Kathmandu Journal

東日本大震災の被災者の方たちの復興を祈って

ロルパ取材記

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 2002年4月に治安部隊に破壊されたトゥーロガウンの中心にある10数軒の家々は、再建されることなく、そのまま残されていた。タバン村人民政府議長の話によると、政府側治安部隊はこれまでに、7度タバンを訪れて掃討作戦を展開している。治安部隊が来るたびに、村人やマオイストは近くの山などに逃げ、治安部隊が引き上げると、また村に戻るということを繰り返してきた。治安部隊はタバン村人民政府の建物をこれまでに4度破壊し、9人の無実な村人を殺害した。最も被害が大きかったのは、2002年4月に、治安部隊がタバンに約一月半滞在したときで、合計20数軒の家が破壊されただけでなく、治安部隊は多くの家に侵入して家具を壊したり、物を強奪したりしたという。このとき、男女の村人2人が捕らえられたあとに殺害されている。2003年7月に治安部隊が来たときには、やはり村の一般人5人が殺害された。タバン村全体では、マオイストが1996年に人民戦争を始めてからこれまでに合計32人の村人が犠牲になった。村で治安部隊に殺された一般人9人以外は、ほとんどが襲撃や交戦で亡くなったものだ。ちなみに、人民戦争で政府側に殺害された人の数は、全国75の郡のなかでロルパが最も多く700人を超える。そのなかでも最大の犠牲者数を出しているのは、タバンの南にあるジェルバン村で、65人が死亡しているという。

 トゥーロガウンの歓迎ゲートを入ってすぐのところにあったヘルス・ポストも治安部隊に破壊され、空き地となったところには、村の女性たちが作ったという花壇があった。治安部隊は今年3月に最後に来て以来、タバンを訪れていないが、村人は今でも治安部隊が来るのを恐れていた。タバン村にはサハカリ・ホテル(協同組合食堂)が2軒と、サハカリ・パサル(協同組合店)、サハカリ・メディカル(協同組合薬局)、サハカリ・アグロベト(協同組合農業・家畜関連店)が1軒ずつある。すべて、村人が各戸100ルピーから500ルピーを出し合って開いた店だが、いつ治安部隊が来て、店の品物を強奪されるかわからないので、村人はなかなか投資したがらないという。トゥーロガウンには、マオイストの党の産業部が運営する各種産業が製造している品物を売る店もあった。革靴からショール、セーター、バッグや石鹸、ロウソクまで置いてある。人民解放軍の制服である迷彩服やバッグも、ビセシュ・チェトラ(特別区)の産業部が製造しているという。店の責任者に聞くと、これらはタバン村のなかでもトゥーロガウンからは離れたジャングルのなかで製造しているという。やはり、治安部隊が来たときに材料や製造施設を破壊されるのを恐れての措置だという。ロルパ郡人民政府議長の‘チリン’も、産業部製造の皮靴を履いていた。スエードのような皮でできたこの靴の売値は500ルピー、黒い革靴は750ルピー、ブーツは1050ルピーだ。‘ジャルジャラ・シャボン’という名がついた石鹸は、ルクム郡でチウリの実から作っているという。気温が下がるタバンの夜に備えて、私もウールのショールを買った。325ルピーだった。

 写真上は、収穫したトウモロコシを干す民家。
 写真下は、マオイストの特別区の党産業部が製造している靴。

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 2003年3月に初めてタバンを訪れたとき、この村の雰囲気に対して強烈な印象を受けたことを覚えている。政府とマオイストが2度目の停戦を宣言したばかりで、タバンにジャーナリストが来たのは、アメリカ人の‘マオイスト・ジャーナリスト’リー・オーネストが数年前に来て以来のことだと言われた。外国人が来たのも、実にしばらくぶりのことだという。ロルパの北に接するルクム郡側からタバンに入ったのだが、その2日前、ルクムコット村に来る途中、雪解け水を飲んだせいで喉をやられ、高熱を出していた。ふらふらとしながら丸一日歩き、ようやくタバンに着いたのは夕方で、暗くなりかけていた。トゥーロガウンの入り口にマオイストが建てた‘歓迎ゲート'を入ると、真っ先に目に入ったのはバレーボール・コートで試合をする少年たちと、民家の庭先で、大きな鍋でトウモロコシの‘アト’と牛肉のタルカリを作る少女たちの姿だった。彼らが、ここで集団生活をするマオイストたちであることがすぐにわかった。私と、ルクムコットから同行してくれたガイドは、ゲートに程近い茶店に連れて行かれた。‘ハムロ・サハカリ・ホテル’だった。この店のなかが、実に活気に満ちていた。店を仕切る60歳ほどのマガル族の女性は、店に人が入ってくるたびに右手を上げて「ラール・サラーム!」をしていた。夕方ということもあり、さまざまなマオイストが店に来ては、干し肉を食べたり、お茶を飲んでいた。集落の中央には、治安部隊が焼き討ちした10数軒の家がそのまま残っており、異様な雰囲気をかもし出していた。トゥーロガウンの集落の様子は、これまでに見たどの村の様子とも異なっており、まさに‘秘境'に来たという印象をもったものだ。しかも、大勢の武装マオイストがこの村に滞在していることが見てとれた。最悪の体調にもかかわらず、マオイストが人民戦争を始めたあと、初めての‘独立系ジャーナリスト’としてマオイストの首都を訪れることができたことに、非常に興奮したことを覚えている。

 その後、タバンには国内外のジャーナリストが大勢取材に訪れ、‘マオイストの首都’としてずいぶんいろいろなメディアに紹介された。そのせいもあるのだろう、2年半ぶりに訪れたタバンはずいぶん印象が違った。まず、村の人口が減っている印象を受けた。前回来たときには、ちょうど、人民解放軍のエリート部隊がタバンに常駐しており、大勢の武装・非武装マオイストがいた。しかし、今回はマオイストも村人もかなり少ないようだ。私たち3人はタバンに滞在中の宿泊所として、‘サハカリ・ホテル'に近い大きな民家の2階にある2部屋をあてがわれた。前回来たときに、人民解放軍が‘HQ(ヘッドクォーター)’として使っていた建物だ。今は‘ゲスト・ハウス’として使われているらしい。1階にはタバンのコミューンの女性たちが運営する食堂と店があった。

写真上下はともに、2003年3月にタバンで撮影したもの。上は、集落中央にある治安部隊に焼き討ちされた家。下は、大きな鍋でタルカリとアトを作るマオイスト。

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 タバン村最大の集落トゥーロガウンに着いたのは10月11日の午後2時ごろだった。トゥーロガウンはタバン川に沿った高台に広がる集落だ。200軒ほどの家が寄り添うようにしてかたまって建つ。タバン村の集落の特殊性を示す例として「タバン村では家々が互いにくっついて建っており、一軒の家に入ると外に出ずに10軒先の家まで行くことができる」という表現を多くの人から聞いていたが、これは事実とは異なる。確かに接近して建てられてはいるが、家と家どうしがくっついているわけではない。その他にもタバンに関する‘伝説’をいろいろと聞いたが、そのほとんどが事実とは異なることを後で知った。

 トゥーロガウンに入ると、まず、マオイストが村人民政府のオフィスとして使っていた1階建ての建物が目に入った。建物の一部は政府側治安部隊により壊され、修理中だった。2年半前にタバンを訪れたときに、最初に連れて行かれた食堂へ行くと、外観が少し違っていた。一階の道に面した側にひさしが作られ、長いすとテーブルが置かれていた。前回来たとき、食堂の名前はネパール語で「ハムロ・サハカリ・ホテル(私たちの協同組合食堂)」とつけられていたが、今はカーム語で「ゲミ・シャン・サハカリ・ホテル(私たちのシャン協同組合食堂)」という名に変わっていた。「シャン」というのは人民戦争で犠牲になったマオイストの名前だという。入り口の両脇にかまどがあるのは変わっていなかったが、食堂で働くスタッフは新しい人に変わっていた。前回には、突然、この食堂に連れてこられたとき、ここで交わされるカーム語がまったくわからずに疎外感を感じたが、新しくなったスタッフの男女2人はネパール語を話している。2人とも党からの指示により、タバンの外から来た人たちだということがわかった。入り口にはメニューと料金表までかけられていた。ダル・バートが30ルピー、トウモロコシのデロが25ルピー、ミルク・ティーが1杯5ルピーだ。「マス・ハイ」というメニューがあった。聞くと「ガイ・コ・マス(牛肉)」のことだという。これが1皿15ルピー。豚肉は1皿20ルピーだった。牛はヒンドゥー教では聖なる動物として食べることを禁じられている。一方、豚はヒンドゥー教では低カーストの人のみが食べる動物。ヒンドゥー教徒のバフンが見たら卒倒しそうなメニューである。カトマンズなどの食堂と違って、ククラ・コ・マス(鶏肉)も、カシ・コ・マス(ヤギ肉)もメニューにはない。

 私たちがくることはすでにタバンのマオイストたちに伝わっており、私たち3人がこの食堂の前に着くと、タバン村人民政府の議長が私たちにマリーゴールドの花輪をかけて、額に赤いティカをつけてくれた。一応、‘歓迎’をもって迎えられたわけだ。食堂でブラック・ティーを飲んで休んでいると、ロルパ郡人民政府議長の‘チリン’がやってきた。小柄なチリンは、タバン出身のマガル族で3代目のロルパ郡人民政府議長だった。後でわかったのだが、チリンとロルパ郡人民政府の初代議長で、マガラト自治共和国人民政府の議長を務めるサントス・ブラ・マガルは従兄弟どうしだった。今回のタバン滞在中に、サントス・ブラ・マガルに再会できればと考えていたのだが、チリンによると、彼はロルパの外に行っていて、接触するのが困難だという。

 写真はタバン村トゥーロガウンにある「ゲミ・シャン・サハカリ・ホテル」

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 ウワ村で私たちはマオイストの‘ポスト’に泊まった。食事は庭にある‘メス(食堂)’で作られたダル・バートを食べた。タルカリは水牛の肉のカレーだけ。そのため、ベジタリアンの私はダールとご飯だけの食事だった。もっとも、夕食前に、同行者のUとJが近くの家から持ってきてくれた、炒ったトウモロコシを食べたので、お腹は空いていなかった。ウワ村の人口の大半を占めるマガル族と同じ民族に属するUとJも、夕食前に肉をたらふく食べたらしく、食欲がないようだった。同じマガル族に属するとはいえ、UもJもこの土地のマガル族が話すカーム語を話さない。ロルパ郡のなかでも、カーム語を話すマガル族が住むのは北部と中部の一部だけだ。カーム語を話す地域とマオイストの影響が最も強い地域は重なり合う。タバン村を中心としたこの地域は、マオイストの‘心臓部’といってもいい。

 午後6時からマオイストのFMラジオ「ラジオ・ジャナガナタントラ・ネパール(人民共和国ネパール)」のビシェス・チェトラ(特別地域)放送が始まった。ジーバン・シャルマのネパール共産党マサルの「カラパニ・マハカリ」の歌が流れる。番組のあいだに流れるコマーシャルを聞いていると、「娘に財産を与えよう」「サリーやクルタ・スルワルなど、女性を弱くする服は止めて、女性もシャツとズボンを着よう」などというスローガンや、サハカリ・パサル(協同組合の店)のコマーシャルが流される。6時半から始まるニュースのトップは、「政府がカトマンズ盆地の周辺で放送しているマオイストのFMラジオの周波数を妨害している」というものだった。そのあと、「7政党が市部選挙をボイコットする」「ゴレ・バハドゥル・カパンギがダサイン祭のあいだに国王が新憲法を公布すると話す」というものだった。ニュースのあと、結婚したマオイスト同士のカップルへのお祝いや‘ジャナ・セナ(人民軍)’の番組が続く。マオイストのジャーナリスト、チェタン・クンワルが7月末の交戦で亡くなった人民解放軍‘マンガルセン’第一連隊副司令官‘ズワラ’と‘ジャナク'に鎮魂歌を奉げる番組もあった。‘ズワラ’はウワ出身のマオイストで27歳だったという。

 午後8時15分にFMラジオ放送が終了したあとは、‘ポスト’の2階にある大部屋で10人ほどが雑魚寝をした。夜が早いために、早朝に目が覚める。翌朝はまだ暗いうちに起きて、甘いブラック・ティーを飲んだあと、午前6時すぎにタバンに向けて出発した。ここからは、標高2800メートルの峠を越えるまで、ゆるい上りが続く。2時間半の上りのあと、峠の手前に建てられた‘サハカリ・ホテル’で早めの食事をとった。食事といっても、ふかしたジャガイモとトウモロコシである。しかし、これが最高に美味しい。2時間以上かけて、ゆっくりと‘食事’をしたあと、20分ほどの最後の上りを終え、峠に出た。ここから、目指すタバン村トゥーロガウンは2時間の行程である。急な下りが終わるころ、松の葉で飾られたマオイストの「歓迎ゲート」が何箇所かに立てられていた。下りが終わると、石がごろごろところがる川原の道が続く。タバン川の源だ。昨年8月に、90人を超える中央委員が出席して10日間にわたる中央委員総会が開かれたタバン村フンティバンを右手に、坂を上ると、左手にジャルジャラ峰が見える丘に出る。2年半前に来たときにも、タバン村が横たわるこの盆地の美しさに心が洗われたが、道を逆にたどってタバン村に入るときの景色も素晴らしかった。峠を越えてちょうど2時間後、川原沿いの道のカーブを曲がると、突然右手に大きな集落が現れた。タバン村で最大の集落トゥーロガウンだった。

 写真は、タバン村に向かう途中にマオイストが立てた「歓迎ゲート」

 ロルパでも他の郡でもそうだが、看板を掲げた‘宿屋’というものは存在せず、食事を提供してくれる普通の農家に宿泊することになる。料金は食事代とお茶代だけで、宿泊費はとらない。10月9日、私たち3人と‘バッジャ’はセラム村のフリバンにある農家に泊まった。私がトウモロコシに目がないことを知ると、同行者が女主にトウモロコシを焼いてもらうよう頼んでくれた。同行者のJとUがバッジャと雑談をするあいだ、私は台所のかまどの前で女主とこの家の近くに下宿しているらしい少年と話しをした。話すうちに、この17歳の少年がマオイストが運営する学校で教えていることがわかった。学校と言っても、子供から85歳の老人まで、学校に行ったことのない人に読み書きと政治教育を教える非公式なクラスだ。少年の話によると、マオイストはセラム村を含むモデル地区で、3ヶ月前からこうした活動を始めたという。少年はマオイストではなかった。10年生を終えたあとにSLC(高校卒業資格)の試験を受けたが受からなかったという。マオイストが提供する2週間のトレーニングを受けて、‘教師'の資格を得たあと、この村にやってきたらしい。‘マオイスト’としての党教育を受けていないせいか、私を疑うこともなく、こちらがした質問に正直に答えてくれる。仕事は給料なしのボランティアで、食事代などとして、月に500ルピーの実費をもらうだけだという。クラスでは、国王の話やマオイストの党首プラチャンダのことなど、簡単な政治教育もしているらしい。しかし、彼の話を聞いていると、彼自身が理解して教えているわけではなくて、トレーニングで聞いたことを丸呑みにして伝えているといった印象だった。

 翌朝6時すぎ、私たちはフリバンを出発してウワ村に向かった。以前通ったときの記憶によれば、スレチャウル−タバン間で最も危険な崖道が間もなく始まる。昨日の雨のせいで、ひどいぬかるみが何箇所かあった。数百メートルの高さの絶壁を下に見た崖道も無事に過ぎ、マオイストが作ったウワ村のゲートに着いたのは朝8時45分だった。ゲート前にある家で朝食をとることにした。女主人が2年半前に、やはりここで食事をとった私のことを覚えてくれていた。「太ったね」と言われた。例によってできるまでに時間がかかることがわかっていたので、2階にある部屋のなかで休むことにした。同行者のJがどこからか、木製の壷に入った‘ドトゥ(ミルク)’を買ってきた。ミルクといっても、飲んでみたらほとんどヨーグルトになっている。濃くて美味しい。前回の経験から、タバン村ではほとんど乳製品は手に入らないことがわかっていた。このあとしばらく乳製品をとることもないだろうと、たっぷりと味わった。米にカレーの‘ダル・バート’も昨夜のフリバンまで。ここではお湯にトウモロコシの粉を入れて作る‘アト'が主食だ。ガンダキ地方でいう‘デロ’のことである。北に行くほど、タバンに近くなるほど、標高も高くなり、手に入る食料も限られてくる。

 バッジェはここで会った地元の女性マオイストをウワ村のトゥロガウンに送って、私たちの許可証の手配をしようと試みた。しかし、このマオイストがなかなか戻ってこないため、正午近くにトゥロガウンまで行くことにした。1時間の上りのあと、トゥロガウンに到着した。この辺はすでに標高2000メートルを超える。風も冷たい。バッジェは私たち3人をマオイストの‘ポスト'において、タバン村に向かうことになった。タバン村で私たちの‘許可証’をとり、それをこちらに送ってくれるという。許可証が着くまで、ここで足止めをされることになる。これで、今日中にタバンに着くことが不可能となった。

写真はウワ村の入り口にあるマオイストのゲート

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