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初めての空爆体験

 26日に突然連絡が入り、シンドゥパルチョ−ク郡トカルパ村へ行ってきた。行ってみて初めて知ったのだが、人民解放軍の第3師団が先日のカブレ襲撃で獲得した武器を披露するプログラムで、大勢の武装マオイストがいた。到着直後に、知り合いのロルパ出身のコマンダーら何人かと再会の握手をしたあとのことだった。プログラムが開かれることになっている学校の寄宿舎の前を白い飛行機がゆっくりと飛んでいった。すぐに、ロルパに行ったときに何度か聞いていた「スパイ飛行機」であることがわかった。この飛行機のすぐ後に、今度はヘリコプターが2機飛んできた。最初は山頂の上高くをとび、2度目に戻ってきたときには、谷の下のほうから山腹をなでるように低空飛行をしながら寄宿舎のほうに向かってきた。このとき周りを見ると、プログラムのために集まっていた武装マオイストや村人はほとんどがすでに逃げ出しており、私と近くにいたマオイストの記者だけが最後に残ってしまった。寄宿舎の上方10メートルほどのところにある畑に登ったときだった。突然、「タッ、タッ、タッ、タッ、・・・・」という音が聞こえ、上のほうにいたマオイストが一斉にがけ下めがけて逃げ降りてきた。ヘリコプターから機関銃を発射した音だった。何人かのマオイストとともに、寄宿舎のすぐ上にある家のドアを破って中に逃げ込んだ。すぐに、「ドーン」という腹に響く音が聞こえた。今度は爆弾を落とした音だった。複数のヘリコプターが飛んでくるたびに、機関銃と爆弾の音が継続的に聞こえてくる。この辺が集中的にねらわれていることが明らかで、次々と爆弾が落とされるたびに、家が震動した。やがて、無線機をもったコマンダーも、私たちがいる家のなかに入ってきた。「ジャングルに行かずに、近くの家の中に隠れろ」と指示を出すのが聞こえる。ライフルをもった女性のツァパマールも何人かいたが、ヘリコプターからの襲撃に、ライフルではとても立ち向かうことはできない。襲撃が始まってすぐに、ICレコーダーをオンにしておいたのだが、ずいぶん長くたったように思えて、時間を見ても20分ほどしかなっていない。空爆は終わる気配もなく、誰もいない家の部屋のドアを破って、マオイストの記者らと中に入った。家を揺るがす爆弾と機関銃の音が相変わらず続き、とても外に出られる状況ではない。ヘリコプターが来る間隔が広まったように思えたのは、ようやく1時間たったころのことだった。しばらく静まったときを見計らって、家の外に出、村の上のほうに駆け上がった。陸路からも治安部隊が来るという情報が入り、マオイストはさらに山頂のほうに逃げていったが、私は村にとどまることにした。さすがに、彼らとともに山道を走ることはできないと思ったからだ。お荷物にだけはなりたくない。

 半時間もすると、またヘリコプターが戻ってきた。最初の空爆が静まった半時間ほどのあいだに、マオイストは全員が山頂のジャングルの方に逃げ、村から姿を消した。空爆は夕方暗くなるまで続き、その間、村人は家から一歩も外に出ずに過ごした。村人1人とマオイスト4人が死亡したということは、FMのニュースを通じて知った。翌朝早くに被害の様子を見に行くと、プログラムが開かれることになっていた寄宿舎の後ろの畑にマオイスト2人の遺体が埋めてあった。亡くなった村人は63歳の老人で、ヘリコプターが来たのを見て、ヤギを家のなかにいれようとしていたところを撃たれて死亡した。この老人の遺体とともに、やはり弾に当たって死んだヤギ3頭がそのままに放置されていた。私が見ただけでも、10を超える家に弾があたっており、最もひどい被害を受けていたのは高校の事務室だった。トタン屋根にはあちこちに弾があたった穴が開き、教室の壁は崩れ落ちていた。

 マオイストの取材をするようになって、いつかはこうした経験をすることもあるだろうと覚悟はしていたが、よく行くロルパではなく、カトマンズに近いシンドゥパルチョークでまさかこんな経験をしようとは考えてもいなかった。命が助かってみれば、貴重な体験をしたなどと笑って言うこともできるが、暗い部屋のなかで機関銃や爆弾の落ちる音を聞いて過ごした1時間半は正直言って、生きた心地がしなかった。戦争とはこんなものなのだと、まさに身体で実感した体験だった。

 英字紙「The Himalayan Times」が昨日、この空爆で、「日本人ジャーナリストのセキュリティー・ガードが一人死亡」と一面記事のなかで伝えたが、これは大きな誤りである。私はセキュリティー・ガードなどを連れて取材に行ったことなどないし、今回の取材も一人で行った。一体、何を根拠にこんな誤報をしたのか理解に苦しむ。

“10周年特別号”

 つい先ほど、マオイストがE−メールを通じて“ジャナデシュ”の特別号を送ってきた。毎週火曜日に送ってくるのだが、2日早く送られてきた「人民戦争10周年特別号」は何と129ページもある。10年間を振り返ったプラチャンダのインタビューや、インドのシリグリで逮捕されて以来、インドの刑務所に入っている最長老リーダーの“キラン”ことモハン・バイッデャヤ、バブラム・バッタライ、そして、人民解放軍副司令官の“パサン”や“プラバカル”の長い記事も掲載されている。マオイストを取材する者としては、実に興味深い記事ばかりである。プラチャンダのインタビューはあとでじっくりと読むことにして、私が一番興味をもつ“パサン”ことナンダ・キソル・プンの記事を真っ先に読んだ。何と、2001年11月23日のダン郡ゴラヒ襲撃の詳細を明らかにする記事である。

 この日のことは今でもよく覚えている。10日ほど前に政府との3回目の対話が失敗に終わり、停戦が破棄されるのは時間の問題とされていた。この数日前、私は当時、マオイストの日刊紙「ジャナディサ」の編集長をしていたクリシュナ・センに会い、ロルパ郡タバン村への取材のアレンジを依頼した。その経過を聞くために、11月23日、朝から何度か、「ジャナディサ」の事務所に電話をした。いつもなら、誰かがいるのに、この日はなぜか誰も電話に出なかった。そのうち夕方になって、センが自身で私の携帯電話に電話をしてきた。そして、「あなたの取材行をアレンジするのは困難になった。しばらく待ってほしい」とだけ言って電話を切った。「何かあるな」と直感したのだが、何があったかを知ったのは翌朝だった。マオイストがダン郡とシャンジャ郡で同時に郡庁所在地を襲撃し、武装闘争を再開したのである。センはこの数ヶ月後、カトマンズで捕まって、警察施設のなかで拷問死した。“プラチャンダ・パス”について、センが親切に解き明かしてくれたことを思いだす。彼の死を週刊紙「ジャナアスタ」のスクープ記事で知ったときには、信じられない思いだった。

 さて、“パサン”はこの日の夜のゴラヒ襲撃の詳細を書いている。これを読むと、マオイストがかなり前から襲撃を準備していたことがわかる。襲撃場所や近隣の治安施設にグループを送り、少なくとも15日間、情報収集を行ったというのだ。そして、情報がもれないよう、ゴラヒから3日歩いたところにあるロルパのどこかで、襲撃の準備のための政治訓練を行ったという。これには、何と直前までカトマンズで政府との対話に参加していたマオイストのスポークスマン、“アマルシン”ことクリシュナ・バハドゥル・マハラまで出席していたことを“パサン”は明らかにしている。この襲撃のコマンダーは現在、カトマンズ盆地とその周辺の「特別中央コマンド」のコマンダーを務める“アナンタ”ことバルサ・マン・プンが、政治コミッサーは“パサン”が務めた。

 ゴラヒ襲撃は、これまでのマオイストの大規模襲撃の中でも、最も周到に計画され、成功した襲撃だった。このときに王室ネパール軍の兵舎から強奪した武器はかなりの量にのぼり、バス10数台を使ってロルパまで運んでいる。“パサン”はこの襲撃を決行したのが約1100の部隊だったと書いている。2004年3月のミャグディ郡ベニ襲撃では、“ボランティア”を入れると6000人を超える人が参加した。ゴラヒ襲撃と比べると数倍の人数だが、ゴラヒ襲撃ほどの成功を収めることはできなかった。

 マオイストの機関紙「ジャナデシュ」は各郡にいる記者が書いた記事を、4人の編集者(東ネパール、中央ベース・エリア、西ネパール、インドの4つの地域に各一人ずつ)が各地で編集したものを、このなかの一人の編集長がまとめて彼らのウェブサイトにUPしている。このサイトがネパール国内でブロックされるようになってからは、毎週火曜日にE−メールで送ってくるようになった。マオイストに関する取材をする者にとっては、貴重な情報源の一つである。

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 “カンチャン”こと、アグニ・サプコタは5年前に会ったときよりも、さらに細くなったように見えた。サプコタ家は党内でも有名な“マオイスト一家”だ。40代後半になるカンチャンは5人兄弟の次男だが、病気で亡くなった長男を除く4人兄弟全員がマオイストの党員で、シンドゥパルチョーク郡の党インチャージを務める末の弟の“バンドゥ”もこの日の集会に来ていた。多くのリーダーが経験していることだが、サプコタ家からも人民戦争の犠牲者3人を出している。そのうち2人が、亡くなったサプコタ兄弟の長男の息子である。1人は1998年6月に警察に殺害され、もう1人は2001年11月のソルクンブー郡サッレリ襲撃で戦死した。そして、もう1人の犠牲者がバンドゥの長女スバドラだった。バンドゥの話によると、当時14歳だったスバドラは、1999年3月に起こった有名な“アネコット事件”の7人の犠牲者の1人だった。この事件は、歌や踊りのカルチャー・プログラムを終えて、マオイストのカルチャー・グループのメンバー7人が民家に集まっていたところを、警官隊が家に火をつけて外におびき出し、7人全員を射殺したものだ。リーダー格の少年は17,8歳で、少女4人を含む他のメンバー全員が14歳から15歳という年齢だった。

 集会は安全を考慮して、くぼ地にある段々畑で開かれた。最初はずいぶん参加者がすくないなと思ったのだが、集会が始まっても、スローガンをあげながら来る人が絶えず、最終的には数千人を超える人が集まった。演説の合間合間に、アネコット事件にちなんで命名された「アネコット記念文化中隊」の少年少女たちが歌や踊りを披露する。昨年10月にロルパ郡タバン村で会ったばかりのマオイストの学生組織ANNISU(革命)のレクナス・ネウパニ会長が演説をする。ネウパニも一昨年、新婚の妻を治安部隊に殺害されている。ネウパニは、「民主化運動だけでは、封建主義者を終わらせることはできない。武器をもたないとだめなのだ」と、武装闘争の必要性を説く。そして、「われわれは10年間、サトゥ(トウモロコシや大豆の粉を混ぜた食物)を食べて戦ってきた。これけらはサトゥを袋に入れて、カトマンズに行く」と話した。一方、メイン・ゲストであるカンチャンは最後に2時間におよぶ演説をした。まず、「治安部隊が四方を包囲しているにもかかわらず、こうして、集会に来てくれたことを感謝したい」と話し、「われわれも過去に過ちを犯した。人々からの暖かいマヤ(愛)を忘れた。党内で汚職もあった。人々を尊敬しなかったことも認める」と、さかんに謝罪の言葉を繰り返していたのが印象に残った。

 集会が終わったのは午後6時近かった。集会場からさらに2時間歩いたところにあるシェルターで、カンチャンは“記者会見”を開いた。私は翌朝、ロルパ郡出身の女性マオイスト“ウサ”にインタビューをした。実は、ウサは4人の人民解放軍副コマンダーの1人で、カトマンズ盆地を含むリング・エリアに駐屯する第三師団を率いる“アナンタ”の妻でもある。ウサは女性として、初めて、人民解放軍大隊のコミッサーになったリーダーで、以前から会いたいと思っていたロルパ出身マオイストの1人だった。まさか、今回の取材で会えるとは思っておらず、予想外の収穫だった。

 今回の取材で、何よりも驚いたのは、カトマンズからこれほど近いところ(おそらく、直線距離にして、50キロほどしか離れていないと思う)で、トップ・クラスのリーダーが参加して、これだけ大きな集会が開かれたことだ。周囲には治安部隊のキャンプが少なくとも数箇所あるにもかかわらず、ここでマオイストが集会を開いているという情報を、政府側がまったくつかんでいないことは明らかだった。王室ネパール軍は「われわれはすでに、マオイストの背骨を折った。治安はコントロールされている」と主張しているが、少なくとも、それは首都圏だけの話しで、カトマンズ盆地から一歩外に出ると、状況はまったく異なることを再認識した。

 この日の集会については、やはりプログラムに“招待”された週刊誌「Nepal」のボドゥラジ・バタ記者と、「Kantipur」のウジル・マガル記者が「United We Blog!」に書いている。(http://www.blog.com.np/?p=1123#more-1123

写真上は、無線電話で通話をしている“カンチャン”。
写真下は、「アネコット記念文化中隊」の踊り。


 

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 昨夜のネパールガンジ襲撃では、これまでに少なくとも8人(一般人1人、警官2人、軍兵士1人、マオイスト4人)が死亡したことが明らかになった。1月初めにマオイストが一方的停戦を破棄して以来の襲撃パターンを見ていると、彼らの主要部隊が中央ベース・エリア(ラプティ県)から特別中央コマンド(西はゴルカ郡から東はラメチャップ郡の間の地域。カトマンズ盆地を含む)にかけての地域、特に平野部と山岳地帯のボーダー付近に集中していると考えられる。それほど大きく報道されなかったが、彼らの新戦略を探るうえで、重要な交戦が21日夜から22日にかけて起きている。マクワンプル郡ファファルバリで起こった交戦である。22日夜、私はこの交戦について、カブレ郡のある村でマオイストの機関紙「ジャナデシュ」の記者から聞いて知った。

 この日の正午すぎ、私は1人でカトマンズを発って指示された場所に向かった。目的地に着いたのは午後6時すぎで、指定された場所で私を含めたジャーナリストのグループを待っていたのがこの記者だった。着いてから知ったのだが、私のほかに地元新聞や週刊誌・全国紙など、10人近い記者が“招待”されていた。この“ジャナデシュ”の記者は、この夜、「カトマンズ盆地の近くでこれだけ大規模な交戦が起こったのは初めてだ」とファファルバリ交戦について話し、その後、一般人2人、マオイスト側に21人、治安部隊側に60人を超える犠牲者が出たと話した。カトマンズに戻ってから23日付けの新聞を見ると、政府側は「マオイスト22人、一般人2人、治安部隊6人の死者が出た」と発表している。交戦はマオイスト側が仕掛けたものだった。ファファルバリはカマル・タパ内務大臣の実家がある村だ。治安部隊は、マオイストの大きな武装部隊がシンドゥリ、ラリトプル、マクワンプル、ラウタハトの境界付近に集結しているという情報を得て、掃討作戦に出かけたと伝えられている。これをマオイストの人民解放軍第3師団が迎え撃ちしたようだ。マオイストによると、交戦は8時間続いたという。犠牲者の数からしても、大規模な交戦だったことがわかる。

 さて、23日にマオイストの集会が開かれると聞いていたのだが、指定された村にはすでに、集会に参加するために大勢の人が集まっていた。ほとんどが学校の教師で、「強制的に参加させられたのですか?それとも、自分の意思で来たのですか」と聞くと、「興味があるから見に来たのだ」と応えていた。さらにしつこく「なぜ来たのですか」と聞くと、「アグニ・サプコタが演説すると聞いたからだ」と答えた人もいた。“カンチャン”ことアグニ・サプコタは、2001年に当時のデウバ政府とのあいだで開かれた最初の対話のマオイスト側対話団メンバーで、東ネパールのリーダーのなかではトップ・レベルのリーダーだ。シンドゥパルチョーク郡で最初の高校を設立した教師として、この地域では一般の村人のあいだで、今でも尊敬されている人物である。サプコタには、2001年10月の停戦中に、カトマンズでインタビューをしたことがあった。今回会うことができれば、5年ぶりの再会ということになる。私たちは、22日の夜を、ガウリシャンカルやジュガル・ヒマールが見える峰にある小さなバザールですごした。

写真はカブレ郡の村で、23日に開かれた集会のために建てられたマオイストのゲート

 マオイストが昨日、ようやく中央委員拡大会議の決定事項を公表した。プラチャンダ党首がE-メール声明を通じて公表した内容によると、拡大会議はコミュニストの共通歌「インターナショナル」の合唱で始まったとある。会議の初めにプラチャンダの提案書が読み上げられ、出席者“全員一致”でこれが可決されたとある。マオイストは、各レベルの人民政府議長を決めるときも、提案書を可決するときも、私の知るかぎり、ほとんどが“全員一致”である。意見の相違は本当にないのかと不思議に思うほどだ。それはともかく、政策に関する主な決定事項は以下のとおりである。
・独裁王政打倒のために、議会政党との協力が必要であること。
・暫定内閣、制憲議会、民主的共和制を目標とすること。
・複数政党制度、基本的人権に対する党のコミットメント。
 さらに、今年春に暴露されたプラチャンダ派とバブラム・バッタライ派の間の党内闘争に関しては、自己粛清などを通じて解決されたとある。そして、人民戦争の最終段階であるStrategical Counter-offensive(戦略的攻撃)の第一段階は“成功り”に終了して、次の段階の計画をしていること。政治戦略としては、議会政党との相互関係の改善に特に力を入れること。軍事戦略としては、人民解放軍の師団を3つから7つに増加することが決定されたとある。党組織に関しては、95人いた中央委員会を解体して、党総会を開催するまで、33人のメンバーからなるコーディネーション委員会を発足させたこと。プラチャンダを除いて、常備委員会、政治局、中央委員会の全メンバーをワンランク降格したこと。中央政府にあたる統一戦線も解散して、国民総会を開催するために、バブラム・バッタライをコーディネーターとする委員会を設置したことが決定事項に記されている。
 
 決定事項のほとんどはすでに党外にも漏れ出ていたが、政策に関する党決定の公表は、7政党とのあいだの同意を裏付けることにもなる。

 さて、メディアで散々騒がれた17日の“ニューデリー円卓会議”についてだが、これが真の意味での“円卓会議”ではなかったことは昨日、書いた。しかし、7政党(実際にはネパール統一共産党、ネパール会議派、人民戦線ネパールの3党)のトップが、マオイストの“トップ”と長い話し合いをするために、わざわざニューデリーに行ったことは真実だ。私が会った関係者は、「ネパールでは電話が盗聴されている恐れがあるために、電話で詳細を話すことはできなかった」と、インドに行った理由を話していた。もちろん、すべての話し合いが電話で行われたわけでもない。12ポイントの“了解あるいは同意(understanding)”(これは“合意(agreement)”ではないと、某政党リーダーがはっきりと言っていた)のなかで、明確でなかった点のうち、武装解除に関してだが、マオイストは制憲議会を通じて新憲法が制定されて、主権が完全に国民の手にわたったあと、議会に対して国軍、人民解放軍ともに武器を引き渡すと言っているという。これは、最終的に国軍の兵士と人民解放軍の兵士が混合した、新しい国軍が結成されるということだ。王室ネパール軍の士官が果たしてこうした方法に簡単に従うか否かは、大いに疑問が残ることだが、制憲議会後の新体制下で議会のもとで武装解除をすることにマオイストは合意している。

 いずれにしても、今回の“同意”はプロセスのごく最初にすぎない。正式合意に至るには、7政党内だけでも、調整が必要な事項がたくさんある。

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