Kathmandu Journal

東日本大震災の被災者の方たちの復興を祈って

ロルパ取材記

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 タバンに来て4日目の朝、まだ薄暗いうちにトイレに行くと、サハカリ・パサル(協同組合の店)の前で30人ほどの兵士が運動をしていた。昨夜、タバンに着いた人民解放軍のプラトーン(小隊)に属する兵士だった。制服を着ている人も、私服の人もいる。女性も何人か混じっている。腕立て伏せやジャンプなどの簡単な体操のあと、カンパニー(中隊)・コミッサーの‘ビクラム’が‘朝の演説’をしていた。私たちがタバンに着いたときからここにいたビクラムから、すでに話しを聞いていたのだが、この部隊は、今年2月に派遣されてきた東部師団の‘エリート部隊’だった。全員がコタン郡やボジプル郡など、東ネパールの出身で、昨年末に歩いてシンドゥリ郡を出発し、2ヶ月以上かけて今年2月にここタバンに到着したという。東部師団から3個小隊、つまり1個中隊が‘西’を訪れ、中部師団の第一連隊から1個中隊が‘東’へ行くという交換プログラムだ。東部師団から来た3個小隊のうち、1個小隊は西師団に加わるためにセティ・マハカリ地区に行き、2個小隊はここ‘ビシェス・チェトラ(特別区)’に駐屯して、中部師団に加わった。その後、約8ヶ月のあいだ、中部師団とともに活動してきた2個小隊が、交換プログラムを終えて、‘東’に帰ることになった。この部隊全員が集まったところで、彼らを送り出す‘ビダイ・プログラム’がタバンで開かれることになっているという。

 この東から来た2個小隊は、マオイストの人民解放軍のなかで、最も古く経験のある兵士がそろった中部師団のマンガルセン第一連隊第一大隊に所属して、ルクム郡のカーラ襲撃やアルガカンチ郡のカンダハ交戦など10を超える交戦に参加した。‘西’に来たときに62人いたメンバーのうち、7人が死亡した。このうち、3人はカーラ襲撃で死亡したものだ。これまでで最大の敗北を喫した襲撃の一つだったカーラ襲撃では、人民解放軍の1個中隊に相当する人数のゲリラ、つまり100人から120人が死亡している。このカーラ襲撃のあと、マオイストは米軍から訓練を受けた王室ネパール軍の‘レンジャー部隊’に対抗するために、NTF(ニュー・タスク・フォース)と呼ばれる大隊を結成した。NTFはロルパを中心とした10の郡からなる特別区に駐屯する部隊で、‘ゲリラ戦’を専門とする。東から来た2個小隊も、この新部隊に加わって、政府側治安部隊と何度か交戦を経験している。

 サハカリ・ホテルでお茶を飲んでいると、朝の訓練を終えた部隊の女性兵士‘ビナ’と‘リナ’の2人がやってきた。年齢を聞くと、2人とも18歳だという。ラメチャップ郡出身のリナは、2年間両親に会っていないと話した。私たちの会話を聞いていた中隊コミッサーのビクラムが、「死んだらすぐにニュースが届く。知らせがないことは無事の知らせ」と口をはさんできた。こんな若くして、数々の交戦を経験してきたことが想像しがたい。
 
 彼らの‘ビダイ・プログラム’が明日、タバンで開かれることを知った。彼らを送り出すために、マンンガルセン第一連隊のコミッサー‘アタック’が昨夜からタバンに来ていることも知った。アタックは党中央委員でもある。これを知って、私は今日タバンを出る予定をキャンセルし、明日のプログラムを見てからタバンを出ることにした。

上の写真は、朝の訓練に集まった人民解放軍の兵士たち。
下の写真は、SLRをもつマンガルセン第一連隊所属の兵士。
 

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 タバンに来て3日目の朝、同行者のUとJは実家がある隣りの郡に行くために北へ向けて出発した。私はこの日、もう一度モデル学校を見に行き、翌日タバンを出る予定だったのだが、後に予定を変更することになった。タバンに着いてすぐ、タバン村出身のマガラト自治区人民政府議長のサントス・ブラ・マガルとの会見を、ロルパ郡人民政府議長の‘チリン’にリクエストしたのだが、「ルクムに行っていて、しばらくは戻らない」という答えだった。今思うと、中央委員でもあるサントス・ブラは、プラチャンダ党首らも出席した党拡大会議に出席していたことになる。マオイストにとって、‘歴史的決定’を行ったこの会議はルクム郡のある村で、18軒の家を借り切って、15日間にわたって開かれたと聞いた。後になって知ったのが、会議が開かれた村は、私が滞在していたタバンから徒歩数時間と、非常に近いところにあった。

 この日朝、泊まっているところから300メートルほど離れた共同トイレに行った帰り、1人の女性に「ミス!」と呼びかけられた。2年半前にタバンに来たとき、5日間泊めてもらった家の奥さんだった。2日前にタバンに来たとき、この家の窓や戸が閉まっていたため、不在なのだろうと思っていたら、昨日たまたま家族で帰ってきたのだという。「ジャガイモを食べに来て」と言われたため、3階の台所に上がった。前回来たときには、熱を出して寝込んだ私にお湯を沸かしたり、ジャガイモを焼いてくれたり、ずいぶんと世話になった。囲炉裏を囲んで彼女と話すうちに、前回私が来た直後から、彼らはこの家を離れて、奥さんの実家がある近くの村に住んでいることがわかった。「食器も家具も寝袋も彼ら(マオイスト)に持っていかれて、何も残っていないのよ」と彼女は話す。彼女たちはマオイストではないのだが、治安部隊が村に来ると逃げなければならない。「マオイストと治安部隊のあいだにはさまれて、ここで暮らすのが難しくなったの」と、この家を離れた理由を話した。

 モデル学校には一人で行った。昨日歩いたときには1本道のように思えたのだが、丘に上がる道を間違えてしまい、昨日の倍の時間がかかってしまった。3年生のクラスに行くと、ネパール語の授業で、「ダンテャカタ(伝説)」を教えていた。5人の目の見えない人たちが象の身体に触って、「象とはどんなものか」を語る話だ。触った箇所が異なるため、それぞれの意見が合わず喧嘩になるというお話である。突然、先生に、日本語の「ka,kha,ga,gha」を教えてほしいとリクエストされ、黒板に「あいうえお」の50音とネパール語で発音を書いた。子供たちが熱心にノートに書き取る。先生が小さな地球儀を持ってきて、日本の位置を教えてくれた。3年生は9人の生徒のうち、6人が父親を人民戦争で亡くしている。最年長のラビン君(14歳)は、マオイストの党員だった父親を警察に殺害されていた。兄もマオイストだという。「革命について学べるので、この学校が好き」だと話す。12歳のビマルチャン君は元教師でマオイストだった父を政府側に殺害され、母を病気で亡くしていた。弟(2年生)もこの学校で学んでいる。12歳のビノドゥ君はダリット・カースト出身の両親が、タバンにある党の裁縫産業部で働いているという。「僕も学校を終えたら党員になりたい」と言う。

 午後3時に授業が終わったあと、2階にある‘校長室’(といっても、4畳ほどの部屋で、男性教師2人はここで寝泊りしている)で校長や党の教育局の地区長らと話しをした。「ジャナバディ・シッチャ(コミュニスト教育)」とは、唯物論に基づいて、労働を愛し、正直で独立した人間を作ることだと校長は話す。この学校では、肉体的体罰は絶対に与えない、また、試験重視の点数主義もとらないと言う。

 この日の夜、新しいルームメートがやってきた。マオイストのFMラジオ局「ラジオ人民共和国ネパール」の女性記者‘アンビカ’だった。最初に会ったときの自己紹介で、「私の名前はビセシュ・チェトラ(特別区)の人は皆知っているのよ」と話した、アンビカはショートカットでズボンにシャツ姿の非常に活発な女性だった。いつも手に無線電話をもっており、党機関紙の「ジャナデシュ」にも記事を送るのだといって、ベッドの上で記事を書いていた。この夜、武装マオイストのグループもタバンに来ていたことを翌日朝知った。

写真上は、タバンで開かれたプログラムで歌を歌う人民解放軍のエリート部隊である中部師団マンガルセン第一連隊所属のカルチャーグループ。

写真下は、マンガルセン第一連隊所属の女性兵士。国軍である王室ネパール軍の制服と区別をつけるために、左肩に「P.L.A.」(People’s Liberation Army;人民解放軍)の赤い縫いつけがある。

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 タバンでの2日目、モデル学校から戻ったあと、私はマオイストの学生組織ANNISU(革命)のレクナス・ネウパニ会長にインタビューをした。マオイストの教育方針など、いろいろな事に関してしばらく話をしたあと、私は彼に気になっていたことを聞いた。それは、昨年、バラ郡で治安部隊に殺された彼の妻のことだった。マオイストは党の規則として、党内結婚しか認めていない。したがって、ネウパニの妻もマオイストだった。2人は結婚したばかりで、お互い活動地域が異なるため、一緒に過ごした期間はそれほど長くなかった。それでも、週刊紙「ジャナアスタ」に掲載された、ネウパニが妻を思って書いた長い手紙2本を読むと、ネウパニが非常に心を痛めている様子が伝わってきて、ずっと気になっていた。これまでマオイストの取材をするなかで、政府側に殺害されてパートナーを亡くしたマオイストには、ずいぶん大勢会った。そのなかには、配偶者を政府側に殺害されたためにマオイストになった人も大勢いた。彼らの悲しみを推し量ることは難しいが、「個人的な悲しみよりも党が大事」という言葉も何度か聞いた。また、悲しみを‘ドゥスマーン(敵)’である国家への憎しみに転化しているような感じを受けることも多かった。ネウパニも、言葉を多くは使わず、妻がバラ郡でどうやって殺害されたか、簡単に説明してくれただけだった。

 この夜、モデル学校で2年半ぶりに再会した‘シーラ’と同室になった。消灯してから、隣りのベッドに横になったシーラとしばらく話をした。このとき、彼女が今年はじめに結婚していたことを知った。相手はロルパ出身のマオイストで、DCM(郡委員会メンバー)だという。党内の先輩から紹介されて知り合ったあと、マガラト自治区人民政府議長のサントス・ブラ・マガルも出席したジャナバディ・ビバハ(コミュニスト結婚式)をしたのだと嬉しそうに話した。「新婚旅行はタバンに来たのよ」と言う。いろいろと話しているうちに、彼女はどうやってマオイストになったのかを明らかにした。「(2001年11月の)ゴラヒ襲撃までは、マオイストが誰なのかも知らなかった」のだとシーラは話した。平野部出身のシーラの家は比較的裕福な家庭のようだった。もともと左翼政党のサポーターだった父親がマオイストになったあと、父親の勧めで入党したのだという。インドで薬学を学んだ彼女は党にとっても貴重な存在なのだろう。彼女らの結婚式に大勢のリーダーが参加したらしいことからも、それがわかる。昨年10月、私がロルパのガルティガウンでサントス・ブラ・マガルと会ったこともシーラは知っていた。サントス・ブラ本人から聞いたのだという。マオイストは結婚すると、たいてい夫婦で異なる活動地域をあてがわれるのだが、シーラは夫の受け持ち地域が近いため、頻繁に会えるのだと話した。マオイストの夫婦関係というものは、当然、一般のネパール人の夫婦とは異なるものだ。何よりも、マオイストは男も女も、個人の生活よりも党の仕事を優先させられる。それでも、シーラが幸せになってほしいものだと思った。

上の写真は、タバン村で歌を歌って楽しむ人民解放軍の兵士たち。制服を着ていても、彼らは屈託のない若者だ。

下の写真は、壁に書かれたマオイストの党首‘プラチャンダ’の「私たちは笑いながら泣いている。泣きながら笑っている」という言葉。若いながらも人間の悲喜を経験しているマオイストたちの心情を表しているのかもしれない。

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 マオイストのモデル学校には、今のところ3年生までしかない。61人の生徒のうち、40人が1年生、12人が2年生、9人が3年生だ。午前10時に授業が始まった。朝礼が終わると、生徒全員が行列を作って教室に向かい、それぞれが「マ・アウナ・サクチュ?(中に入ってもいいですか?)」と声をかけてから教室に入る。まず、3年生の授業を見学に行った。教室に入ったとたん、生徒全員が立ち上がって「ラール・サラーム!」の挨拶をしてくれる。隣りのピュータン郡にある学校で5年間教師をした経験があるという女性が歴史を教えていた。3年生は9人の生徒のうち6人が、父親を人民戦争で亡くした子供たちだ。実は歴史の授業には一番関心があったのだが、この日は人民戦争の‘サヒド(殉死者)’に関する授業だった。先生が黒板にクリシュナ・セン(党名‘イチュク’)の誕生日や生まれだ場所などを書き、それを生徒が写している。クリシュナ・センはマオイストの党機関紙『ジャナディシャ』の編集長で、詩人でもあったのだが、2002年にカトマンズで逮捕されたあと、警察施設のなかで拷問を受けて殺害された。黒板には彼の生年月日やインドで生まれてダン郡で育ったこと、そして両親の名前まで書いてある。校長先生の話によると、モデル学校では‘個人崇拝’の歴史は教えないが、人民戦争で亡くなったマオイストたちの簡単な伝記を教える方針だ。たとえば、マオイストが1996年2月に人民戦争を開始したあと、ゴルカ郡で最初に政府側に殺された11歳の生徒ビル・バハドゥル・ルイテルや、去年、手りゅう弾の事故で亡くなった人民解放軍第一連隊コマンダーの‘パリバルタン’の‘伝記’を教えるという。モデル学校ではこれから、「なぜ人民戦争を始める必要があったのか」「人民戦争の仕方」などの政治教育もするのだという。「政治なしの教育は方向性のない教育と同じ」と校長は話す。「労働を愛する人間を育成すること」が‘ジャナバディ・シッチャ(コミュニスト教育)’の重要なポイントの一つだという。

 1時間目の授業のあと、丘を上がったところにある食堂にランチを食べにいった。子供たちも全員がここで食事をとる。食事を作る人や学校で働くスタッフ全員が、給料なしでボランティアとして働いているのだという。食事のあと、食器は各自が外にある水場で洗うシステムだ。シンプルなダル・バートの食事を終えて下に降りると、一人の女性がこちらを見て笑いかけてきた。なんと、2年半前にタバンでお世話になった‘シーラ’だった。私の名前も覚えていてくれて、「キヨコ・ディディ」と呼びかけてきた。党の医療局にいる彼女は、前回ここに来たときに高熱を出して寝込んだ私に薬をくれるなど、ずいぶん心配して世話をしてくれた。タバンに行ったら、また会えるかもしれないとは思っていたのが、話を聞くと、彼女の現在の活動地域は西のほうで、今日はモデル学校で学ぶ友人の子供を連れにたまたまタバンに来たのだという。なんと、偶然の再会というわけだ。タライ生まれの彼女は、前回会ったときにはロルパに来たばかりで、「山岳地帯での生活がつらい」と愚痴をこぼしていたが、この2年あまりのあいだに山での生活にも慣れたらしく、色も黒くなってたくましくなったように見えた。彼女の生活も、この間にずいぶん変わったことが後でわかった。

写真は、モデル学校の1年生のクラス。

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 今回、ロルパを訪れた主な目的の一つは、マオイストが運営する‘モデル学校’を取材することだった。マオイストは彼らのbase areaである3郡(ロルパ、ルクム、サリヤン)に、それぞれ1校ずつモデル学校を設立している。ロルパのモデル学校はタバン村にあった。私たちはタバンに着いた翌日、この学校を訪問することになった。その日の朝、‘サハカリ・ホテル’の前で、一人の男性が私に親しそうに挨拶をしてきて「私のことを覚えてますか」と聞いてきた。もちろん、忘れるはずもなかった。彼とは2001年の停戦中にビラトナガルで最初に会ったあと、カトマンズでも数回会っていた。マオイストの学生組織ANNISU(革命派)の会長で、党中央委員でもあるレクナス・ネオパニだった。2003年の2回目の停戦中に、カトマンズで開かれたANNISUの総会で会って以来、2年ぶりの再会である。10日ほど前に、彼がインド国境に近いバルディヤで記者会見を開いたことを新聞で読んでいたために、平野部のタライからここまでどうやってきたのだと聞くと、「もちろん、歩いてです」と笑って答えた。ネオパニは昨年、党内結婚したばかりの妻をバラ郡で治安部隊に殺害されている。彼が殺された妻に対する沈痛な思いをつづった手紙を週刊紙「ジャナアスタ」で読んでいたのだが、彼の表情からは悲しみをうかがい知ることはできなかった。

 ネオパニと私たち3人、そして、ロルパ郡人民政府議長の‘チリン’は連れ立って、トゥーロガウンのはずれにある丘の上に建てられたモデル学校に向かった。30分ほど丘を上ると、グリーンの制服を着た子供たちが右手を上げて「ラール・サラーム!」をしながら駆け寄ってきた。全員が握手を求めてくる。ラール・サラームの仕方も握手の仕方もすっかり堂に入っていて、まるで‘ミニ・マオイスト’である。学校は今年の人民戦争開始記念日である2月半ばに開校したばかりで、1年生から3年生までの61人の生徒が学んでいた。生徒の半分にあたる30人は、親が人民戦争の犠牲となって亡くなった子供たちだ。他は両親が人民解放軍のメンバーか、タバンにあるコミューンから通う子供たちである。生徒の9割以上がマガル族だ。コミューンの子供たち以外は、全員が4人の教師とともに、学校のなかにある寮に寝泊りしている。生徒の年齢は5歳から14歳まで。朝礼のあと、最年長の男の子の‘コマンド'の下に、体操が始まった。

写真上は体操をするモデル学校の子供たち
 

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