれにある美しい池には、はすの花がたくさん浮いていた。

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 ロルパのババン村で集会が開かれた翌朝、“ビプラブ”と“プラバカール”が出席した記者会見が開かれた。峰に横たわるババン村の朝はかなり寒い。畑や道端には霜が下りていた。民家の庭にカーペットやむしろを敷いて、野外の臨時記者会見場が設置された。私はマオイストのFMラジオである「共和国ネパールラジオ」の女性記者アンビカ・チャンダと並んで、ビプラプのすぐ前に陣取った。こんな形でマオイストのトップ・クラスのリーダーが、カトマンズからきたジャーナリストと会見をするのは、おそらく初めてのことだろう。2人のリーダーの横には作家のカゲンドラ・サングラウラと左翼系コラムニストのハリ・ロカが座る。まず、ビプラプが先日の中央委員総会でなされた決定を説明した。そのあと、武装戦略についてプラバカールから説明があった。そのあと、私が質問の口火を切って、人民解放軍の兵士の将来について、そして、戦略的攻撃の第2プランの詳細について聞いた。マオイストは制憲議会選挙のあと、彼らの武装勢力である人民解放軍を「ラストリヤ・セナ(国家軍)にする」と言っているが、それはどういう意味なのか。“第2プラン”については、プラバカールが今後は「東は西を向き、西は東を向く」、つまり、カトマンズ盆地をターゲットにするプランを明らかにした。「制憲議会の選挙に負けても、本当に結果を受け入れるのか」と私が質問すると、ビプラプははっきりと「受け入れる」と言った。「もし、王制が残ることになったら、それでもあなたたちは結果を受け入れることができるのか。党内から謀反者が出ることはないのか」としつこく聞くと、ロルパ出身のビプラプは「私たちが一番、ハードライナーだ。したがって、私たちが受け入れるといったら、党員はそれに従う」と答えた。私がさらに「“私たち”というのはロルパリ(ロルパの人)のことなのか。それとも指導者層ということなのか」と聞くと、ビプラプは笑って、「両方のことだ」と答えた。

 ここに詳細を書くことはできないが、3時間近くにおよんだ記者会見で、2人のリーダーは私たちの質問に対して、飽きることなく丁寧に答えてくれた。実は、今回のロルパ取材の最大の目的は、マオイストのトップ・クラスのリーダーにインタビューをすることだった。そのため、記者会見とは別に2人に対する個別インタビューをリクエストしていたのだが、この日は時間がなくなり、3日後にルクム郡ルクムコットで開かれるプログラムの後に時間を割いてくれることになった。つまり、私を含めたカトマンズからの“ジャーナリスト団”一行全員が、歩いて3日かかるルクムコットまで行くことになったのである。

 この日は午後、ババン村の北西にあるランシ村の峰にあるポカラ・バザールまで行き、学校の宿舎に泊まった。グループの同行者がいない私は、以前ルクムで会ったことのあるマオイストの女性組織のラプティ県責任者であるビマラと、彼女のアシスタントの少女と同室になった。カゲンドラ・サングラウラやハリ・ロカを含む7人の男性陣は向かいの部屋に泊まったのだが、夜遅くまで声高に談笑をするのが聞こえた。その後も、彼らの“グループ行動”にはかなり辟易することになるのだが、ロルパまで取材に来たのか、それとも、おしゃべりに来たのか、思わず疑いたくなるような行動だった。

写真は記者会見をするビプラプ(左)とプラバカール(右)
 

 カトマンズ盆地の南に接するマクワンプル郡の村から帰った知り合いが言っていた。「7政党とマオイストのあいだで同意が成立したあと、村人たちのあいだで期待が高まっている」。マオイストの“首都"と言われるロルパ郡タバン村を取材した記者が『The Kathmandu Post』に書いていた。「“同意"成立後、タバンのマオイストのあいだでも平和に対する期待が膨らんでいる」。しかし、こうした話や報道を、私はなぜか全面的に信用できずにいた。今回、ロルパをルクムを歩いてさまざまな人たちと話して、7政党との“同意"後、変化が訪れたという報道については、少なくともこれらの地域では正しくないことを実感した。一般の村人の側に、伝えられているような期待や変化を見ることはできなかった。

 大きな変化があったのは、むしろマオイストの側だ。際立った変化の一つは、党員の武装化である。10月末にルクムのチュンバン村で開かれた党中央委員拡大会議で、これまで3師団あった人民解放軍の兵力を7師団に増やす決定をした。単純に計算しても、1万人以上の武装マオイストを新たにリクルートしなくてはならないことになるが、党拡大がすでに飽和状態に達して、新党員1人をリクルートすることさえ困難なときに、彼らはどうやってこれを実現するつもりなのだろう。この疑問については、ロルパに着いて、何人かのマオイストと話をしたときに、すぐに一つの答えが返ってきた。「非武装の党員を人民解放軍のメンバーにする」というのである。「党員の50%を武装化する」という戦略だという。「党全体を武装化することが、そもそもの目的だ」と話すリーダーもいた。実際に、コマンダーやコミッサーのなかには、党の組織あるいは人民政府のメンバーから、人民解放軍に移動になってきた人が大勢いた。以前に会ったマオイストの消息を聞いたときに、「彼は(彼女は)セナ(軍)に行った」という答えが頻繁に返ってきた。

 一方で、倍増した兵力を賄うには、多額の金がかかる。これをどこから調達するつもりなのか。ロルパに建設中の“サヒド・マルグ(殉教者ハイウェー)”のプロジェクト責任者“スールヤ”によると、「産業・農業を発展させて、そこからの歳入増加を見込んでいる」という。しかし、“歳入増加”につながるような独自の産業を確立させていない現状で、これは非現実的な話に思える。別のマオイストによると、「“増税”をする予定である」というが、こちらのほうが現実的だ。つまり、一般の村人の経済的負担が増えるというわけだが、こうなるとマオイストのやり方も中央政府と変わらない。

 村人からの“徴収”が増えるのは、ロルパ・ルクムに限ったことではない。今日、カトマンズの東にある、ある郡の村から来た知り合いに会ったのだが、彼の村では、最近、マオイストが借地を耕している農民(小作農)すべてから、地主に収める穀物の1割を集めだしたという。7政党との“同意”が成立しても、マオイスト以外の政党のメンバーが村々に戻れるような状況にならないかぎり、真の意味の変化は始まらない。

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 ババン村で開かれた「ロクタントリク・プラダルシャン・アビヤン(民主化デモ・キャンペーン)」のメイン・ゲストは、“ビプラプ”“プラバカール”“スダルシャン”の3人だった。最初に演説したビプラプはまず、11月にルクム郡チュンバン村で開かれた党中央委員拡大会議の決定事項を説明し、「武装闘争だけでなく、政治的闘争にも力を入れることを決定した」と、先日、7政党とのあいだで成立した同意について説明した。とくに、「ジャナバド(コミュニズム)」や「プラジャタントラ(民主主義)」という言葉でなく、「ロクタントラ(民主主義)」という新しい言葉を意識して使い、今後は7政党とともにロクタントラのために政治的運動を行うことになったことを明らかにした。次に演説したプラバカールは、マオイストが今後の戦略として、「西(ネパール)は東を見、東(ネパール)は西を見る」という表現を使って、「カトマンズ盆地を標的にする」ことを明らかにした。「背骨を折って頭を攻撃する」という表現も使っていた。背骨とは、カトマンズ盆地に近い地域。頭とは、主要官庁があるシンガダルバルのことだと言う。

 集会が始まってまもなく、ビプラプが演説をしているときのことだった。会場がざわざわとしだし、地面に座って演説を聞いていた村人たちが立ち上がりだした。司会をするコマンダーの“アビナース”が「ヘリコプターが来たわけではないので、静かにするように」と何度も呼びかけるが、村人は立ち上がって集会場を去りだした。最後のスダルシャンが演説をするころには、集会場を埋めていた群衆は3分の1ほどに減っていた。どうやら、会場で「ヘリコプターが空襲に来た」という噂が立ったらしい。1週間前に西ロルパのジナバン村で、第5師団が初めて集合したプログラムの現場に王室ネパール軍のヘリコプターが空襲をし、同師団コマンダーの“スニル”らが死亡したばかりである。村人が逃げ出すのも無理はない。あとで聞いた話だが、逃げ出す村人を叱って殴りつけるマオイストもいたそうである。

 集会が終わりに近づいて、もう一つのハプニングがあった。何と、国民的人気コラムニストのカゲンドラ・サングラウラや左翼系知識人のハリ・ロカを含むメディア関係者7人のグループが会場に向かっているというのである。彼らはプログラムのことを知らずに、ロルパの状況を“視察”に来たところ、ティラでたまたま集会の事を聞いて駆けつけたのだという。グループのなかには、週刊誌「Nepal」の編集長や週刊誌「サマヤ」の記者、雑誌「Himal」の記者までいた。互いにライバル誌でもあるネパールの3大雑誌の記者が同じグループで来るとは、われわれの常識からしたら考えられない話だが、ネパールではよくあることだ。ネパールのジャーナリストは、1人で取材に来ることはまずない。取材は地元記者1人を連れて、あるいは1人で、を基本にしている私には少々理解に苦しむ行動だが、グループ取材の理由を聞くとたいてい、「安全のために」という答えが返ってくる。

 さて、カゲンドラ・サングラウラとハリ・ロカは到着してすぐに、集会で演説をした。サングラウラはマオイストの人民戦争の厳しい批判家としても知られているが、演説のなかでは彼らを批判することはなかった。元ネパール統一共産党の党員で、現在、インドの大学で博士号の過程にいるロカは、村人が立ち上がって帰ってしまい、ほとんどがマオイストとなった群衆に向かって「ラール・サラーム」をした。彼らとはその後、数日間、行動を共にしたのだが、予定外の展開に少々とまどったというのが正直な感想だった。

写真上;人民解放軍の新しい徽章。白いサガルマタの前にAK−47が交差する。
写真下;“空襲”で亡くなった第5師団コマンダーのスニルの写真に花輪をかけるプラバカール。右手に見えるのはマガラト自治区人民政府議長ノサントス・ブラ・マガル

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 今月初め、西ネパールに住む知り合いのジャーナリストを通じて、「何としてでも、12月7日にロルパのティラに来るように」というマオイストからの伝言を聞いて、私はすぐにロルパ行きを決心した。日時と場所は不明だが、人民解放軍の大きな部隊が集まるプログラムがあるという。マオイストが車道を建設したあと、バスやジープで行けるようになったティラに到着したのは7日の午後8時近くのことだった。“コンタクト”のために迎えに来ているはずだったマオイストは、私たちの到着が遅れたために、ティラのバザールを去ったあとだった。結局、8日も終日ティラで待つことになり、9日朝に出発した。この時点で、私たちは「村人も参加した大きなプログラムが10日、ババン村で開かれる」ことを知らされた。9日は2年前に交戦のあったコルチャバン村ハンニンで昼食をとり、夜はパチャバンの民家に宿泊した。
 
 10日朝、2時間ほどの登りのあと、会場に近いババン村バフンデーラに到着した。ここに来るまでに、すでに知り合いのマオイスト何人かに会っていたのだが、会場の広場に着くと、かつてロルパやルクムを歩いたときに会った大勢のマオイストに再会した。かつて2度インタビューしたことのある、マガラト自治区人民政府議長のサントス・ブラ・マガル、ロルパ郡人民政府議長のチリン、マンガルセン・スミリティ連隊のコミッサー「アタル」、襲撃で右手を失くした「サンバト」、そして、10月末にタバン村に滞在したときに同室となった人民共和国ラジオの女性記者アンビカ・チャンダなど。皆、元気そうに満面に笑顔を浮かべて歓迎してくれた。先日開かれた中央委員総会で人民解放軍のフォーメーションは大幅に変革され、3つあった師団が7つに増やされた。「Central Base Area」となったラプティ県(ロルパ、ルクム、サリヤン、ダン、ピュータンの5郡)には第五師団が駐屯しているが、第五師団に属する3個連隊のうち、マンガルセン・スミリティとディルガ・スミリティの2個連隊が今日のプログラムのために会場を包囲して周辺の警備にあたっているという。師団が増えて、大勢の新コミッサー、コマンダーが任命されたようで、「アタル」がディルガ・スミリティ連隊の新しい女性コミッサー「クランティ」を紹介してくれた。ルクム郡出身の小柄なマガル族の女性だが、強い意志を表す大きな黒い目が印象的だ。彼女の夫はガンダキ地区に駐屯する第四師団のコマンダー「ラシュミ」である。第五師団にはもう1人の連隊女性コミッサーがいるが、これは人民解放軍のなかで、女性として最高位にあたる。

 正午をすぎると、山頂にある会場に通じる南北二つの山道を、大勢の村人がスローガンをあげながらデモをして来た。大きな荷物を背負った何人かの人たちに話しかけると、「ダン郡の近くにある村から4日歩いてきた」とか、「3日間歩いてきた」という人もいた。はっきりとは言わないが、どうやら、マオイストに強制的に連れられてきた人たちもいるようだ。プログラムは、11月29日に西ロルパのジナバン村で王室ネパール軍によるヘリコプターからの空襲で死亡した第五師団コマンダー「スニル」と大隊副コマンダー「ニルマム」の追悼集会と、「民主化人民デモ・キャンペーン」をかねたものだった。キャンペーンはラプティ県の5つの郡で開かれる予定で、ロルパのこの集会がその最初のプログラムだった。

 午後1時すぎ、会場は大勢の村人で埋まった。まず、マイクで今日のプログラムのゲストの名前が呼ばれる。これを聞いて驚いた。Central Base Areaの党責任者である「ビプラプ」ことネトラ・ビクラム・チャンダ、人民解放軍に4人いる副コマンダーの1人で西ネパールのコマンダーでもある「プラバカール」ことジャナルダン・シャルマ、そして、第五師団コミッサーの「スダルシャン」ことヘマンタ・プラカシュ・オリ。3人とも先日の中央委員総会で政治局・中央委員会が解体されたあとに設置された33人からなる委員会のメンバーである。「ビプラプ」はロルパ出身の、「プラバカール」と「スダルシャン」はルクム出身の古参マオイストたちだ。これだけのリーダーが一般の村人の前で演説をするのは、おそらく、2年前にタバン村で開かれたマガラト自治区人民政府宣言集会以来のことである。彼らが人々の前で何を話すのか、これは、マオイストの今後の動きを探る重要な材料となる。

写真上;集会場で“マオイスト式”サランゲ・ダンスを踊るジャナ・ミリシアの少年少女
写真中;ババン村の集会場にデモをしてくる村人たち
写真下;左から「ビプラプ」、「プラバカール」、「スダルシャン」

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